第108話 小さなアリアーヌ
その頃、居間で待っていた者たちのところにも、赤ちゃんの泣き声ははっきりと届いていた。
「おんぎゃあ! おんぎゃあ!」
ルカが、はっと顔を上げた。
ノルンも開いていた本から目を離し、足元にいたマルルの長い耳がぴんと立つ。少し離れた壁際では、エリオもすぐに奥の扉へ顔を向けていた。
そして、それまで扉の近くで立ったまま動かなくなっていたレオンハルトが、勢いよく振り返った。
「……今の」
誰に尋ねたわけでもない。
けれど、その問いへ答えるように、もう一度力いっぱいの泣き声が奥から響いてきた。
「おんぎゃあ!」
レオンハルトは扉を見つめたまま、しばらく動かなかった。
朝から何度も居間の中を歩き回り、椅子へ腰を下ろしてもじっとしていられず、何かできることはないかと尋ねても、結局はここで待つしかなかった。
何もできないまま過ぎていった長い時間の向こうから、ようやく届いた声だった。
「生まれた……?」
ルカも立ち上がっていた。
「たぶん……」
そう答えたレオンハルト自身が、まだ信じきれていないように扉を見つめている。
やがて奥の扉が開き、一人の侍女が姿を現した。
その顔を見た途端、レオンハルトはほとんど駆けるように近づいた。
「どうだ?」
「レオンハルト様」
侍女は深く頭を下げた。
「お生まれになりました。元気な女のお子様です」
「女の子……」
レオンハルトの喉が小さく動いた。
けれど、まだその顔には笑みが浮かばない。
「アデリーヌは?」
「大変お疲れではございますが、ご無事です」
その言葉を聞いた瞬間、朝から張りつめていたものが一気にほどけたように、レオンハルトの肩が大きく下がった。
「……そうか」
声はひどく小さかった。
そのまま俯き、片手で顔を覆ったまま、しばらく何も言わない。
やがて掌の向こうから、掠れた声が漏れた。
「……よかった。本当に……よかった……」
目元を拭っても、またすぐに涙が滲んでくる。
けれど、今度は隠そうとしなかった。
そこへ奥から、もう一度赤ちゃんの泣き声が響いた。
レオンハルトが顔を上げる。
「俺の子だ……」
涙の残る目が少しずつ細くなり、ようやく顔に笑みが広がっていった。
「俺の娘だ!」
その声が、静かだった居間から廊下まで響く。
近くにいた侍女が思わず振り返り、ルカまで目を丸くした。
「生まれた!」
今度はさらに声が大きくなる。
「アデリーヌ……よく頑張った……!」
「レオンハルト様」
とうとう侍女が笑いながら声を掛けた。
「お気持ちはよく分かりますが、もう少しお静かにお願いいたします」
「……すまない」
一応は素直に声を落としたものの、口元の笑みまでは戻らない。
「だって、生まれたんだぞ」
「はい」
「女の子だそうだ」
「先ほど、わたしが申し上げました」
「ああ……そうだった」
どうやら、まだ頭がうまく働いていないらしい。
その様子に、ルカがとうとう吹き出した。
「何だ?」
「いや、別に」
「何か言いたそうだな」
「まだ涙、残ってるなって」
「……泣いてない」
「残ってるよ」
レオンハルトは慌てて目元を拭った。
「これは、その……」
「涙だと思う」
「分かってる!」
さっきまで張りつめていた居間へ、ようやく笑い声が戻る。
その足元へマルルまでぴょんぴょんと近づいてきた。
「泣いてるなの」
「君まで言うのか」
「嬉しいなの?」
その問いに、レオンハルトは少しだけ黙った。
もう一度目元を拭ってから、今度は隠すことなく頷く。
「ああ。すごく嬉しい」
壁際からその様子を見ていたエリオも、何も言わずに口元を緩めていた。
◇
しばらくして、奥の部屋の扉が開いた。
先に出てきたセレフィナに続いてアリアも廊下へ姿を見せ、レオンハルトを見つけた途端、顔いっぱいに笑みを広げた。
「レオンハルトお兄ちゃん! 女の子だよ!」
「聞いた」
「ちっちゃいよ!」
「それも想像はしてる」
