第107話 生まれておいで
廊下の奥から聞こえていたアデリーヌの苦しそうな声は、しばらくすると途切れた。
けれど、アリアはすぐには動けなかった。声の聞こえてきた方を見つめたまま立っていると、今朝まで自分が思い描いていた「赤ちゃんが生まれる」という出来事が、急に違うものへ変わってしまったような気がした。
どんなに小さいのだろう、女の子なのだろうか、それとも男の子なのだろうか。髪はあるのだろうか、マルルより大きいのだろうかと、さっきまではそんなことばかり考えていたのに、今はまだ会ったこともない赤ちゃんより、廊下の奥にいるアデリーヌのことが気になって仕方がなかった。
「アリア」
少し先まで進んでいたルカが振り返る。
「うん」
ようやく返事をすると、アリアも皆のあとを追った。
案内されたのは、アデリーヌのいる部屋から少し離れた居間だった。ここで待つのだと聞き、アリアはルカの隣へ腰を下ろしたものの、落ち着いて座っていられたのは最初のうちだけだった。
「まだかな」
「まだ来たばっかりだよ」
「でも、朝からでしょ?」
「そうだけど」
そう答えたルカ自身も、ちらりと扉の方へ目を向けている。
少しすると、きれいに畳んだ布を抱えた侍女が廊下を通り過ぎ、そのあとからは湯気の立つ器を持った別の侍女が足早に奥へ向かっていった。アリアは二人の姿が見えなくなるまで目で追いながら、小さく首を傾げた。
「いっぱい使うね」
「何を?」
「お湯」
「そうだね」
「赤ちゃん、お風呂入るのかな」
「まだ生まれてないでしょ」
「あ」
そうだった。
少し恥ずかしくなって椅子へ座り直すと、向かいにいたノルンが本から顔を上げた。さっきから開いている頁がほとんど変わっていないことに気づき、アリアはしばらくその本を見てから尋ねた。
「ノルン」
「はい?」
「読んでる?」
ノルンは一度、開いている頁へ目を落とした。
「……あまり進んでいませんね」
「ノルンも気になる?」
「気にはなります」
「一緒だね」
「そうですね」
それだけのやり取りだったのに、アリアの胸の奥に詰まっていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。自分だけが落ち着かないわけではないと思うと、ようやく椅子の背へ身体を預けることができた。
◇
けれど、待っている時間はアリアが思っていたより、ずっと長かった。
朝には低いところから差し込んでいた光がいつの間にか高くなり、やがて卓には昼食まで運ばれてきた。それでも、赤ちゃんはまだ生まれてこない。
「まだ?」
もう何度目か分からない言葉を口にすると、セレフィナが静かに答えた。
「まだですよ」
「朝からずっと?」
「赤ちゃんが生まれるまでには、長く時間がかかることもあります」
「アデリーヌお姉ちゃん、ずっと痛いの?」
その問いに、セレフィナは少しだけ考えてから答えた。
「痛みが強くなる時と、少し休める時があります」
「休める?」
「ええ」
「じゃあ、今は休めてる?」
「そうだといいですね」
アリアは皿へ目を落とした。少しだけ食べてみたものの、いつもならすぐに分かる料理の味より、廊下の向こうから聞こえる足音の方が気になってしまう。誰かが通るたびに顔を上げ、扉の方を見ることを何度も繰り返していた。
その時、本当に扉が開いた。
入ってきたのはイレーネだった。
「どうです?」
セレフィナがすぐに尋ねる。
「まだ少しかかりそうです」
イレーネの声は、いつもと同じように落ち着いている。それでも、アリアには朝よりほんの少しだけ硬く聞こえた。
「アデリーヌお姉ちゃん、大丈夫?」
思わず尋ねると、イレーネはまっすぐアリアを見た。
「頑張っておられます」
「赤ちゃんは?」
ほんのわずかに返事まで間があり、その短い沈黙だけで、アリアの胸がまた落ち着かなくなる。
「赤ちゃんも、頑張っていますよ」
それ以上は聞けなかった。
けれど、「頑張っている」という言葉だけが、なぜか胸の奥へ残った。
昼を過ぎる頃には、レオンハルトも居間へ姿を見せていた。
