第105話 同じ夜を見ていた人たち
水鏡の向こうに広がっていた世界が消えてからも、船の上ではしばらく誰も動かなかった。
止まっていた夜の風が少しずつ戻り、鏡のようだった湖面へ細かな波を作っていく。船腹へ水が触れる音も戻ってきて、皆既月食を終え始めた月の光が、その揺れに合わせて水の中でゆっくり形を崩していた。
ほんの少し前まで、あそこには別の世界があった。
アリアは何も映らなくなった湖を見つめたまま、それを確かめるように何度か瞬いた。
「三つ目なの!」
静けさを破ったのは、マルルの弾んだ声だった。
その声に我に返り、アリアも腕の中へ目を落とす。
マルルの首元にあるコンパクトには、一つ目と二つ目の欠片に並んで、新しい青い欠片が確かに収まっていた。
「ほんとに入ってる」
さっき見たばかりなのに、また顔を近づけてしまう。
「さっきから何回見てるの」
隣からルカに笑われ、アリアはコンパクトから顔を上げた。
「だって、なくなってないか気になるもん」
「一度入ったら、勝手には出ないと思うよ」
「たぶん?」
「そこは僕に聞かれても分からないよ」
いつもの調子で返され、アリアも笑った。
胸の奥に残っていた緊張が、ようやく少しほどけた気がする。
けれど、周りを見ると、大人たちはまだ誰も笑っていなかった。
船長は船縁へ片手を置いたまま、戻ってきた湖面の揺れを確かめるように水を見ている。二人の船員も、何度か足元へ視線を落としていた。
「船長さん?」
呼びかけると、船長はようやく顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや……戻ったな、と思ってね」
「何が?」
「湖が」
言われて、アリアも船縁から下を覗いた。
水面には小さな波があり、船はその動きに合わせてゆっくり揺れている。船腹には水が触れ、ちゃぷ、と聞き慣れた音がした。
「さっきは違った?」
「違ったよ」
船長は迷わず頷いた。
「俺は長いことこの湖で船を動かしてきたけど、あんな状態は初めてだ。風が止まることならある。水面がしばらく静かになることだってある。でも、さっきのはそういう静けさじゃなかった」
そこで船長は一度足元を見て、言葉を探すように眉を寄せた。
「船まで止まったように感じたんだ」
「止めてたんじゃないの?」
「動かしてはいなかったよ。でも船っていうのは、止めたからといって本当にぴたりと動かなくなるものじゃないんだ。水の上にいれば流れに押されるし、少し風があれば、それだけでも動く」
アリアは足の裏へ意識を向けた。
今は、ゆらり、ゆらりと床が動いている。
乗ったばかりの頃には少し怖かった揺れなのに、さっきまでそれがなかったと言われて、初めてその不自然さに気づいた。
「さっきは?」
「何もなかった」
船長は湖の中央を振り返った。
「妙な言い方だけど、水の上にいる感じがしなかったんだよ」
「水の上にいるのに?」
「ああ。船は確かに浮いていた。それなのに、水に支えられている感じも、流れに押される感じもなかった」
「音も消えていました」
横にいた船員が続ける。
「水が船へ当たる音です。あれだけ静かなら、普通は別の音がよく聞こえるものですが……あの時は、本当に何も聞こえませんでした」
その言葉を聞いた瞬間、アリアの中にも、あの静けさが蘇った。
船のきしむ音も、水が船腹へ触れる音もなかった。
聞こえていたのは、自分たちの声と、どこからともなく響いた鈴の音だけ。
自分はずっと、水鏡の向こうに現れた世界や女王を見ていた。
その間、自分たちの足元でも、こんなことが起きていたのだ。
「同じところにいたのに、わたし知らなかった」
ぽつりとこぼすと、今度はイレーネが静かに口を開いた。
「わたしは、湖よりアリア様を見ていましたから」
「わたし?」
「ええ。女王様へ近づこうとされたら、すぐに止められるように」
「ちゃんと止まったよ?」
「ええ。今回は」
「今回は?」
アリアが眉を寄せると、イレーネの口元がほんの少し緩んだ。
「きちんと約束を守っていらっしゃいました」
「でしょ?」
それだけで少し嬉しくなったアリアだったが、イレーネはすぐに水鏡があった場所へ目を戻した。
「ただ、一つだけ不思議なことがありました」
「なに?」
「アリア様と女王様の距離です」
「近かったよ?」
アリアには、それ以外の答えが思いつかなかった。
