第15話 旅立ちの日
翌朝。
まだ朝露の残る教会の庭へ、最初に響いたのは、小鳥たちの澄んださえずりだった。
東の空から昇った朝日が教会の尖塔を淡い金色に染め、色とりどりの花が咲く庭には、昨夜の風に運ばれた花びらが静かに散っている。
今日は、旅立ちの日。
教会の中では、いつもより少し早い時間から人の気配が動き始めていた。
神父はまだ誰もいない礼拝堂で祈りを捧げ、シスターは食堂と台所を何度も行き来しながら朝食の支度を整えている。
教会の裏口が開いたのは、ちょうど大きな籠いっぱいのパンが焼き上がった頃だった。
「おはようございます」
焼きたての香りとともに、パン屋の女性が顔をのぞかせる。
「おはようございます。今日もありがとうございます」
シスターは笑顔で籠を受け取ると、まだ温かな丸パンを一つずつ木の籠へ並べていった。
「今日は、いつにも増していい香りですね」
「朝一番の窯で焼いたからね。少し気合いを入れすぎたかもしれないよ」
パン屋の女性は楽しそうに笑い、籠の中を確かめていたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうそう。この前、うちのお得意さんから聞かれたんだけどね」
「はい?」
「町へ来た子どもたちに、教会へ行ってごらんって教えたらしいんだよ。あの三人、ちゃんとここへ来られたのか、元気にしてるのかって、ずっと気にしてたよ」
シスターの顔へ、柔らかな笑みが広がった。
「ええ。皆さん、とても元気ですよ。毎日よく食べて、よく笑っていらっしゃいます」
「そうかい。それならよかった」
パン屋の女性は、安心したように胸をなで下ろした。
「親御さんも見当たらない、小さな子どもばかりだったって聞いたからね。あの人も、教会へ案内しただけでよかったのかって、気にしてたんだよ」
シスターはパンを並べていた手を止め、少しだけ目を伏せた。
「実は、今日が旅立ちの日なんです」
「今日?」
パン屋の女性は目を丸くした。
「もう出発するのかい」
「はい。朝のお祈りを済ませたら、最初の町へ向かわれます」
パン屋の女性はしばらく黙って籠の中を見つめていたが、やがて袖をまくり直すような仕草をして笑った。
「それなら、旅の途中で食べられるように、もう少し包んであげよう。小さい子は、お腹が空くと歩けなくなるからね」
「ありがとうございます。きっと喜びます」
「帰りに、あの人にも知らせてくるよ。今日だと知ったら、きっと顔を見に来るだろうから」
シスターは静かにうなずいた。
「ええ。きっと、安心なさると思います」
パン屋の女性が再び裏口から出ていくと、朝の風に乗って、焼きたての香りが町の通りへ流れていった。
◇ ◇ ◇
二階の部屋では、白いカーテンが窓から入り込む風にふわりと揺れていた。
アリアは窓を大きく開き、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
「……いい天気」
教会の屋根の向こうには、雲一つない青空が広がっている。
昨日までは、その向こうに何があるのか想像するだけだった。
大きな湖。
船が並ぶ港町。
真っ白な雪に覆われた遠い土地。
そして、家族へ続く道。
今日からは、自分の足でその景色へ近づいていく。
アリアは肩から掛けたポシェットを胸元へ引き寄せ、両腕で大切そうに抱えた。
女神様から贈られた、不思議な鞄。
中には着替えや食べ物が入り、必要な時にはいつでも取り出すことができる。
昨日までと同じポシェットなのに、今朝は少しだけ頼もしく見えた。
これから知らない町へ行く時も。
寂しくなった時も。
お腹が空いた時も。
ずっと一緒に歩いてくれる。
「行くんだね」
口にした途端、胸の奥が小さく弾んだ。
怖くないわけではない。
村がどこに流されてしまったのかも、最初の欠片がどんな場所にあるのかも分からない。
それでも、早く最初の道を歩いてみたいという気持ちは、昨日よりずっと大きくなっていた。
