第104話 水鏡の向こうから
二つの赤い月が重なった水鏡の向こうで、アリアの姿をした少女は、まるで珍しいものでも見つけたように楽しそうな笑みを浮かべたまま、こちらを見つめていた。
アリアは、自分の口元へ当てた手をそのまま動かせずにいた。
さっきまでは、自分が頬へ触れれば少女も頬へ触れ、首を傾げれば同じ方向へ首を傾げていた。大きな鏡を挟んで、もう一人の自分と向かい合っているようにしか見えなかったのに、今は違う。
向こうの少女は笑っている。
けれど、自分は笑っていない。
「……なんで?」
思わずもう一度尋ねると、水でできたような大きな瞳がわずかに細くなり、今度はアリアの真似をすることなく、小さく肩を揺らした。
『そなたが、なかなか面白きものだからよ』
「おもしろい?」
声が聞こえた。
けれど、耳元から聞こえたわけではない。
水鏡の向こうから届いたようにも、風も波も失った湖そのものが声を響かせたようにも感じられる、不思議な声だった。
アリアが目を丸くしたのと同時に、隣にいたルカの猫耳がぴんと前を向いた。
「今、しゃべった?」
「ルカも聞こえた?」
「うん」
ノルンへ顔を向けると、彼女も水鏡の向こうから目を離さないまま、小さく頷いた。
「わたしにも聞こえました」
「マルルも聞こえたなの」
腕の中にいるマルルの長い耳も、まっすぐ少女の方へ向いている。
少し離れた場所では、イレーネも船長も、船員たちさえ声を失ったように水鏡の向こうを見つめていた。
どうやら、アリアだけに聞こえているわけではないらしい。
それが分かると、胸の奥に残っていた小さな緊張がほんの少しだけ解け、アリアは改めて少女へ顔を向けた。
「あなた、だれ?」
『われか?』
「うん」
少女は、自分がそんなことを聞かれるとは思っていなかったらしく、一度だけ瞬いてから自分の身体へ目を落とした。
透き通る腕には、流れる水を幾重にも重ねたような衣をまとい、長い髪は風などないはずなのに、水の中へ漂っているようにゆったりと揺れている。その頭には、透明な氷の花を編んだような小さな冠が載っていた。
『水に属するもの、とでも言えばよいか。そなたらは、われらのことを精霊と呼ぶのであろう?』
「あ!」
アリアの顔が一気に明るくなった。
「水の精霊!」
『うむ』
「会えた!」
嬉しさのまま船縁へ一歩近づきかけてから、アリアは自分で気づいてぴたりと足を止めた。
昼間、何度も確認した言葉が頭の中へ戻ってくる。
見つけても、すぐには追わない。
まず止まる。
確かめる。
それから動く。
「……止まる」
「よくできました」
後ろから聞こえたノルンの声に、アリアは少しだけ胸を張った。
「ちゃんと覚えてるよ」
「今ので少し怪しかったですけれど」
「でも止まったもん」
そのやり取りを見ていた少女が、また楽しそうに目を細める。
「また笑った」
『そなたは見ていて飽きぬな』
「またおもしろいって言った」
アリアは少し頬を膨らませながら、少女の頭にある透明な冠へ目を向けた。
「それ、王冠?」
『これか?』
「うん」
少女が自分の頭へ触れると、氷の花が指先に応えるように、かすかな水音を立てた。
その様子をしばらく見ていたノルンが、一歩だけ前へ出る。
「あなたが、この場所にいる水の精霊たちを束ねている方なのですか?」
少女は、今度はノルンへ顔を向けた。
『束ねる……という言い方でよいのかは分からぬが、この辺りにいる者の中では、われがいちばん古い』
「いちばん古い?」
『うむ。皆、たいていはわれの言うことを聞く』
「じゃあ、女王さま?」
アリアがすぐに尋ねると、少女は初めて聞いた言葉でも確かめるように、小さく首を傾げた。
『女王』
「みんなをまとめる人」
『なるほど』
しばらく考えたあと、少女の口元がまた楽しそうに緩む。
『それはよいな。では、そう呼ぶとよい』
「自分で決めるの?」
ルカが思わず口を挟む。
少女はルカへ顔を向けた。
『いけぬか?』