女王は手を伸ばせば届きそうなところにいた。三つ目の欠片も、すぐ目の前へ浮かんでいるように見えていた。
「わたしにも、そう見える時はありました」
「時は?」
今度はノルンも顔を上げる。
「お二人が向かい合っている時には、確かにすぐそばにいるように見えたのです。アリア様が手を伸ばせば、そのまま届きそうなくらいに。ところが、距離を確かめようとすると……急に、とても遠くにいるようにも感じました」
「遠く?」
ルカの猫耳が前を向いた。
「姿が小さくなるわけではありません。見えなくなるわけでもない。ただ、どのくらい離れているのかだけが分からなくなるのです」
アリアは自分の右手を見た。
欠片へ伸ばした指。
その向こうから近づいてきた女王の手。
自分には、どちらもはっきり近くに見えていた。
「特に、お二人が同時に欠片へ手を伸ばした時です。指先はもうすぐ触れそうなのに、それでも遠いところへ手を伸ばしているようにも見えました」
「わたしは近かったよ」
「アリア様には、そう見えていたのですね」
「うん」
同じものを見ていたはずなのに、見えていた距離は違っていた。
アリアは水鏡が消えた場所へ目を向けた。
さっきまで自分が見ていたものを、みんなも同じように見ていると思っていた。
けれど、どうやらそうではなかったらしい。
「俺は、剣を抜けば済む話の方がずっと楽だったけどな」
少し後ろから聞こえたエリオの声に、アリアが振り返った。
「怖かった?」
「怖いよ」
エリオは誤魔化さなかった。
「何が起きてるのか分からなかったんだから」
「エリオお兄ちゃんでも?」
「俺だからだよ」
腰の剣へ軽く手を触れながら、エリオも湖を見る。
「何かが襲ってくるなら、どう動けばいいか考えられる。船が壊れたなら手伝えるし、誰かが落ちたなら助けにも行ける。でも、さっきのは何をすればいいのかすら分からなかった」
その声を聞きながら、アリアはあの時のエリオを思い出してみた。
いつでも動けるように立っていた。
でも、本当に動くことはなかった。
「アリアが向こうへ引っ張られたら追えるのか。水の精霊が急に何かしたら、こっちから止められるのか。そもそも俺たちも向こうへ行けるのか。それすら分からなかったからな」
何かあればすぐ動く人なのに、そのエリオが何もできずに見ているしかなかった。
アリアには、それが少し意外だった。
「だから、ノルンが『動かないでください』って言った時は、少し安心した」
「そうなの?」
「ああ。少なくとも、その時に何をすればいいのかは決まったからな」
その言葉を聞いて、アリアの頭に昼間から何度も確かめてきた言葉が浮かんだ。
「止まる。確かめる。それから動く」
「そういうこと」
「今日は役に立った?」
「すごくな」
「いっぱい練習したもん」
胸を張るアリアの横で、ルカも小さく笑った。
「僕も、今日はちょっと違ったよ」
「なにが?」
「前だったら、欠片が見えた瞬間から、アリアを止めることばっかり考えてたと思う」
「わたしを?」
「うん。でも今日は、自分で止まったでしょ」
「うん!」
「だから僕も、ちゃんと見られた」
「何を?」
「向こうの世界も、女王も、境にあった欠片も。アリアと女王が一緒に手を伸ばしたところも、全部」
ルカは少し照れたように笑った。
「前だったら、たぶんアリアしか見てなかった」
アリアはしばらくその言葉を考えた。
自分が止まれたから、ルカも周りを見ることができた。
そういう意味だと分かるまで少し時間がかかったものの、やがて顔が明るくなる。
「わたし、ちゃんとしてた?」
「まあまあ」
「まあまあ?」
「すごくちゃんとしてた」
「最初からそう言ってよ」
むっとしたアリアに、ルカが声を立てて笑った。
船の上にも、ようやくいつもの空気が戻ってくる。
けれど、ノルンだけはすでに次のことを考えていた。
「船長さん。水面に変化が現れ始めたのは、月がすべて影へ入る前でしたね」
「ああ」
「風が完全に止まったのは?」
「月が全部赤くなった頃だったと思う」
「精霊界が見えなくなり始めたのは、月へ白い光が戻ったあとです」
「そうですね」
イレーネも頷く。
アリアは二人の顔を見比べた。
「何してるの?」
「起きた順番を確認しています」
「どうして?」
「大切だからです」
ノルンは湖の中央へ目を向けた。