隣では、ルカが首元の青い木のチョーカーへ指を添えていた。
今日のためにしまった着替えや旅道具が、その中に収められている。
森へ仕事に出る父が、出発の前に何度も荷物を確かめていた姿を思い出す。
子どもの頃は、必要なものはもう入っているのに、どうして何度も見直すのだろうと思っていた。
けれど今は、少しだけ分かる。
忘れ物をしないためだけではない。
大切な人のところへ、無事に帰ってくるためだったのだ。
ルカは窓の向こうへ目を向け、そっと瞳を閉じた。
父さん。
母さん。
待っていて。
必ず探しに行くから。
それでも、昨日までのように拳を固く握ることはなかった。
急ぐだけでは、最後までたどり着けない。
シリルに教えられた言葉が、今は胸の中へ静かに残っている。
「父さん」
声には出さず、心の中で呼びかける。
「行ってくる」
床では、マルルが胸元から下がる小さなコンパクトを何度ものぞき込み、前足でそっと押さえていた。
昨日、地図の上へ一本の光を伸ばし、最初の行き先を示した不思議な鍵。
アリアが振り返ると、マルルは長い耳を揺らしながら二人を見上げた。
「……忘れ物ないなの?」
「うん。大丈夫」
アリアはポシェットへ手を添える。
ルカもチョーカーを確かめ、小さくうなずいた。
「ぼくも大丈夫」
顔を見合わせると、三人の間へ自然と笑みが広がった。
その笑い声が廊下まで届いたのか、扉の向こうからシスターの声が聞こえてくる。
「皆さん。朝ご飯の用意ができましたよ」
「はーい!」
アリアは元気よく返事をすると、扉へ駆け出した。
「アリア、廊下は走らない」
ルカがすぐに声を掛ける。
アリアは足を止め、振り返って照れくさそうに笑った。
「歩く」
「うん」
二人が並んで部屋を出ると、マルルも小さな足でぴょんぴょんと後を追った。
今日から始まる、家族を探すための旅。
きっと、楽しいことばかりではない。
それでも最初の一歩だけは、笑って踏み出したい。
アリアの胸には、そんな小さな決意が芽生えていた。
◇ ◇ ◇
三人が食堂へ入ると、焼きたてのパンと、野菜をじっくり煮込んだスープの香りが、温かな空気と一緒に迎えてくれた。
木の机には丸パンと果物が並び、窓から差し込む朝日が器の縁を柔らかく照らしている。
「おはようございます」
シスターが振り返る。
「おはよう!」
アリアが元気に答え、ルカも丁寧に頭を下げた。
「おはようございます」
神父は読んでいた紙面を静かに畳み、三人を穏やかな笑顔で迎えた。
「よく眠れましたか」
「うん。今日は、すぐに目が覚めちゃった」
アリアが答えると、シスターは少しだけ目を細めた。
「楽しみな朝は、大人でも早く目が覚めるものですよ」
「シスターも?」
「ええ。私も今朝は、いつもより早く起きました」
その理由が自分たちの旅立ちなのだと気づき、アリアは少し照れくさそうに笑った。
三人は席に着くと、そろって手を合わせる。
「いただきます」
パンをちぎり、温かなスープを口へ運ぶ。
何度か食べた、同じ味だった。
けれど今日は、一口ずつがいつもよりゆっくりと胸へ染み込んでいく。
アリアはパンを飲み込みながら、食堂の中を見回した。
白い壁。
木目の残る机。
朝日を受けて揺れるカーテン。
台所から聞こえる食器の音。
どれも、ここへ来たばかりの頃には知らなかったものだった。
村を失い、どこへ行けばよいのかも分からず、眠る場所さえなかったあの日。
この教会の扉を開けた時、自分たちは本当に小さな迷子だった。
けれど、今は違う。
ここには、自分たちの帰りを待ってくれる人がいる。
「どうしました?」
アリアの視線へ気づいたシスターが尋ねる。
「ここで朝ご飯を食べるの、今日で最後なんだなって思って」
自分で口にした途端、少しだけ胸が寂しくなった。
シスターは驚いたように瞬きをしたあと、アリアの目を見て優しく笑った。
「最後ではありませんよ」
「え?」