「マルルより大きかった!」
「なぜマルルと比べるんだ」
思わず返したレオンハルトの顔を、アリアはそこでじっと見た。
目元が少し赤い。
「……泣いた?」
「泣いてない」
返事だけは早かった。
アリアはすぐにルカを見る。
「ルカ」
「泣いてたよ」
「ルカ!」
間髪を入れずに答えられ、レオンハルトが振り返る。
「やっぱり!」
アリアは嬉しそうに笑った。
「嬉しかった?」
「ああ」
今度はもう誤魔化さなかった。
「嬉しかったよ」
「わたしも!」
アリアは勢いよく両手を広げかけたものの、ここが廊下なのを思い出したらしく、途中でそっと胸の前へ戻した。
「すっごく嬉しい」
その様子を見たレオンハルトの顔が、少しだけ柔らかくなる。
「アデリーヌは?」
「疲れてるけど、笑ってたよ。赤ちゃんも元気!」
その二つをもう一度聞いたことで、ようやく本当に安心できたのかもしれない。
レオンハルトは長く息を吐いたあと、すぐに扉へ目を向けた。
今すぐ中へ入りたいのだと、アリアにも分かる。
けれど、まだ産婆や侍女たちは中で動いていた。
「もう少しお待ちください」
セレフィナに言われると、レオンハルトは扉から目を離さないまま頷いた。
「……分かりました」
「さっきまでいっぱい待ったのに、また待つね」
アリアが言う。
「そうだな」
「待つの大変でしょ?」
「今日ほど長いと思ったことはない」
「わたしも満月の時、長かったよ」
どうやら同じ気持ちが分かる相手を見つけたらしい。
アリアが少し得意そうに頷くと、レオンハルトもようやく笑った。
◇
レオンハルトが部屋へ入ることを許されたのは、それから少し経ってからだった。
扉の向こうへ消えていく背中を見送りながら、アリアは首を傾げる。
「どうするかな」
「何が?」
ルカが尋ねた。
「赤ちゃん見たら」
「見るんでしょ」
「また泣くかな」
ルカは少し考えた。
「泣くんじゃない?」
「見たい」
「見ちゃ駄目でしょ」
「ちょっとだけ」
「駄目」
「そっか」
意外なほどあっさり諦めると、アリアは扉を気にしながらもルカの隣へ戻った。
その頃、扉の向こうでは、レオンハルトが初めて娘と向かい合っていた。
◇
寝台のそばまで来たレオンハルトは、そこで足を止めた。
「……この子?」
アデリーヌの腕の中には、小さな赤ちゃんが眠っている。
つい先ほどまで廊下へ届くほど大きな声で泣いていたとは思えないほど静かで、疲れたのか目を閉じたまま、ときどき小さな口だけを動かしている。
「ええ」
アデリーヌが疲れた顔で笑った。
「あなたの娘よ」
返事はなかった。
レオンハルトは赤ちゃんを見つめたまま、本当に動かなくなっている。
「抱いてみる?」
その言葉で、ようやく目が動いた。
「俺が?」
「父親でしょう?」
「だが……」
赤ちゃんを見る。
次に自分の腕を見る。
そして、また赤ちゃんへ目を戻した。
「小さすぎないか?」
「赤ちゃんですもの」
「壊れないか?」
アデリーヌがとうとう笑った。
「壊れません」
「本当か?」
「大丈夫よ」
それでも不安そうなので、そばにいた産婆が抱き方を一つずつ教えることになった。
言われた通りに腕を出し、そこへ小さな身体を預けられた途端、レオンハルトの肩から指先までがぴたりと固まった。
「そんなに固くならなくても大丈夫よ」
「動かない方がいいだろう」
「息まで止めなくていいのよ」
「あ」
言われて初めて、長く息を吐く。
アデリーヌがまた笑った。
その声が聞こえたのか、腕の中の赤ちゃんが小さく身じろぎする。
「動いた」
「動きますよ」
「今、顔が動いたぞ」
「ええ」
「指も」
「あなた、本当に全部報告するつもり?」
「だって動いたんだ」
本人は真剣そのものだった。
毛布の端から、小さな手が少しだけ出ている。
レオンハルトが恐る恐る指を近づけると、その小さな指先がかすかに触れた。
途端に息を止めた。
