第106話 赤ちゃんが生まれそう
その夜、別邸へ戻ってからも、アリアたちの話はなかなか終わらなかった。
三つ目の欠片を見つけたことや、水鏡の向こうに現れた知らない世界で水の精霊女王と話したこと。それに、同じ時間に同じミレア湖を見ていたはずなのに、船にいた自分たちと岸に残っていた人たちとでは、まるで違うものが見えていたことも、まだ整理しきれていない。
確かめたいことはいくつも残っていて、ハイラムとノルンは卓の上へ二つの記録を広げたまま、何度も内容を見比べていた。
けれど、アリアの方はそろそろ限界だった。
「まだ、お話する?」
大きなあくびをしたあと、目をこすりながら尋ねると、ノルンがすぐに首を横へ振った。
「今日はもう終わりにしましょう」
「でも、まだいっぱいあるよ?」
「続きは明日でもできます。覚えているでしょう?」
「……たぶん」
「そこは覚えていてください」
「大丈夫。三つ目は忘れないよ」
そう言った途端、さっきまで眠そうにしていたはずのアリアが、またマルルの首元へ顔を近づけた。
小さなコンパクトの中には、一つ目と二つ目の欠片。その隣には、今日手に入れたばかりの三つ目が、ちゃんと収まっている。
「ある」
「あるなの」
マルルが前足を伸ばして蓋へ触れた。
「もう閉じるなの」
「もう一回だけ」
「さっきも言ったなの」
「これで最後」
「ほんとなの?」
「ほんと!」
ちゃんと目の前にあるのに、どうしてももう一度確かめておきたいらしい。
少し離れたところからその様子を見ていたルカが、とうとう笑った。
「明日の朝も、一番に見ると思う」
「見るよ?」
「やっぱり」
あまりにも当然のように返され、ルカはまた笑う。
やがてマルルがぱちりとコンパクトを閉じると、アリアもようやく諦めて立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
「エリオお兄ちゃんも、おやすみ!」
「ああ。おやすみ」
廊下へ出ると、ルカはエリオと一緒に自分たちの部屋へ向かい、アリアはノルンとマルルと一緒に、湖の見えるいつもの部屋へ戻った。
◇
寝台へ入る頃には、さすがのアリアもほとんど話さなくなっていた。
朝からずっと皆既月食のことが気になっていて、夕方には船へ乗って湖へ出た。そこで二つの赤い月が重なるのを見て、水鏡の向こうに知らない世界を見つけ、水の精霊女王と話し、最後には三つ目の欠片まで手に入れた。
毛布の中で一つずつ思い返してみても、それが全部、今日一日のうちに起きたことだとは思えない。
「ノルン」
眠りへ落ちかけながら、小さく呼んだ。
「はい?」
もう一つの寝台から、静かな返事が返ってくる。
「ほんとだったね」
「何がです?」
「水の向こう」
ノルンもすぐには答えず、窓の向こうへ目を向けた。
皆既月食を終えた月は少しずついつもの白さを取り戻し、暗いミレア湖へ細い光を落としている。
「ええ。本当にありましたね」
「女王さまもいた」
「いました」
「わたしだった」
「アリアの姿を借りていましたね」
「ちっちゃいのも似てたよ」
「そこは、もともとでは?」
「やっぱり似てたんだ」
「そういう意味ではありません」
暗い部屋の中でアリアがくすくす笑うと、ノルンの声もいつもより少しだけ柔らかくなった。
しばらくすると、アリアは毛布へ半分顔を埋めたまま、また小さく尋ねた。
「三つ目、なくならないよね?」
「朝になったら、また確かめればよいでしょう」
「うん」
「今夜はもう寝てください」
「はぁい……」
それでようやく安心したらしい。
ほどなくして返事はなくなり、部屋にはアリアのゆっくりとした寝息だけが残った。近くではマルルも丸くなり、長い耳を身体へ寄せて眠っている。
窓の外では、白さを取り戻していく月が静かなミレア湖を照らしていた。
長かった一日が、ようやく終わった。