「精霊界が消え始めたのは、三つ目の欠片を取った直後ではありません。皆既月食が終わり始めて、月へ白い光が戻ってからです」
「あ」
ルカも意味に気づいたらしい。
「じゃあ、欠片を取ったから消えたとは限らないんだ」
「はい。月食が終わり始めたことと関係している可能性もあります」
「でも、まだ決めない」
アリアが先に言うと、ノルンは少し驚いたあとで笑った。
「よく覚えていますね」
「いっぱい言われたもん」
得意そうに答えてから、アリアは腕の中のマルルを見る。
「マルルはどうだった?」
「ぼく?」
「コンパクト持ってたでしょ。何か分かった?」
マルルは自分の首元を見下ろし、長い耳を少し動かした。
「光が、いっぱい動いたなの」
「それは見てた」
「ぼくも見てたなの」
「ほかは?」
マルルはしばらく考えていたが、やがて耳を少し下げた。
「……分かんないなの」
「そっか」
アリアはそれ以上聞かなかった。
「分かんないならいいよ」
「いいなの?」
「うん。分かんないこと、いっぱいあるから」
その言葉に、下がっていたマルルの耳が少しだけ戻った。
船が岸へ向かい始めると、やがて遠くに船着き場の灯りが見えてきた。
出航した時には夕暮れだった湖岸も、今はすっかり夜に包まれている。それでも船着き場には、いくつもの人影が残っていた。
「まだいる!」
嬉しくなって身を乗り出しかけたアリアは、途中で自分から身体を戻した。
「待っていてくださったのでしょう」
イレーネに言われ、アリアはじっと岸を見た。
船が近づくにつれて、一人ずつ顔が分かるようになる。
セレフィナ。
エレノア。
クラリッサ。
そして少し離れたところには、紙と筆記具を手にしたハイラムもいた。
「ハイラムさん、まだ書いてる」
「おそらく、ずっと書いていたのでしょうね」
ノルンの答えに少し笑ったものの、船着き場が近づくにつれて、アリアの笑みはゆっくり消えていった。
何かが、いつもと違う。
誰も大きく手を振っていない。
ただ、戻ってくる船が本当にそこにあるのか確かめるように、じっとこちらを見つめていた。
◇
岸に残った者たちは、船が湖の中央近くへ着いてから、ほとんどその場を離れていなかった。
白かった満月へ影が広がり、やがて月全体が暗い赤に染まっていく。湖面へもう一つの赤い月が映ることも、ハイラムは古い記録の中で何度も読んでいた。
けれど、そのあとに何が起きるのかを正確に残した記録はなかった。
「風が止まった」
ハイラムが呟き、すぐに紙へ書き込む。
岸辺の木々から葉擦れの音が消え、湖から届いていた細かな波音も弱くなっていった。やがてセレフィナの髪も、クラリッサの衣の裾もほとんど揺れなくなる。
「……こんなに静かになることが、あるのですか?」
クラリッサが声を潜めた。
「わたしは見たことがありません」
セレフィナは湖から目を離さないまま答えた。
幼い頃から何度も訪れ、夏になるたび眺めてきたミレア湖だった。
風のない朝も、雨の前の重たい湖も、月明かりに照らされた夜も知っている。
それでも、目の前にある湖は、そのどれとも違っていた。
空には赤い月。
その真下の湖にも、まるで本物がもう一つあるように同じ月が浮かんでいる。
二つの赤い月の間には、アリアたちを乗せた船が小さく見えていた。
「月が……」
エレノアが小さく呟く。
空と水に離れていたはずの二つの月が、ゆっくり近づいているように見えた。
本来なら、そんな速さで月が動くはずはない。
湖に映った月が、自分から水の中を動くこともない。
それでも、二つの赤い光の間にあった距離は少しずつ狭まり、やがて一つに重なった。
その次の瞬間。
湖の中央で、白とも青とも言えない淡い光がふわりと広がった。
「……あれは、何でしょう?」
クラリッサが息を呑む。
光は霧のように水面を這うこともなく、そこから立ち上っているようにも見えない。
ただ、薄い光の膜だけが湖の上へ現れ、アリアたちの船を包み始めたように見えた。
「アリア……」
セレフィナが、知らず一歩前へ出る。
船はまだ見えている。
確かに、そこにいる。
なのに、その輪郭がほんのわずかに揺らぎ始めていた。
「……見えにくくなっていますね」
エレノアの声も低くなる。
消えたわけではない。
そこにあることは分かるのに、遠い景色を熱の向こうから見ている時のように、形だけがうまく定まらなかった。
「船は……まだ見えていますよね?」
クラリッサが確かめる。