今度は誰に言われたわけでもない。
ほんの少し指が触れただけなのに、目を離せなくなっていた。
やがて目元がまた赤くなり、それに気づいたアデリーヌが小さく笑う。
「泣くの?」
「泣いてない」
「まだ誰も、泣いてるなんて言ってないわよ」
今度こそ言い返せなかった。
アデリーヌの小さな笑い声が部屋へ落ち、その顔を見たレオンハルトも、ようやく肩の力を抜いた。
「本当に……無事でよかった」
「ええ」
「二人とも」
今度の声は、とても小さかった。
アデリーヌは何も言わず、そっと頷いた。
◇
夕方が近づく頃には、アデリーヌも少し休むことができていた。
赤ちゃんもよく眠り、本邸に朝から漂っていた緊張は、ようやく少しずつ薄れている。
アリアたちも、もう一度だけ赤ちゃんを見せてもらうことになった。
「寝てる」
部屋へ入ったアリアは、自然と声を小さくした。
「さっきいっぱい泣いたからじゃない?」
ルカも同じように声を落とす。
マルルはノルンに抱かれたまま、長い耳をぴんと立てて赤ちゃんを見つめていた。
「ちっちゃいなの」
「マルルより大きいよ」
「もう知ってるなの」
「見た?」
「まだなの。でも、いっぱい聞いたなの」
「あ」
どうやらアリアが何度も言ったせいらしい。
アリアは寝台のそばへもう少し近づき、眠っている赤ちゃんを覗き込んだ。
小さな顔に、小さな鼻。耳も小さく、毛布の端から覗いている手は、アリアのものとは比べものにならないほど小さい。
「お耳もちっちゃいね」
「全部ちっちゃいよ」
ルカも横から覗き込む。
「お手ても?」
「見えてるでしょ」
「あ、ほんとだ」
アリアは自分の手を赤ちゃんのそばへ並べてみた。
比べてみると、その違いは思っていた以上だった。
「わたしのより、ずっとちっちゃい」
「赤ちゃんだからね」
「このお手てで、さっきわたしの指つかんだよ」
「もう?」
「うん。ぎゅってした」
その時の感触を思い出したのか、アリアの顔が嬉しそうに緩んだ。
そんなアリアを見ていたアデリーヌが、寝台から声を掛ける。
「アリアちゃん」
「なあに?」
「その前に、一つお話があるの」
「お話?」
「ええ」
アリアは赤ちゃんから顔を上げ、素直に寝台のそばへ戻った。
そこにはレオンハルトも座っている。
アデリーヌと一度顔を見合わせてから、レオンハルトが口を開いた。
「さっき、アリアの羽が光ったそうだな」
「あ!」
そこでようやく思い出したらしく、アリアは自分の背中へ手を回そうとした。
「光ったよ。ふわーって」
今度は両手を使って、その時の様子を表そうとする。
「手もあったかくなってね、アデリーヌお姉ちゃんがちょっと楽になったって」
レオンハルトがアデリーヌを見ると、アデリーヌは静かに頷いた。
「本当よ。痛みがなくなったわけではないけれど、急に身体が少し楽になったの」
「お祖母様も見たんですよね?」
「ええ」
セレフィナも頷く。
「アリアの背中の羽が光り、その光がアデリーヌへ広がっていくところを見ました」
アリアは自分の両手を裏返したり、戻したりしながらじっと眺めた。
見たところ、いつもの手と何も変わらない。
「わたし、何したのかな。何もしてないよ。手、握ってただけなのに」
ノルンも考えるように、その手へ目を向ける。
「今のところ、何が起きたのかは分かりません。次に教会へ行った時、女神さまや先生にも尋ねてみた方がよいでしょう」
「やっぱり?」
「はい」
「また聞くこと増えた」
昨日は水鏡の向こうで分からないことがいくつも増えたばかりなのに、今度は自分の身体の中にまで、知らないことができてしまった。
アリアは少し困った顔で自分の手を見ていたが、その様子にレオンハルトが笑った。
「それは、明日から考えればいいさ」
「明日?」
「ああ」
レオンハルトは眠っている娘を見る。
「今日は、この子が生まれた日だからな」
その言葉を聞いた途端、アリアも赤ちゃんへ顔を戻した。