「今日は旅立ちの日ですが、また帰ってくる日もあります。いつでも、この教会へ帰ってきてください」
その言葉を聞きながら、ルカも食堂を見回した。
帰ってきていい場所。
村がなくなった今、自分たちにはもうないと思っていたものだった。
それなのに、この町へ来てから、少しずつ増えている。
神父やシスターがいる、この教会。
これから訪ねる町にも、自分たちを迎えてくれる教会があるという。
失ったものを取り戻す旅へ出る前から、もう新しいものを受け取っていることに、ルカは静かな驚きを感じていた。
食事を終える頃、シスターは席を立った。
「皆さんへ、お渡ししたいものがあります」
しばらくして戻ってきたシスターの腕には、三冊の小さな本が抱えられていた。
手のひらより少し大きい布張りの本で、表紙には色の違う小さな花が一輪ずつ刺繍されている。
「旅立ちの贈り物です」
「わあ……」
アリアは両手で受け取り、指先で刺繍をそっとなぞった。
「かわいい」
ルカも本を開き、並んでいる文字を見つめる。
最初のページには、大きく書かれた一文字と、その下に、何度もなぞれるよう薄い線で同じ文字が並んでいた。
「これは、文字を覚えるための本です」
シスターの説明を聞き、アリアの目が少しだけ丸くなった。
「お勉強?」
「旅の宿題ですよ」
「旅なのに、宿題があるの?」
思わず神父を見ると、神父は声を立てずに笑っていた。
「旅だからこそ、必要なのです」
シスターはアリアの本を開いたまま続ける。
「これから皆さんは、たくさんの町を訪ねます。町の名前や地図に書かれた言葉が読めるようになれば、自分たちで分かることが増えていきます」
「自分で読めるの?」
「少しずつ覚えれば、きっと」
アリアは昨日の地図を思い出した。
たくさんの線と印の間に、小さな文字がいくつも書かれていたけれど、どれが町の名前なのかも分からなかった。
あれを自分で読めるようになる。
そう思うと、宿題という言葉が、少しだけ楽しそうに聞こえてきた。
「それに、文字が書けるようになれば、お世話になった方へ自分でお手紙を送ることもできます」
「お手紙……」
アリアの瞳が輝く。
旅の途中で出会った人へ。
教会に残る神父やシスターへ。
離れた場所からでも、自分の気持ちを届けられる。
「書いてみたい」
「次の町へ着いたら、そこのシスターに続きを教えてもらってください。その次の町では、また別のシスターが教えてくれます」
ルカは手の中の本を見つめた。
「町ごとに先生が変わるんですか」
「ええ。王国中の教会が、皆さんの学びをつないでいきます」
学校のように同じ教室へ通うのではなく、町から町へ歩きながら、出会った人から少しずつ文字を教わる。
そんな学び方があることを、ルカは初めて知った。
旅が終わる頃には、どれくらい読めるようになっているのだろう。
その時、自分は父や母へどんな手紙を書けるのだろう。
ルカは本を大切そうに閉じた。
アリアは布張りの本を胸へ抱き、シスターを見上げる。
「文字が書けるようになったら、一番最初にシスターへお手紙を書くね」
一瞬、食堂が静かになった。
シスターの瞳がわずかに潤み、それでもいつもの優しい笑顔は崩れなかった。
「楽しみに待っています」
アリアも笑い返した。
旅は、家族へ会うために出るものだった。
けれど、帰ってきたら話を聞いてほしい人や、手紙を届けたい人も、もうでき始めている。
アリアは本をポシェットへ大切にしまいながら、胸の中へ小さな宝物が一つ増えたように感じていた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えると、神父は三人を礼拝堂へ案内した。
高いステンドグラスを透かした光が、赤や青の帯となって石の床へ落ちている。
昨日、女神様のことを話した場所。
不安でいっぱいだった自分たちの話を、シリルが最後まで聞いてくれた場所。
同じ礼拝堂なのに、今日は別の場所のように見えた。