「いや……駄目じゃないけど」
「じゃあ、女王さま!」
『うむ』
あまりにも簡単に決まったので、ノルンだけが何とも言えない顔で二人を見比べていた。
◇
「でも」
アリアは改めて水の精霊女王の顔を見つめた。
「どうして、わたしなの?」
『何のことだ?』
「お顔」
自分の頬を指差すと、女王も同じように自分の頬へ触れた。
『これか?』
「それ」
『そなたの形をまねた』
「どうして?」
『楽しいからよ』
「楽しい?」
女王は答える代わりに片手を上げた。
すると、透き通っていた指先がふっと輪郭を失い、水がほどけるように掌から細く流れ出す。流れた水は空中でくるりと丸まり、羽を広げた小さな鳥の姿へ変わった。
「わあ!」
アリアが思わず身を乗り出しかける。
水の鳥は女王の周りを一度ゆっくり飛び、その肩へちょこんと止まったかと思うと、次の瞬間には形を崩し、細かな雫となって腕の中へ溶け戻っていった。
『われには、そなたらのように決まった形がない』
「ずっと?」
『うむ』
「じゃあ、お顔も?」
『それも借りた形よ』
「髪も?」
『それも』
「お洋服も?」
『もちろん、それもだ』
アリアは、女王を頭から足元までじっくり見た。
「でも、全部わたしと同じじゃないよ?」
『すべて同じでは、つまらぬであろう?』
少し考えたあと、アリアは真面目に頷いた。
「それはそうかも」
「納得するんだ」
ルカが笑う。
女王はそんなアリアを見て、また楽しそうに目を細めた。
『外のものが見える時には、こうして気に入った形をまねることがある。今宵は、そなたがいちばん近くにいたゆえ、そなたの形を借りたまで』
「そっか」
今度は、あっさり納得した。
アリアはそれから、女王の向こうに広がる淡い光に満ちた世界へ目を向ける。
「ここ、水の精霊の世界?」
『そなたらがそう呼びたいなら、それでよい』
「ずっとここにいるの?」
『ずっと、というのがそなたらの時でどれほどかは分からぬが、われは長くここにいる』
「こっちに来たことある?」
その質問を聞いた時だけ、女王の楽しそうだった表情がほんの少し変わった。
『昔はな』
「昔?」
『今よりもっと自由に、そなたらの世界へ渡れたものよ』
アリアの目が、すぐに女王へ戻る。
「この湖にも?」
『うむ。ここだけではなく、昔は今よりずっと、そちらとの行き来が容易であった』
ノルンが静かに尋ねる。
「今は、できないのですか?」
『できぬ』
「なぜです?」
女王は少し考えるように、二つの世界の境目へ目を向けた。
『それは、われにも分からぬ』
「いつからですか?」
『さて……いつからであったか。こちらでは、そなたらのように年月を数えぬのでな』
「誰かが、行けなくしたの?」
今度はアリアが尋ねる。
『それも知らぬ』
返ってくる答えが思っていたよりずっと少なくて、アリアは少しだけ眉を下げた。
「分からないの、いっぱいだね」
『そなたもか?』
「わたしもいっぱいあるよ」
『困るか?』
「ちょっと」
アリアは素直に答えたあと、すぐに続けた。
「でも、調べてる」
『調べる?』
「分からないことをね、分かるところから一個ずつ調べるの」
女王は、その言葉を初めて聞いたもののようにしばらく考えていた。
『そなたらは、ずいぶん手間のかかることをするのだな』
「でも、前よりいっぱい分かったよ」
『楽しいか?』
「うん!」
そこだけは迷いなく返ってきた答えに、ノルンの口元がほんの少しだけ緩んだ。
◇
その時だった。
リーン。
澄んだ音が、今度ははっきりとマルルの首元から響いた。
「コンパクト!」
アリアが振り返る。
「光ってるなの!」
マルルの首元では、小さなコンパクトがひとりでに開き、中に収まっている二つの欠片が淡い青い光を放っていた。
その中央からさらに細い光が生まれ、すうっと伸びた青い線は、これまでのように船首へ向かうのではなく、ゆっくり向きを変えていった。
「あ……」
アリアは息を呑みながら、その先を目で追う。