◇
翌朝、アリアが目を覚ました時には、部屋の中がいつもよりずっと明るくなっていた。
「……朝?」
毛布から顔を出して窓を見ると、朝日はもう湖の上までしっかり昇っている。いつもなら、とっくに飛行練習を始めている頃だった。
「あれ?」
身体を起こすと、向こうではノルンもすでに目を覚ましていた。
「おはようございます」
「おはよう……」
まだ半分眠ったまま返事をして、ぼんやりと瞬きをする。
けれど、その次の瞬間。
「三つ目!」
一気に目が覚めた。
「起きて最初がそれですか?」
「見る!」
寝台から降りると、そのままマルルのところへ向かう。
「マルル!」
「起きてるなの……」
マルルも長い耳を寝床へ垂らしたまま、まだ眠そうだった。
「コンパクト見せて」
「朝なの」
「うん!」
「なくならないなの」
「でも見る」
マルルはしばらくアリアを見ていたものの、どうせ見せるまで終わらないと思ったのか、諦めたように身体を起こした。
両前足をコンパクトへ添え、ぱちりと小さな蓋を開く。
昨日と同じ場所に、三つの青い欠片がきちんと並んでいた。
「ある!」
「あるなの」
「三つ!」
「三つなの」
「昨日から三つです」
後ろからノルンの声まで加わる。
アリアは三つをもう一度しっかり数え、それでようやく満足すると、今度こそ顔を洗いに向かった。
◇
朝食の部屋へ行くと、ルカとエリオはもう席についていた。
「おはよう!」
「おはよう。やっぱり見た?」
椅子へ座るより先に聞かれ、アリアは大きく頷く。
「見た!」
「三つあった?」
「あった!」
「よかったね」
「うん!」
朝から何の話をしているのか分かっているらしく、エリオまで笑っていた。
ノルンは席へ着くと、昨夜まとめた記録を卓の端へ置いた。ハイラムと照らし合わせたことも、忘れないうちにもう一度整理しておくつもりらしい。
「今日、教会行く?」
パンをちぎりながらアリアが尋ねた。
「そのつもりです」
「女神さまに三つ目見せる?」
「報告は必要でしょうね」
「先生にも?」
「ええ。四歳の時のお話と似ているところもありましたから、そのことも聞いてみたいです」
「うん」
アリアは頷くと、今度は隣のルカを見る。
「ルカも行くよね?」
「行くよ」
「マルルも?」
「行くなの」
「じゃあ、みんな!」
朝食が終われば教会へ行く。
アリアの中では、もう今日の予定がすっかり出来上がっていた。
ところが、最後に残ったパンへ手を伸ばした時、廊下の向こうから少し急いだ足音が聞こえてきた。
イレーネが先に扉へ顔を向ける。
ほどなくして別邸の使用人が現れ、その後ろから見覚えのない男性が一人、部屋へ入ってきた。
「失礼いたします」
急いで来たのか、男性はわずかに息を弾ませながら深く頭を下げた。
その姿を見たセレフィナが、すぐに顔を上げる。
「本邸からですか?」
「はい。今朝早く、急ぎの知らせをお持ちしました」
それまで穏やかだった卓の空気が、わずかに変わった。
アリアもパンを持ったまま男を見る。
「何かあったの?」
セレフィナはアリアへ一度目を向け、それから男性へ戻した。
「まず、お聞きしましょう」
「うん」
アリアは持っていたパンを皿へ戻した。
男性が改めて姿勢を正す。
「アデリーヌ様が、明け方から産気づかれております」
アリアは一度瞬いた。
「産気づく?」
聞いたことのない言葉だった。
セレフィナの目にも一瞬驚きが浮かんだが、すぐにいつもの落ち着きを取り戻す。
「もう始まったのですね」
「はい。産婆もすでに到着しております」
「アデリーヌの様子は?」
「今のところは、産婆からも予定の範囲だと伺っております。本邸より、大奥様にもお知らせするよう申しつかっております」
「分かりました」
そこまで聞いても、アリアにはまだ何が始まったのか分からなかった。
そこで隣にいるノルンへ、そっと顔を寄せる。