「ええ。見えています」
セレフィナはすぐに答えた。
声は落ち着いていたものの、いつの間にか両手を強く握りしめていた。
エレノアがそれに気づき、何も言わず、その手へ自分の手を重ねる。
「大丈夫です」
隣から静かな声が届く。
セレフィナは小さく頷いたが、湖から目を離せなかった。
少し離れたところでは、ハイラムが再び筆を走らせている。
「船の周囲に青白い光……船体の輪郭、一部不鮮明……」
「ハイラムさん」
クラリッサが思わず振り返る。
「今も、書くのですか?」
「今だから書くんだ」
返事はいつも通りだった。
けれど、筆先は普段よりわずかに速い。
何行か書くたび、ハイラム自身も船がまだそこにあることを確かめるように顔を上げていた。
「もし、見えなくなったら……」
クラリッサの声は小さかった。
その問いに、誰も答えられなかった。
その直後、船を包んでいた青白い光が一度だけ強くなる。
セレフィナの指先へ、さらに力が入った。
けれど、しばらくすると赤い月の端へ細い白い光が戻り始めた。
それに合わせるように、湖の中央にあった青白い光も少しずつ薄くなっていく。
「あ……船が」
最初に気づいたクラリッサの声が、わずかに明るくなる。
ぼやけていた輪郭が戻っていた。
そこには、確かにアリアたちの船が浮かんでいる。
セレフィナはその姿を見つめたまま、ようやく長く止めていた息を吐いた。
◇
船が船着き場へ着く少し前から、アリアはもう身体を前へ出したくて仕方がなかった。
岸にはみんながいる。
三つ目の欠片を早く見せたい。
水鏡の向こうで何があったのかも、全部話したい。
けれど、まだ船は動いている。
「まだ」
気持ちを読んだようにルカが言う。
「分かってるよ」
船が岸へ寄ると、今度はイレーネからも声が飛んできた。
「まだですよ」
「分かってる!」
船員が縄を取り、船を岸へしっかり固定する。
それを最後まで待ってから、アリアは船長を見た。
「もういい?」
「いいよ」
「やった!」
許可が出た途端、アリアは船から降りた。
「セレフィナおばあちゃん!」
岸で待っていたセレフィナがしゃがむ。
アリアはそのまま胸へ飛び込んだ。
「帰ってきたよ!」
「ええ」
背中へ回った腕が、いつもより少しだけ強かった。
「ちゃんと帰ってきてくれて、ありがとう」
アリアは一度瞬いた。
「帰ってくるって言ったよ?」
「そうでしたね」
「三つ目も取れたよ!」
「まあ」
「見て!」
すぐマルルを呼ぼうと身体を離したところで、横から低い声が飛んできた。
「待て」
「なに?」
ハイラムは、まだ紙と筆記具を持ったままだった。
「何を見た?」
「いっぱい」
「何が見えた」
「だから、いっぱい」
「最初から全部話してくれ」
「ハイラム様」
エレノアが静かに名前を呼んだ。
「まずは皆さんを船から降ろして差し上げては?」
そこでハイラムもようやく周りを見た。
まだ船にはノルンやイレーネ、エリオたちが残っている。
「……降りてから聞く」
「それがよろしいかと」
「忘れないでよ?」
アリアが念を押すと、ハイラムは紙を持ち直した。
「誰に言ってる。俺は忘れない」
「わたしも!」
「そこは少し心配だな」
「なんで!」
そのやり取りに、張り詰めていた岸辺へようやく笑い声が戻った。
◇
別邸へ戻ると、すぐに温かい飲み物と軽い食事が用意された。
夜の湖で冷えた身体がようやく温まり、皆の顔にも少しずつ疲れが見え始めた頃、待ちかねていたハイラムが卓の上へ紙を広げた。
「それで」
「最初から?」
「最初からだ」
今度はノルンも一緒になり、起きたことを順番に話していく。
二つの赤い月が重なったあと、水鏡の向こうに知らない世界が現れたこと。
そこには空中を漂う水の帯や、雫のようなものを枝につけた木々、氷のような柱があったこと。
水の精霊が現れ、アリアの姿を借りていたこと。
その精霊と話したこと。
そして、マルルのコンパクトが二つの世界の境目を指し、その場所へ引っかかっていた三つ目の欠片を見つけたこと。
一人で手を伸ばすと欠片は反対側へ逃げ、アリアと水の精霊女王が同時に手を伸ばした時だけ、その動きを止めたこと。
最後にコンパクトの光へ導かれ、欠片がこちら側へ渡って三つ目の窪みへ収まったこと。
話が進むにつれて、岸に残っていた者たちから少しずつ言葉がなくなっていった。
「……待ってくれ」
