第16話 旅のはじまり
朝の教会に、澄んだ鐘の音が響いていた。
教会の前では、神父やシスターたちが見送りに来てくれている。
「いってきます!」
アリアが元気いっぱいに手を振る。
「気を付けて行くんですよ」
神父がやさしく笑う。
「また遊びに来てくださいね」
「うん!」
何度も振り返りながら、アリアたちは教会をあとにした。
名残惜しさはあった。
けれど、立ち止まることはない。
この道は、きっとパパとママのいる場所へ続いている。
そう思うと、自然と足は前へ向いていた。
◇
朝の町は、今日もにぎやかだった。
パン屋からは焼きたての香りが漂い、八百屋では店先に野菜が並び始めている。
店先で話していた人たちが、三人の姿に気付く。
ふっと笑顔が向けられる。
アリアも思わず笑った。
ルカもその隣で笑みを浮かべる。
ほんの数日しか過ごしていない町なのに、不思議と帰ってくる場所が一つ増えたような気がした。
やがて、大きな城門が見えてきた。
門番はシリルの姿を見つけると、姿勢を正した。
「お気を付けて」
「ああ」
シリルが軽くうなずく。
門番はアリアたちへも穏やかな笑顔を向ける。
「良い旅を」
「はい!」
アリアは元気よく返事をした。
三人は城門をくぐった。
その瞬間、景色が大きく開ける。
どこまでも続く一本の街道。
風に揺れる草原。
空を遮るものは何もなく、青空が果てしなく広がっていた。
「……わあ」
思わず声が漏れる。
道は遠く地平線までまっすぐ伸び、その先は空へ溶け込んでいる。
「広いね……」
ルカも目を細めた。
「こんな景色、初めて見た」
シリルが二人の隣へ立つ。
「ここから先が街道だ」
「町と町を結ぶ道だ」
「この道を歩いて、次の町へ向かう」
アリアは胸の前でポシェットをそっと握る。
この道は、お父さんとお母さんのいる場所へ続いている。
そう思うと、不思議と胸が温かくなった。
アリアは小さくうなずく。
「行こう」
「うん」
三人は歩き始めた。
石畳が途切れ、靴の裏へ伝わる感触が土の道へ変わる。
その一歩が、本当の旅の始まりだった。
胸がどきどきする。
少しだけ不安もある。
でも、それ以上に楽しみだった。
街道には荷馬車の轍が幾筋も残り、その間から小さな花が顔をのぞかせている。
風が吹くたび、白い蝶が草原を横切った。
「この道」
アリアが遠くを見つめる。
「ほんとに、ずっと続いてる」
ルカも前を見たまま笑う。
「歩いても歩いても終わらなさそうだね」
シリルは口元を少し緩めた。
「何日も歩いて隣の国まで旅をする者もいる」
「何日も?」
アリアは目を丸くする。
「毎日歩くの?」
「ああ。朝から夕方まで歩き、町や村で休みながら進む」
「……すごい」
アリアは街道の先を見つめた。
「わたしたちも、そんな旅をするんだ」
「そうなるな」
シリルは穏やかに答えた。
「だが、最初から遠くばかり見なくていい」
「まずは今日の町までだ」
「うん!」
アリアは元気よくうなずいた。
「まずは今日!」
ルカも笑う。
「一日ずつだね」
風が草原を渡り、夏草がさわさわと揺れる。
広い空の下を、ただひたすら歩いていく。
ときおり鳥が空を横切り、小さな白い花が風に揺れていた。
あれから、どれくらい歩いただろう。
気がつけば、太陽は真上まで昇っていた。
朝は軽かった足も、少しずつ重くなってくる。
アリアは黙ったまま歩く。
一歩。
また一歩。
歩幅は変わらないつもりなのに、足が少しずつ重くなっていた。
隣を歩くルカは、そっとアリアへ目を向ける。
何も言わず、自分の歩く速さをほんの少しだけゆるめた。
アリアはそのことに気付かないまま、前だけを見て歩き続ける。
前方に一本の木が見えてきた。
「ルカ」
「うん?」
「あそこまで行こう」
ルカは木を見て笑った。