「アデリーヌお姉ちゃん、どうしたの?」
「赤ちゃんが生まれようとしているのです」
その言葉なら、すぐに分かった。
アリアの目が一気に大きくなる。
「赤ちゃん?」
「はい」
「今日?」
「おそらく」
「生まれるの!?」
さっきまでパンを持っていたことも忘れたように、顔がぱっと明るくなる。
「赤ちゃん、生まれるの?」
「まだですよ」
ノルンがすぐに言った。
「これからです」
「今日?」
「今日かもしれません」
「見に行く!」
勢いよく椅子から立ち上がりかけたところで、穏やかな声が飛んできた。
「アリア」
「あ」
その場でぴたりと止まり、セレフィナを見る。
「まだ食事の途中でしょう?」
「でも、赤ちゃん!」
「アリアがパンを残したからといって、赤ちゃんが早く生まれるわけではありませんよ」
言われて、自分の皿を見る。
残っているのは、あと少し。
「……食べる」
「そうしてください」
慌ててパンを口へ運ぼうとすると、今度はノルンが横から声を掛けた。
「ゆっくり噛んでください」
「はぁい」
早く食べ終わりたい気持ちを何とか抑え、アリアはいつもより意識して口を動かした。
◇
朝食が終わる頃には、別邸の中も少しずつ慌ただしくなっていた。
セレフィナは本邸へ戻る支度を始め、イレーネも必要なものを確認している。アリアは邪魔にならないようにしているつもりだったが、どうしても気になってしまい、セレフィナの後ろを何度もついて回った。
「アデリーヌお姉ちゃん、痛い?」
「赤ちゃんが生まれる時には、痛みがあります」
「いっぱい?」
セレフィナは少しだけ考えてから答えた。
「人によりますが、楽なことではありませんね」
「大丈夫?」
「産婆もいますし、本邸の者たちもそばにいます」
「レオンハルトお兄ちゃんも?」
「ええ」
「赤ちゃん、もう見える?」
「まだです」
「どのくらいで生まれる?」
「それは誰にも分かりません」
「お昼?」
「分かりません」
「夜?」
「それも分かりません」
「じゃあ、明日?」
「そうなることもあります」
「そんなに?」
アリアは驚いて足を止めた。
赤ちゃんが生まれるというのは、もっとすぐに終わる出来事だと思っていたらしい。
「待つの?」
「そうですね」
「また待つ」
少しだけ頬が膨らむ。
つい昨日まで、一か月近く満月を待っていた。ようやく待っていた日が来たと思ったら、今度は赤ちゃんが生まれるのを待つことになるらしい。
そんなアリアを見て、セレフィナが小さく笑った。
「待つことも大切ですよ」
「知ってる」
「そうでしたね」
「いっぱい待ったもん」
それでも、次の疑問はすぐに浮かんできた。
「赤ちゃん、女の子かな。男の子かな」
「それも、生まれてからのお楽しみですね」
「名前は?」
「まだ聞いていません」
「いっぱい分かんない」
「今日は、それでいいのです」
「そっか」
分からないことを、今すぐ全部分かろうとしなくてもいい。
それも、この旅の中で少しずつ覚えてきたことだった。
アリアは一度頷くと、今度はそれ以上質問を重ねなかった。
支度が一段落したところで、ルカが口を開く。
「教会はどうする?」
ノルンも同じことを考えていたらしく、セレフィナを見る。
「今日は予定を変えた方がよさそうですね」
ノルンも頷いた。
「三つ目の欠片については、明日以降でも報告できます」
「女神さま、待ってくれる?」
「きっと」
「先生も?」
「先生もです」
「じゃあ、今日は赤ちゃん先?」
「そうしましょう」
「うん!」
アリアに迷いはなかった。
朝、目を覚ました時には三つ目の欠片を確かめることしか考えていなかったのに、今はアデリーヌと、これから生まれてくる赤ちゃんのことで頭がいっぱいになっている。
「アデリーヌお姉ちゃんの赤ちゃん!」
「アリア」
「なあに?」
「まだ生まれてないからね」
ルカに念を押される。