朝に会った時より、ずっと落ち着かない様子だった。一度椅子へ腰を下ろしてもすぐに立ち上がり、窓辺へ行ったかと思えば、今度は扉のそばまで戻ってくる。
アリアは何度かその姿を目で追ったあと、とうとう声を掛けた。
「レオンハルトお兄ちゃん」
「ん?」
呼ばれて、ようやく足が止まる。
「座らないの?」
「……座っていると、落ち着かないんだ」
「歩いたら落ち着く?」
レオンハルトは少し考えた。
「どうだろうな」
「じゃあ、いっぱい歩いてるだけ?」
思いもしなかったことを言われたらしく、レオンハルトはしばらくアリアを見てから、ほんの少しだけ笑った。
「そうかもしれない」
けれど、その笑みは長く続かなかった。すぐにまた廊下の奥へ視線が向き、アリアもつられるように同じ方を見る。
「アデリーヌお姉ちゃん、まだ痛い?」
「ああ」
「赤ちゃん、出てこないの?」
「……なかなかな」
その声は、さっきまでより低かった。
そこへ、廊下から急ぐ足音が聞こえてきた。一人ではなく、二人、三人と続けて居間の前を通り、そのまま奥へ向かっていく。
セレフィナがすぐに立ち上がった。
「様子を見てきます」
「わたしも」
反射的に腰を浮かせたアリアだったが、名前を呼ばれて動きを止めた。
「アリア。ここで待っていてください」
「でも……」
「まず、わたしが見てきます」
アリアはついて行きたかった。何が起きているのか、自分の目で確かめたかったけれど、セレフィナの表情を見れば、今はついて行ってはいけないことくらい分かる。
「……うん」
浮かせた腰をゆっくり戻しながら答えると、セレフィナとイレーネは廊下へ出ていった。
扉が閉じる。
さっきまで歩き続けていたレオンハルトも、今度はその場から動かなかった。
しばらくすると、奥からまたアデリーヌの声が聞こえた。
朝よりも弱く聞こえた気がして、アリアの手が膝の上でぎゅっと握られる。
「ルカ」
「うん」
「大丈夫かな」
ルカはすぐには答えなかった。
「……分からない」
簡単に「大丈夫」と言わなかったことが、かえって怖かった。
「赤ちゃん、生まれるんだよね」
「うん」
「ちゃんと?」
「うん」
今度の返事も小さかった。
中で何が起きているのか、アリアには見えないし、詳しいことも分からない。それでも、人が何度も行き来し、アデリーヌの苦しそうな声が聞こえ、大人たちの顔まで朝とは違っている。
六歳のアリアに分かるのは、それだけだった。
やがて扉が開き、セレフィナが戻ってきた。
「セレフィナおばあちゃん」
アリアはすぐに立ち上がる。
「赤ちゃんは?」
セレフィナはアリアの前まで来ると、目線を合わせるように少しかがんだ。
「赤ちゃんが、なかなか出てこられないようなのです」
「どうして?」
「それは、まだ分かりません」
「アデリーヌお姉ちゃんは?」
「ずいぶん疲れています」
「いっぱい頑張ったから?」
「ええ」
アリアは少し考えた。
「休んだら?」
「休める時には休みながら、頑張っているのですよ」
「でも、赤ちゃん出てこない?」
「今のところは」
アリアは唇を少しだけ噛み、迷ってからもう一つ尋ねた。
「赤ちゃんも疲れる?」
その言葉に、セレフィナの表情がほんの少し変わる。
「長くなれば、赤ちゃんも苦しくなってしまうことがあります」
「赤ちゃんも苦しいの?」
「そうなることもあります」
「アデリーヌお姉ちゃんも?」
「ええ」
胸の奥が、きゅっと狭くなった。
どうしたらいいのか分からない。湖で欠片を探した時には、コンパクトが進む方向を教えてくれた。道が分からなければ地図を見ることができたし、読めない文字ならノルンが調べてくれた。
けれど今は、何を探せばいいのかさえ分からない。
「わたし、何かできる?」
セレフィナはすぐには答えなかった。
「今は、ここで待っていてくれるだけで」
「待つだけ?」
「ええ」
待つことなら覚えた。
次の満月だって、一か月近く待った。
けれど、今の「待つ」は嫌だった。自分がこうして座っている間にも、アデリーヌは痛くて、赤ちゃんも苦しいかもしれない。
「……何もできないの?」
俯いたまま小さく漏らすと、その場にいた誰もすぐには答えられなかった。