神父は祭壇の前で振り返り、アリア、ルカ、マルルの顔を順番に見つめた。
「旅立つ前に、一つだけ覚えていてください」
三人は静かに耳を傾ける。
「旅は、誰かと速さを競うものではありません。一歩ずつ進めば、それで十分です」
アリアは隣のルカへ目を向けた。
昨日、シリルからも、急がず仲間と一緒に歩くことを教えられた。
同じ言葉を別の人から聞いたことで、それが本当に大切なことなのだと、胸の中へゆっくり根を下ろしていく。
「困った時は立ち止まり、誰かを頼ってください。悲しい時は、泣いてもかまいません。嬉しい時は、たくさん笑ってください」
神父は穏やかに微笑んだ。
「皆さんが笑って歩けることが、きっと何よりの祝福になるでしょう」
アリアは少しだけ胸を張った。
家族を探さなければならない。
必ず会いに行く。
その決意は変わらない。
けれど、悲しい顔だけで歩く必要はないのだ。
初めて見るものに驚き、知らない町を楽しみ、たくさん笑いながら家族のもとへ向かってもいい。
そのことが、今のアリアにはとても嬉しかった。
神父が静かに目を閉じると、礼拝堂へ穏やかな祈りの時間が流れた。
窓の外から小鳥の声が届き、木々を渡る風が葉を揺らしている。
祈りが終わると、神父は三人のそばへ歩み寄った。
最初にアリアの頭へ手を添える。
「どうか、たくさんの優しい出会いに恵まれますように」
「ありがとうございます」
アリアは少しくすぐったそうに笑った。
次に、神父はルカの頭へ手を添える。
「どうか、あなたの優しさが、あなた自身を苦しめるものになりませんように。困った時には、誰かを頼るのですよ」
ルカはその言葉を胸へ受け止め、深く頭を下げた。
「はい」
最後に、神父はマルルの頭をそっと撫でた。
長い耳がぴくりと揺れる。
「あなたも、二人と一緒に、よい旅を」
「はいなの」
短く答えたマルルは、少し誇らしそうに胸を張った。
その様子に、礼拝堂へ小さな笑いが広がる。
笑い声が静まるのを待ってから、シリルが一歩前へ出た。
「俺からも、一つだけだ」
騎士団長らしいよく通る声だったが、昨日までの厳しさとは少し違っていた。
「世界は広い。たくさん見て、たくさん学んでこい」
シリルはアリアたち三人を、まっすぐ見つめる。
「帰ってきたら、旅の話を聞かせてくれ」
帰ってくることを疑っていない言葉だった。
待っていると、当たり前のように伝えてくれる言葉だった。
アリアはポシェットを抱き、力いっぱいうなずく。
「うん。いっぱいお話しする」
ルカもチョーカーへ触れながら、静かに笑った。
「約束します」
シリルは満足そうにうなずいた。
「よし。では、行こう」
その一言で、旅立ちの朝が、本当に動き始めた。
◇ ◇ ◇
礼拝堂から外へ出ると、夏の風が三人の頬を優しくなでた。
庭には朝の陽射しが降り注ぎ、昨日アリアが追いかけた花びらが、芝生の上で小さく揺れている。
黒馬のそばでは騎士たちが出発の支度を終え、シリルは手綱を持ったまま三人の歩幅に合わせて門へ向かった。
教会の門のそばに、二人の女性が立っていた。
一人は、大きな布包みを抱えたパン屋の女性。
もう一人の顔を見た瞬間、アリアは足を止めた。
「あっ」
町へ来たばかりの日。
行く場所も分からず立ち尽くしていた三人へ、教会へ行ってごらんと声を掛けてくれた女性だった。
女性もアリアへ気づき、安心したように笑った。
「ちゃんと教会へ来られたのね」
「おばちゃん!」
アリアは駆け寄ろうとして、昨日ルカに言われたことを思い出したように途中から速度を緩めた。
それでも表情いっぱいの喜びは隠せない。
「あの日、おばちゃんが教えてくれたから、神父様とシスターに会えたの。ありがとう」
女性はアリアの前へしゃがみ、その乱れていない髪をそっと撫でた。
「元気そうで安心したわ。ずっと、どうしているのか気になっていたのよ」