光が向かったのは、水の精霊女王ではない。
アリアたちのいる世界と、水鏡の向こうに広がる水の精霊界。その二つが触れ合って見える、ちょうど境目のような場所だった。
「そこ?」
アリアが目を凝らす。
けれど、青い線の先には何も見えない。
「何もないよ?」
「ですが、光はそこで止まっています」
ノルンも同じ場所を見つめている。
「マルル、少しだけ向きを変えてみてください」
「なの」
マルルがアリアの腕の中で身体の向きを少し変えると、コンパクトから伸びる光も一緒に横へずれた。
ところが次の瞬間には、まるで何かへ引かれるように方向を戻し、また同じ一点を指す。
「やっぱり、そこだ」
ルカも目を細めた。
アリアは、青い線が刺している場所から目を離さなかった。
そこは人間界でも精霊界でもなく、二つの景色が重なって見える、そのちょうど間だった。
しばらく目を凝らしていると、青い光の中で何かがきらりと小さく輝いた。
「あ!」
「今あった!」
「見えたなの!」
「どこ?」
「そこ!」
アリアが指差す。
もう一度、きらりと淡い青が瞬いた。
今度はルカにも、ノルンにも見えた。
二つの世界が触れ合って見える、そのちょうど境目に、小さな青い欠片が、まるで透明な何かへ引っかかっているように宙へ浮かんでいる。
「欠片……」
アリアの声が、思わず小さくなった。
コンパクトから伸びる青い光は、今度こそ迷うことなく、その小さな欠片だけをまっすぐ指していた。
「三つ目?」
「その可能性は高いでしょう」
ノルンが答える。
「これほどはっきりコンパクトが反応しているのですから」
その言葉を聞いた途端、アリアの顔に笑みが広がった。
「見つけた!」
『それか?』
水の精霊女王も、初めて気づいたように欠片へ目を向ける。
「女王さま、知らなかったの?」
『知らぬ』
「ずっとそこにあった?」
『それも分からぬな』
女王は境目に浮かぶ欠片を、不思議そうに眺めた。
『いつからあったのであろう』
「女王さまでも分からない?」
『女王とて、知らぬものはある』
「あ」
アリアが一度瞬く。
「ノルンと同じこと言った」
「わたしは女王ではありません」
「そこじゃないよ」
ルカが小さく笑った。
女王は、そんなこちら側のやり取りを楽しそうに眺めてから、もう一度欠片へ目を戻した。
『こちらでは、そなたらのように日も年も数えぬ。ずっと昔からあったのか、つい先ほどここへ来たのか、それすらわれには分からぬ』
「じゃあ、いつから引っかかってるのかも分かんないんだ」
『うむ』
女王はあっさり頷いた。
分からないものは、やはり分からないらしい。
◇
『それが欲しいのか?』
「うん!」
アリアは大きく頷く。
「女神さまに、八個集めてってお願いされてるの」
『八つ』
「今は二つ。だから、それが三つ目!」
『ならば、取ればよい』
「うん!」
アリアが答えた、その時だった。
水の精霊女王が何気なく欠片へ手を伸ばした。
透き通った指先が、境目に浮かぶ青い欠片へ近づいていく。
あと少しで触れそうになった瞬間、欠片がすっと動いた。
「え?」
女王の指先から逃れるように、こちら側へ滑ってきたのだ。
「来た!」
青い欠片が、アリアのすぐ目の前まで近づいてくる。
コンパクトから伸びる青い光も、その動きを逃さないように、ぴたりと欠片を追い続けていた。
「取れる!」
アリアが反射的に手を伸ばすと、今度は欠片がするりと境目を越え、アリアの指先から逃げるように水の精霊女王の方へ戻っていった。
「あ!」
「逃げた!」
『こちらへ来たぞ』
「女王さま、取って!」
『うむ』
ところが女王が手を伸ばせば、欠片はまたアリアの方へするりと逃げてくる。
「来た!」
今度こそ、とアリアが手を出した途端、欠片はまた向こうへ戻っていった。
「また!」
『こちらへ戻ったぞ』
「女王さま、取って!」
女王が取ろうとすればこちらへ、アリアが取ろうとすれば向こうへ。