「うん」
二人は自然と歩幅をそろえる。
ようやく木陰へたどり着くと、アリアは小さく息を吐いた。
「着いたぁ」
そのまま顔を上げる。
街道の先には、また一本の木が立っていた。
ルカもそれに気付き、思わず笑う。
「次は、あの木かな」
アリアもつられて笑った。
「今日は木を追いかける旅だね」
二人はもう一度歩き始める。
その様子を見ながら、シリルは小さく口元を緩めた。
無理に急ごうとはしない。
立ち止まりもしない。
自分たちなりの歩く速さを、少しずつ見つけ始めている。
初めての旅としては、それで十分だった。
やがて街道脇に、大きく枝を広げた樫の木が見えてきた。
このあたりでは珍しいほど大きな木だ。
葉の下には深い木陰ができ、涼しい風が吹き抜けている。
シリルは樫の木を見上げた。
「昼にしよう」
アリアは樫の木とシリルを見比べる。
「シリル、おなか空いた?」
シリルは少しだけ笑った。
「ああ。俺が空いた」
ルカが思わず吹き出す。
「シリルは全然疲れてなさそうなのに」
「騎士でも腹は減る」
「そうなんだ」
アリアは安心したように笑った。
「じゃあ、お昼!」
三人は木陰へ向かって歩いていった。
樫の木の下は、別世界のように涼しかった。
葉の間を抜けた風が、火照った頬をやさしくなでていく。
「わあ……」
アリアは思わず見上げた。
「気持ちいい」
ルカも木の幹へ背中を預け、大きく息を吐く。
「生き返るね」
マルルはルカの肩からぴょんと飛び降りると、草の上へぺたりと寝転んだ。
「つかれたなの……」
二人は思わず顔を見合わせて笑う。
シリルは荷物を下ろした。
「まずは水を飲もう」
アリアがポシェットへ手を入れる。
取り出した水筒は、朝しまった時のまま、ひんやりと冷たかった。
「わぁ、まだ冷たい!」
「女神様のポシェットだからね」
ルカが笑う。
二人は水を飲んだ。
冷たい水が喉を通るたび、体の中へ少しずつ力が戻ってくる。
「おいしい……」
アリアはほっと息をついた。
「歩いてるときは気付かなかったけど、すごく喉が渇いてた」
「旅では、喉が渇く前に飲むくらいがちょうどいい」
シリルは穏やかに言った。
「疲れる前に休む」
「歩けなくなる前に食べる」
「それも旅を続けるためには大事なことだ」
アリアは今度はパンを取り出した。
ふわりと焼きたての香りが広がる。
「まだあったかい!」
アリアが目を輝かせる。
ルカも思わず笑った。
「ほんとだ」
「朝のままだね」
三人はパンを手にした。
「いただきます」
歩いたあとの焼きたてのパンは、それだけでごちそうだった。
しばらくは誰も話さない。
樫の葉を揺らす風の音だけが、静かに耳へ届いてくる。
アリアはパンをひと口食べると、自分の足へ目を向けた。
少しだるい。
朝は何ともなかったのに、歩くだけでこんなに疲れるなんて思わなかった。
「どうした?」
ルカが声をかける。
アリアは少し照れくさそうに笑った。
「足がね」
「思ってたより疲れてた」
「僕も」
ルカは苦笑する。
「朝は、もっと歩ける気がしてた」
「うん」
「わたしも」
二人は顔を見合わせる。
それだけで、また笑ってしまった。
シリルはその様子を静かに見守っていた。
「初めての旅で半日歩けば、それだけで十分だ」
「女神様の加護があっても、歩くのは自分たちだからな」
「二人とも、よく歩いた」
アリアは少し驚いたように顔を上げた。
「ほんと?」
「ああ」
「途中で弱音も吐かなかった」
「立ち止まりたいとも言わなかった」
「だから今は、ちゃんと休めばいい」
アリアはもう一度、自分の足を見た。
少し重たい。
でも、その足でここまで歩いてきた。
朝、教会を出てから歩いてきた街道が、木陰の向こうへまっすぐ続いている。
「……ねえ」
アリアがぽつりと言う。