「分かってるよ」
「本当に?」
「これから!」
「そう」
「だから行く!」
元気よく答えると、アリアは用意してあった上着へ腕を通した。
◇
本邸へ向かう馬車の中でも、アリアはなかなか落ち着かなかった。
窓の外を見ては、もう着くのではないかと前を向き、しばらく大人しく座っていたかと思えば、今度はアデリーヌや赤ちゃんのことが気になって、また誰かへ尋ね始める。
「ねえ」
「今度はなに?」
ルカが振り向いた。
「赤ちゃんって、どうやって生まれるの?」
「ぶっ」
ルカがむせた。
「なんで僕を見るの」
「知ってる?」
「知らない」
「ノルンは?」
「今ここで詳しく説明する必要はありません」
「なんで?」
「着いてから、必要なことだけ教えていただきましょう」
「そっか」
アリアは少し考え、それで納得したらしい。
しばらく窓の外を眺めていたものの、また別の疑問が浮かんだ。
「赤ちゃん、小さいよね」
「小さいと思うよ」
「マルルくらい?」
「それは小さすぎるでしょ」
「じゃあ、ノルンの箱くらい?」
「比べ方がおかしいよ」
「分かりやすいもん」
「赤ちゃんを箱と比べないで」
ルカが笑う。
その横では、マルルまで自分の身体を見下ろしていた。
「ぼくより大きいなの?」
「たぶんね」
「大きいなの……」
それだけでも驚いたらしく、マルルの長い耳がぴんと立った。
アリアはそんなマルルを見て笑った。
赤ちゃんがどんな姿なのか、どのくらい小さいのか、どんな声で泣くのか。考えるたびに、まだ見たことのない赤ちゃんへ早く会いたい気持ちが膨らんでいった。
◇
やがて、本邸の門が見えてきた。
いつも訪れる時と同じ大きな屋敷のはずなのに、今日は門を出入りする人の姿が少し多い。
馬車が玄関前へ止まると、待っていた使用人がすぐに扉を開けた。
「大奥様」
「様子は?」
セレフィナは馬車を降りながら、すぐに尋ねた。
「先ほどより、痛みの間隔が短くなっているとのことです」
「アデリーヌは?」
「お疲れではありますが、まだお話もされています」
それを聞いて、セレフィナが小さく息を吐いた。
「分かりました」
アリアも続いて馬車を降りる。
いつもなら真っ先に玄関へ駆け込んでいただろう。
けれど今日は、先を行くセレフィナの背中を見ながら、自分から歩幅を合わせて屋敷へ入った。
中では、使用人たちが普段より少し速い足取りで廊下を行き来している。
布を抱えた者とすれ違ったかと思えば、その向こうでは湯を運ぶ者が足早に部屋へ入っていく。
誰かが取り乱しているわけでも、大声を上げて走り回っているわけでもない。
それでも、いつもの本邸とは明らかに空気が違っていた。
アリアもその空気につられるように、自然と声を小さくした。
「赤ちゃん、もう生まれる?」
迎えに出てきた侍女が、少しだけ微笑む。
「もう少しかもしれません」
「もう少し?」
「はい」
アリアの顔がぱっと明るくなる。
その時だった。
廊下の奥から、誰かの苦しそうな声がかすかに聞こえた。
アリアの足が止まり、さっきまで浮かんでいた笑顔も、そのまま消えていく。
「今の……アデリーヌお姉ちゃん?」
誰もすぐには答えなかった。
やがてセレフィナが振り返り、静かに頷く。
「ええ」
アリアは廊下の奥を見つめた。
赤ちゃんが生まれる。
さっきまで、その言葉を聞くだけで嬉しかった。どんな顔なのか見てみたい、早く会いたいと、そんなことばかり考えていた。
けれど、もう一度遠くから苦しそうな声が聞こえると、アリアの手がそっと胸元へ寄った。
「……アデリーヌお姉ちゃん、大丈夫かな」
今度は誰にも、「赤ちゃん、まだ?」とは聞かなかった。
赤ちゃんが生まれるということは、ただ待っていれば嬉しいことがやって来るだけではない。
その向こうで、アデリーヌが頑張っている。
六歳のアリアにも、そのことだけは少し分かった。