その時、奥の部屋から一人の侍女が姿を見せた。
「大奥様」
セレフィナが顔を上げる。
「アデリーヌ様が、アリア様のお顔を少し見たいと」
「わたし?」
思いがけず名前を呼ばれ、アリアは自分を指差した。
「はい」
すぐに駆け出しかけたものの、途中で足を止める。
今度は、自分からセレフィナを見上げた。
「行っていい?」
セレフィナは一瞬迷ったあと、静かに頷いた。
「少しだけですよ。中では産婆の言うことを聞いて、邪魔にならないようにしてください」
「うん」
「言われた場所から動かないこと」
「うん」
何度も頷いてから、アリアはセレフィナと一緒に廊下の奥へ向かった。
◇
部屋へ入った途端、空気が変わった。
外よりもずっと暖かく、湯の湿り気と清潔な布の匂いに、かすかな香草の香りが混じっている。侍女たちは必要なものを静かに運び、産婆は寝台のそばを離れずにアデリーヌの様子を見ていた。
「アデリーヌお姉ちゃん」
いつもきれいに整えられている髪は少し乱れ、額には汗が浮かんでいる。頬もいつもより白く、それだけで、居間から聞いていた苦しそうな声が急に現実のものとして迫ってきた。
それでもアリアを見つけると、アデリーヌはほんの少し口元を緩めた。
「来て……くれたのね」
「うん」
近づいてよいと言われたところまで歩き、アリアは寝台のそばで止まった。
「痛い?」
「少し……ね」
少しではない。
六歳のアリアにも、それくらいは分かった。
「赤ちゃん、出てこないの?」
アデリーヌは息を整えながら、小さく頷いた。
「のんびり屋さん……みたい」
笑おうとしたのだろう。
けれど、その途中でまた痛みが来た。
握っていた布へ力が入り、眉が苦しそうに寄る。
「……っ」
「アデリーヌお姉ちゃん!」
思わず一歩近づきかけたアリアは、言われた場所から動かないという約束を思い出し、ぎりぎりのところで足を止めた。
「大丈夫……よ」
苦しそうなのに、アデリーヌはそう言った。
けれど、アリアにはどうしても大丈夫には見えない。
やがて痛みが少し引き、握られていた布からゆっくり力が抜けていった。アリアはその手をしばらく見つめてから、小さく尋ねた。
「手、握っていい?」
アデリーヌが目を開ける。
「ええ」
許されると、アリアはそばまで近づき、差し出された手へ自分の両手を重ねた。
「つめたい」
「そう?」
「うん」
少しでも温かくなればいい。
そんなことしか思いつかなかったけれど、アリアは小さな両手でしっかりと包んだ。
「わたし、ここにいるよ」
「ありがとう」
「赤ちゃんも頑張ってるって」
「ええ」
「アデリーヌお姉ちゃんも」
「……ええ」
そこまで言って、アリアは口を閉じた。
頑張って、と続けようとしたのに、言えなかった。アデリーヌはもう十分すぎるほど頑張っている。
何と言えばいいのか分からなくなり、アリアは重ねた手を見つめた。
「……痛いの、少しでもなくなったらいいのに」
どうすれば痛くなくなるのか、どうすれば赤ちゃんが苦しくなくなるのかは分からない。それでも、アデリーヌにも赤ちゃんにも元気でいてほしいという気持ちだけは、胸の中でどんどん大きくなっていった。
その時だった。
重ねた掌の奥に、ふわりと小さな温かさが生まれた。
「……?」
最初は、握っているアデリーヌの手が温かくなったのだと思った。
けれど、違う。
温かさは自分の身体の内側から生まれ、胸の奥から肩へ、そこから腕へとゆっくり流れていく。やがて背中までほんのりと熱を持ち、その感覚に驚いた次の瞬間、小さな羽が淡く光り始めた。
白に近い、やさしい光だった。
飛ぶ時のように大きな光の羽へ変わるのではなく、背中にある小さな羽そのものが明るさを増し、そこからこぼれた光が肩を包み、腕を伝って、アデリーヌと重ねた手へ集まっていく。
「アリア……?」
後ろからセレフィナの声がした。
アリアも驚いて振り返りかけたものの、指の間から柔らかな光がこぼれていることに気づき、自分の手へ視線を戻した。
「わたし……何もしてないよ?」
驚いて手を離そうとした、その時。