二人が顔を向けた。
「今日だけでも」
少し照れながら笑う。
「ちゃんと進めたよね」
ルカは歩いてきた道を振り返る。
遠くまで続く街道が、ゆらゆらと陽炎の向こうへ伸びている。
そして前にも、同じように道は続いていた。
「うん」
ルカはゆっくりうなずく。
「朝より、ずっと先まで来た」
アリアの笑顔が少しだけ誇らしくなる。
「明日も頑張れそう」
シリルは静かに微笑んだ。
朝は、旅が始まることがうれしかった。
今は、それだけではない。
自分の足で歩けた。
その小さな自信が、二人の中に芽生え始めていた。
シリルは立ち上がった。
「少し休んだら、もうひと頑張りだ」
「今日泊まる町は、もう遠くない」
「うん!」
アリアは元気よく返事をした。
◇
次の町の騎士団には、一通の通達が届いていた。
西方騎士団団長シリル・アルフォード。
女神の加護を受けた三人の子どもを伴い、本日夕刻到着予定。
護衛任務は担当区域ごとに引き継ぐこと。
なお、引き継ぎまでは不用意な接触を禁ずる。
団員たちは、その紙を何度も見返していた。
「団長が連れてくる子どもたちか……」
「女神の加護を受けたって、本当なんですかね」
「気になるなぁ」
そんな声があちこちから聞こえてくる。
一人の若い騎士が、そっと立ち上がった。
「ちょっと街道の見回りに行ってきます」
「見回り?」
「交代まで少し時間がありますし」
そう言うと、返事を聞くより早く馬へまたがる。
見回り。
もちろん嘘ではない。
ただ、それだけでもなかった。
◇
若い騎士は街道から少し離れた林へ馬を止めた。
木の陰から、そっと街道をのぞく。
やがて三人の姿が見えてきた。
先頭を歩くシリル。
その後ろを歩く、小さな二人。
肩には白い小さな生き物。
「……」
若い騎士の目が丸くなる。
(あの子たちが……)
アリアが何かを見つけて笑う。
ルカも笑う。
マルルがぴょこんと跳ねる。
(かわいい……)
思わず頬がゆるむ。
(いやいや、仕事中だぞ)
自分に言い聞かせても、もう一度見てしまう。
(あの子が……女神様の加護を受けた……)
その時だった。
シリルが、ふと林の方へ視線を向けた。
「!」
若い騎士の背筋がぴんと伸びる。
見つかった。
そう思った。
けれど、シリルは何も言わない。
ほんのわずかに口元を緩めただけで、そのまま前を向いて歩いていく。
「……」
若い騎士は胸をなで下ろした。
(団長……気付いてますよね)
それでも止められなかったということは。
(ありがとうございます……)
心の中だけで敬礼すると、静かに馬の向きを変えた。
◇
騎士団へ戻ると、待っていた団員たちが一斉に振り返る。
「どうだった?」
「見たのか?」
「ずるいぞ!」
若い騎士は思わず笑ってしまった。
「……かわいかったです」
「いいなぁ!」
「俺も見たかった!」
「だから言っただろ、見回りなんて口実だって」
詰め寄る仲間たちに囲まれながら、若い騎士は照れくさそうに頭をかく。
そのころ。
アリアたちは何も知らないまま街道を歩いていた。
やがて前方に、夕日に染まる城壁が大きく見えてくる。
「あっ!」
アリアが目を輝かせる。
「町だ!」
ルカも笑顔になる。
「着いたね」
夕暮れの鐘が、茜色の町の空へ静かに響いていた。
遠くに見えていた城壁は、もうすぐ目の前だった。
ルカも笑顔になる。
門をくぐる人々の姿。
行き交う荷馬車。
夕食の支度をする香りが、町の中から風に乗って流れてきた。
「今日はここまでだ」
シリルが振り返る。
二人は大きくうなずいた。
「うん!」
朝は遠く感じていた町が、今は目の前にある。
自分たちの足で歩いてきた。
それだけで、少しだけ胸を張れる気がした。
三人は並んで門をくぐる。
こうして、旅の一日目は静かに幕を閉じた。