「うん!」
どうやら今は、自分の羽のことより、目の前の小さな女の子の方がずっと大事らしい。
◇
「それでね」
アデリーヌが改めてアリアへ声を掛けた。
「この子の名前なんだけれど」
「名前?」
アリアの目がすぐに丸くなる。
「もうあるの?」
「いくつか考えてはいたのよ」
「女の子のも?」
「ええ」
アデリーヌはそこでレオンハルトへ目を向けた。
二人はすでに話し合ったらしく、レオンハルトも静かに頷く。
「でも、今日になってもう一つ考えたんだ」
「今日?」
「ああ」
アリアは二人の顔を交互に見た。
「なに?」
アデリーヌが眠っている娘の頬へそっと触れる。
「アリアーヌ」
アリアは一度瞬いた。
一度聞いただけでは、聞き慣れた音と初めて聞く音をうまく分けられなかったらしい。
「ありあーぬ?」
「ええ」
もう一度聞いて、今度は自分の名前に似ていることに気づく。
「アリア?」
「少し似ているでしょう?」
アリアは自分の胸を指差した。
「わたし?」
「あなたから、少し名前をいただいたの」
胸を指したまま、アリアの動きが止まった。
嬉しいとも、驚いたとも、すぐには言葉にならない。
ただ、眠っている赤ちゃんとアデリーヌの顔を何度も見比べた。
「どうして?」
ようやく出てきたのは、その一言だった。
アデリーヌの表情が柔らかくなる。
「この子が生まれてくる時、アリアちゃんがずっとそばにいてくれたから」
「手、握ってただけだよ?」
「それでも、とても心強かったのよ」
アリアは何と答えればいいのか分からず、もう一度赤ちゃんを見る。
するとレオンハルトも、娘を見ながら続けた。
「この子が大きくなったら、今日のことを話してやりたいんだ」
「今日のこと?」
「ああ。生まれてくるまで、みんなでずっと待っていたことも、アデリーヌが一生懸命頑張ったことも、小さな天使がずっとアデリーヌの手を握っていてくれたこともな」
アリアはもう一度、赤ちゃんへ顔を向けた。
「アリアーヌ」
今度は、さっきよりゆっくり呼んでみる。
赤ちゃんは眠ったままだった。
「わたしと似てる」
「嫌ですか?」
アデリーヌに尋ねられ、アリアは勢いよく首を横へ振った。
「ううん!」
次の瞬間、顔いっぱいに笑みが広がる。
「おそろい!」
「名前をお揃いって言うのかな」
ルカが小さく笑った。
「ちょっとおそろいだよ!」
「ちょっとなら、そうかもね」
それでいいらしい。
アリアは嬉しそうに、もう一度赤ちゃんへ顔を近づけた。
「アリアーヌ」
名前を呼ぶ。
すると、眠っていた赤ちゃんの口元がほんの少し動いた。
「あ!」
アリアがすぐにノルンを見る。
「今、動いた!」
「偶然でしょう」
「聞こえたかもしれないよ?」
「その可能性は否定しません」
「じゃあ聞こえた!」
「決めるのが早いです」
小さな笑い声が部屋へ広がった。
それでもアリアは納得しているらしく、眠ったままの赤ちゃんを嬉しそうに見つめている。
「よろしくね、アリアーヌ」
返事はない。
けれど、小さな胸はゆっくり上下し、眠ったままの口元がまたほんの少しだけ動いた。
「あ、また!」
「今度も偶然です」
「二回も?」
「二回でもです」
アリアは少しだけ不満そうにノルンを見たものの、すぐに赤ちゃんへ顔を戻した。
「アリアーヌ」
今度は、返事を確かめるためではなかった。
ただ、その名前をもう一度呼んでみたかった。
自分の名前と少し似た、今日この家へ生まれてきたばかりの小さな女の子。
アリアが呼ぶたび、さっきまで聞き慣れなかった「アリアーヌ」という音が、少しずつその子の名前になっていくような気がした。
その様子を、アデリーヌとレオンハルトが眠る娘の向こうから見つめている。
二人はそっと顔を見合わせ、何も言わずに笑った。
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