最後まで聞いたハイラムが、ようやく口を開いた。
「水の向こうに、本当に別の世界が見えたのか?」
「うん」
「建物みたいなのもあったよ」
ルカが補う。
「水が空中を流れていました」
ノルンも続ける。
「水の精霊もいたなの」
「しゃべったよ!」
マルルに続いてアリアまで付け足すと、ハイラムはしばらく全員の顔を順番に見た。
誰か一人だけが見たわけではない。
船に乗っていた者たちは、同じものを見ている。
「岸からは、何も見えなかった」
「え?」
今度はアリアたちが驚く番だった。
「見えなかったの?」
「ああ」
「女王さまも?」
「見ていない」
「水の木も?」
「知らん」
「氷みたいな柱も?」
「それも見ていない」
「いっぱいあったよ?」
「だから、その全部がこっちからは見えていないんだ」
アリアは困ったようにノルンを見る。
「同じ湖見てたのに?」
「そういうことになりますね」
ノルンもすぐには答えず、ハイラムの記録へ目を向けた。
「岸から見えたのは」
ハイラムが紙を確かめる。
「月が重なったあと、船の周囲へ青白い光が現れた。それだけだ」
「光?」
「薄い膜のようなものに見えました」
クラリッサも、思い出すように続ける。
「船が、その中へ入っていくように見えたのです」
「入ってないよ?」
「こちらからは、そう見えたんです」
セレフィナが静かに答えた。
「それに、一時は船の姿まで見えにくくなりました」
その言葉を聞いた途端、アリアの顔から笑みが消えた。
「消えた?」
「いいえ」
セレフィナはすぐに首を横へ振る。
「ずっと見えていました。ただ……そこにいるのに、輪郭がはっきりしなくなったのです」
「そこにいるのに……」
ルカが小さく繰り返した。
その言葉を聞いた瞬間、アリアの中にも、エルシアから聞いた話が蘇った。
四歳の自分を先生が追いかけてきた時。
最初は少しずつ距離が縮まっていた。
それなのに途中から、そこにいるはずのアリアが遠く見え、どれだけ飛んでも近づけなくなった。
胸の奥が、かすかにざわついた。
けれど、その考えが形になるより先に、ノルンが静かに口を開く。
「同じとは限りません」
アリアも頷いた。
「うん。まだ決めない」
「ただ、よく似たことがあったという事実は覚えておく必要があります」
「うん」
ハイラムは何も言わず、そのやり取りまで紙へ書き加えた。
そのあと、ノルンは船の上で起きたことと、ハイラムが岸で残した記録を一つずつ照らし合わせていった。
「こちらでは、二つの赤い月が重なったあと、水の精霊界が見え始めました」
「岸からは、その頃に船の周囲へ青白い光が出た」
「皆既月食が終わり始めると、精霊界も薄くなりました」
「こっちから見えていた光も、ほぼ同じ頃から消え始めている」
「時間は、かなり近いですね」
「ああ」
アリアは二人の間に置かれた紙を見比べた。
片方には船の上から見たこと。
もう片方には岸から見たこと。
同じ夜、同じミレア湖で起きたことのはずなのに、そこに書かれている景色はまるで違っている。
「ぜんぜん違うね」
「そうですね」
「どっちがほんと?」
ノルンは二枚の紙へ目を落とした。
「どちらも、本当に見たものなのでしょう」
「違うのに?」
「見る場所が違えば、見えるものも違うということです。だからこそ、どちらか一方だけではなく、両方を残しておく必要があります」
「両方?」
「はい」
ハイラムも頷いた。
「船から見たものだけでも足りない。岸から見たものだけでも足りない。同じ出来事を違う場所から見た記録があれば、それだけ分かることが増える」
「いっぱい見た方が分かる?」
「少なくとも、一つだけ見て決めつけるよりはな」
「ああ」
アリアはようやく少し分かったように頷いた。
それから、マルルの首元にあるコンパクトを見る。
三つ目の欠片は、今もそこにある。
それだけは、船にいた者にも、岸で待っていた者にも変わらない。
けれど、その欠片を見つけた夜に何が起きていたのかは、見る場所によって違っていた。
アリアはもう一度、卓の上に並べられた二つの記録を見比べた。
同じ夜に起きた、一つの出来事。
それなのに、自分が見た景色だけが、その夜のすべてではなかった。
★お読みいただき、ありがとうございます★
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