「待って」
アデリーヌの声が聞こえた。
「アデリーヌお姉ちゃん?」
「……あたたかい」
さっきまで苦しそうに寄っていた眉が、ほんの少しだけ緩んでいる。
「痛くない?」
「なくなっては……いないけれど」
アデリーヌは一度、ゆっくり息を吐いた。
「少し……楽になったわ」
アリアは自分の手を見て、それから肩越しに背中を確かめようとした。自分では羽を見ることができないけれど、背中から伝わってくる温かさは、まだ消えていなかった。
「これ、わたし?」
誰も答えなかった。
セレフィナも、産婆も、侍女たちも、今はただ目の前で起きていることを見ている。アリア自身にも、何をしているのかは分からない。
それでも、アデリーヌが少し楽になったことだけは分かった。
「じゃあ……もうちょっと」
今度は自分から、アデリーヌの手を包み直した。
「アリア」
セレフィナが静かに呼ぶ。
「無理をしてはいけませんよ」
「無理してないよ」
本当に苦しくはなかった。
胸の奥にある温かさが背中から腕へ、そして手へ流れていくのを感じながら、アリアはアデリーヌの顔を見た。
「わたし、アデリーヌお姉ちゃんも、赤ちゃんも、元気だったらいいなって思ってるだけ」
その言葉に応えるように、小さな羽の光がまたゆっくり明るさを増した。指先からこぼれた柔らかな光がアデリーヌの腕へ広がり、やがて身体を薄く包んでいく。
眩しいほどではない。
けれど、その温かな明るさの中で、アデリーヌの浅かった呼吸が少しずつ深くなっていった。
額の汗は消えず、痛みそのものがなくなったわけでもない。それでも、力を失いかけていた指が、今度はアリアの手をしっかり握り返した。
「……もう少し、頑張れそう」
その声を聞いた産婆が、すぐに寝台へ向き直った。
「では、今は息を整えてください。次の痛みが来るまで、少しでも力を残しておきましょう」
アデリーヌが頷く。
アリアには、何が起きているのかすべて分かったわけではなかった。それでも、さっきよりアデリーヌの手に力が戻っていることが嬉しくて、その手を離さなかった。
◇
それからは、痛みが来るたびにアデリーヌの指へ強い力が入り、そのたびにアリアも両手で握り返した。
「ここにいるよ」
何度同じ言葉を口にしたのかは分からない。
背中の羽も、ずっと同じ明るさで光っていたわけではなかった。痛みが落ち着き、アリアの気持ちが少し緩むと光も淡くなり、それでもアデリーヌが苦しそうに眉を寄せると、胸の奥からまた温かさが湧き、羽は静かに明るさを取り戻した。
どれくらいそうしていたのか分からなくなった頃、寝台のそばにいた産婆の声が変わった。
「もう少しです」
その一言に、アリアがすぐ顔を上げる。
「もう少し?」
「ええ。赤ちゃんも、こちらへ来ようとしていますよ」
「ほんと?」
アデリーヌもゆっくり目を開いた。
「赤ちゃん……」
「次の時です。ゆっくり息をしてください」
侍女たちが静かに動き始め、部屋の中へ再び張りつめた空気が戻ってくる。セレフィナも寝台の近くへ進んだ。
「アリア」
「うん?」
「そのまま、手を握っていてあげてください」
「うん!」
今度は迷わなかった。
アリアはアデリーヌの手を握りながら、自分も一緒にゆっくり呼吸した。アデリーヌが息を吸えば自分も吸い、吐けば同じように吐く。
何をすればいいのか分からないなら、今できることをする。
それだけだった。
「来ます」
産婆の声と同時に、アデリーヌの指へ強い力が入った。
「……っ!」
「アデリーヌお姉ちゃん!」
「大丈夫……!」
今度の「大丈夫」には、さっきまでとは違う力があった。
「あと少しです!」
産婆の声が響く。
アリアはアデリーヌの手を握ったまま、ぎゅっと目を閉じた。
どうすれば赤ちゃんが生まれてくるのかは、やっぱり分からない。それでも、アデリーヌのところへ来てほしい、みんながずっと待っているところへ無事に生まれてきてほしいという気持ちは、言葉にしなくても胸いっぱいに広がっていった。
レオンハルトお兄ちゃんも、セレフィナおばあちゃんも、みんな待ってる。
「生まれておいで」