ルカも女性のそばへ来ると、丁寧に頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
あの日、この人が声を掛けてくれなければ、自分たちは教会へたどり着けなかったかもしれない。
女神様にも会えず、家族を取り戻すための道さえ見つからなかったかもしれない。
たった一言が、ここまで自分たちを連れてきてくれた。
女性はルカの顔を見て、柔らかく笑った。
「大したことはしていないわ。困っているように見えたから、教えただけよ」
けれどアリアには、それが大したことではないとは思えなかった。
「家族を探しに行くの」
アリアが言うと、女性は少し驚き、それから力強くうなずいた。
「そう。きっと会えるわ」
「うん」
「帰ってきたら、また顔を見せてね」
「約束する」
アリアの返事を聞き、女性の目元が優しく和らいだ。
「こっちは、旅のお弁当だよ」
パン屋の女性が、抱えていた布包みを差し出した。
焼きたての香りが、包みの外まで漂っている。
「いいの?」
「もちろん。朝からたくさん焼いたんだから、遠慮しないで持っておいき」
アリアは両手で受け取り、ポシェットの口を開いた。
布包みを近づけると、淡い光に包まれながら、するりと中へ吸い込まれていく。
「入った」
「途中でお腹が空いたら、ちゃんとみんなで食べるんだよ」
「うん。ありがとう」
マルルの耳が、焼きたての香りに反応してぴくりと動いた。
その様子を見たパン屋の女性が笑う。
「小さい子の分も、ちゃんと入ってるからね」
マルルは嬉しそうに耳を揺らしたが、言葉の代わりに一度だけ大きくうなずいた。
やがて、教会の鐘が鳴り始める。
カーン。
カーン。
澄んだ音が青い空へ広がり、町の屋根や石畳の上をゆっくりと渡っていく。
神父は門の内側に立ち、三人を見つめて穏やかに微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
シスターも、胸の前で両手を組みながら笑う。
「疲れた時は、どこの町でも教会の扉をたたいてください。皆さんを待っていますから」
アリアは大きくうなずいた。
「うん。また帰ってくる」
ルカも神父とシスターへ向かい、深く頭を下げる。
「お世話になりました。必ず、また来ます」
「楽しみに待っていますよ」
シリルは三人の少し前へ立ち、町の外へ続く道を見た。
「準備はいいか」
アリアはポシェットを確かめる。
ルカはチョーカーへ触れる。
マルルは胸元のコンパクトを前足でそっと押さえた。
三人は顔を見合わせる。
「うん」
今度の返事は大きくなかった。
それでも、三人の心は同じ方向を向いていた。
シリルは静かにうなずく。
「まずは、リーネの町を目指す」
アリアは門の外へ目を向けた。
朝日に照らされた石畳が、町の通りを抜け、その先へ続いている。
昨日までなら、すぐに走り出していたかもしれない。
けれど今日は、最初の一歩を踏み出す前に、もう一度だけ振り返った。
神父。
シスター。
町へ来た日に助けてくれた女性。
焼きたてのパンを持たせてくれた人。
みんなが笑顔で、自分たちを見つめている。
この町へ来た時は、何も持っていないと思っていた。
けれど今は。
ポシェットの中には旅の荷物があり、胸の中には、帰ってきていいと言ってくれた人たちの言葉がある。
アリアは胸いっぱいに朝の空気を吸い込み、笑った。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
返ってきた声が、教会の鐘の音と一緒に夏の空へ広がる。
アリアは前を向き、石畳へ一歩を踏み出した。
その隣へルカが並び、マルルも小さな足で二人のあとを追う。
一歩。
もう一歩。
三人の影が、朝の道へ並んで伸びていく。
家族を探すための旅。
そして。
まだ見ぬ景色に出会い、知らない人と言葉を交わし、少しずつ世界を知っていく旅。
小さな天使と、その家族が歩く物語は、ここから始まる。