気づけば、その言葉は声になっていた。
その瞬間、背中の小さな羽が、それまでより強く光った。
白に近い柔らかな光が羽からあふれ、アリアの肩を包み、両腕を伝ってアデリーヌへ流れていく。寝台の周りは静かな明るさに包まれた。
眩しくて目を閉じるほどではない。
それでも、その場にいた誰もが気づくほど、はっきりとした光だった。
「もう一度!」
産婆の声が響く。
アデリーヌが大きく息を吸い、アリアもその手をしっかり握った。
そして、ほんのわずかな静けさのあと、細い声が聞こえた。
「……ふえ」
アリアが目を開ける。
今まで聞いたことのない、小さくて高い、それでも確かにそこにいる声だった。
次の瞬間。
「おんぎゃあ! おんぎゃあ!」
さっきとは比べものにならないほど力強い泣き声が、部屋いっぱいに響いた。
アリアは動けなかった。
産婆の腕の中に、小さな身体がある。
赤くて、くしゃくしゃで、想像していたよりずっと小さい。
「生まれましたよ」
産婆の顔に、ようやく大きな笑みが浮かんだ。
「元気な女の子です」
「女の子……」
アリアが小さく繰り返す。
赤ちゃんはまだ元気に泣いている。
「泣いてる」
「それでいいのですよ」
セレフィナの声が聞こえた。
「いいの?」
「ええ。元気に生まれてきた声です」
「元気?」
「はい」
その言葉を聞いた途端、アリアは慌てて寝台へ顔を向けた。
「アデリーヌお姉ちゃんは?」
赤ちゃんが元気だと分かったら、今度はそちらが気になった。
アデリーヌはひどく疲れているようだったが、それでも目を開けて笑っている。
「アリアちゃん……」
「なあに?」
「ありがとう」
アリアは困ったように眉を寄せた。
「わたし、手握ってただけだよ?」
そう言ってから、肩越しに自分の背中を見ようとする。
もちろん、自分ではよく見えない。
さっきまで強く光っていた小さな羽は、少しずつ明るさを失い、やがていつもの白い羽へ戻っていった。
「……消えた」
どうして光ったのか、自分は何をしたのか、考えようとすれば分からないことはいくつもあった。
けれど今は、それよりも気になるものがある。
「赤ちゃん、見たい」
その言葉に、張りつめていた部屋の中へようやく小さな笑いが広がった。
産婆が赤ちゃんをきれいに整え、やがてアデリーヌのそばへ連れてくる。
アリアは邪魔にならないようにそっと顔を近づけた。
小さな顔には、ぎゅっと閉じた目と、ときどき動く口元があり、毛布のそばからは本当に小さな手が見えている。
「ほんとにマルルより大きい」
思わず呟くと、セレフィナが笑った。
「比べる相手がマルルなのですね」
「だって、分かりやすいもん」
その時、赤ちゃんの手がふっと動いた。
アリアがそっと指を近づけると、小さな指がゆっくり開き、偶然触れた指先をきゅっと握る。
「……つかんだ」
アリアの声が自然と小さくなった。
赤ちゃんの手は、とても小さい。それなのに、その指にはちゃんと力がある。
朝にはまだ会ったこともなく、少し前まではなかなか出てこられず、みんなが心配していた。その赤ちゃんが今、目の前にいて、自分の指を握っている。
「こんにちは」
アリアは自然に笑った。
「生まれてきたね」
赤ちゃんは返事をしなかった。
代わりに小さな口を開け、もう一度元気な泣き声を上げる。
その声を聞くと、アリアもつられるように笑った。
朝には、赤ちゃんが生まれると聞いただけで嬉しかった。
けれど今は、そこへ辿り着くまでに長く待つ時間があり、アデリーヌがずっと痛みに耐えながら頑張っていたことを知っている。それに、自分の羽が光ったことも、胸の奥から流れてきた不思議な温かさも、まだ何一つ分からないまま残っていた。
それでも、赤ちゃんの指がもう一度きゅっと動いた途端、そんな疑問は少しだけ遠くなった。
「ちっちゃいね」
アリアは、自分の指を握る小さな手へそっと笑いかけた。
その隣では、アデリーヌも疲れた顔のまま、同じ手を見つめて微笑んでいる。
アリアが握った時には冷たかったアデリーヌの手も、今、自分の指を握っている赤ちゃんの手も、どちらもちゃんと温かかった。