青い欠片は二人をからかっているかのように境界の上を行ったり来たりし、そのたびにマルルのコンパクトから伸びる青い光まで、右へ左へと忙しく動いていた。
「待って!」
アリアが欠片へ向かって言う。
けれど、欠片は待ってくれない。
「止まって!」
今度も止まらず、女王の側へするりと逃げていく。
「アリア」
とうとうルカが笑いを堪えながら声を掛けた。
「欠片にお願いしても、たぶん無理だと思う」
「だって逃げるんだもん!」
「追いかけっこなの」
マルルの長い耳まで、欠片の動きに合わせて右へ左へ揺れている。
『これは愉快だな』
向こうでは、水の精霊女王まで楽しそうに笑っていた。
「女王さまは笑ってないで取るの!」
『取っておる』
「取れてないよ!」
『そなたもであろう?』
「わたしも取れてない!」
ルカがとうとう吹き出し、少し後ろにいたエリオまで口元を押さえた。
「笑わないでよ!」
「ごめん。でも……」
まだ肩を揺らしながら、ルカは二人を見比べる。
「二人とも同じことしてるから」
「だって取れないんだよ?」
「だから、一回止まろう」
「あ」
その一言で、アリアの手がぴたりと止まった。
昼間、何度も確認したことを思い出す。
追わない。
まず止まる。
確かめる。
それから動く。
アリアは一度だけ大きく息を吐き、今度は欠片へ手を伸ばさずに、その動きを思い返した。
「……分かった」
◇
誰も手を出さなくなると、欠片は再び二つの世界の境目へ戻り、何事もなかったように静かに浮かんでいた。
マルルのコンパクトから伸びる青い光だけが、その一点をまっすぐ照らしている。
ノルンはしばらく欠片を見つめてから、先ほどの動きを一つずつ確かめるように口を開いた。
「女王様が手を伸ばすと、欠片はこちら側へ動きました」
「うん」
「アリアが手を伸ばすと、今度は向こう側へ」
「うん」
「どちらから取ろうとしても、必ず反対側へ逃げていますね」
『われからも取れぬ』
「わたしからも取れない」
アリアは、境目に浮かんでいる欠片を少し睨むように見た。
「ずるい」
「欠片に善悪はないと思いますよ」
「でも、ずるい」
そこだけは譲らなかった。
女王が手を出せば、こちらへ。
自分が手を出せば、向こうへ。
さっきの動きを何度も頭の中で繰り返しているうちに、アリアはふと、一度だけ欠片の動きが鈍くなった瞬間を思い出した。
「ねえ、女王さま」
『なんだ?』
「さっき、一回だけちょっと止まらなかった?」
『止まった?』
「わたしが手を出した時に、女王さまも手を出そうとした時」
女王も少し考えるように、境目へ浮かぶ欠片を見た。
『……言われてみれば、動きが鈍ったようにも見えたな』
「ノルンは?」
「わたしにも、一瞬だけ止まりかけたようには見えました」
アリアは自分の右手を見てから、境の向こうにいる女王の手を見る。
「女王さまが手を出したら、こっちに逃げる」
『うむ』
「わたしが手を出したら、そっちに逃げる」
『そうだな』
「じゃあ」
アリアは少しだけ首を傾げた。
「二人でいっぺんに行ったら、どっちに逃げるの?」
水の精霊女王が、ぱちりと瞬いた。
すぐには答えず、欠片とアリアを交互に見比べる。
『それは……われにも分からぬ』
「やってみる?」
今度は女王の顔が、見るからに楽しそうに明るくなった。
『やってみよう』
二人が同時に動こうとしたところで、ノルンの声が飛んだ。
「待ってください」
アリアも女王も、ぴたりと止まる。
「また?」
「またです」
ノルンは、二つの世界の境目と、その間に浮かぶ欠片を見比べた。
「試すのは構いません。ただし、手を伸ばすだけです。アリアは身体を決して前へ出さないこと」
「うん」
「女王様も、できれば同じようにしてください」
『承知した』
「何か起きたら、すぐに手を引いてください」
「はぁい」
『うむ』
さっきまでアリアと似たような返事をしていた女王が急に古い調子へ戻ったので、ルカが小さく笑った。
「なに?」
「別に」
「絶対なんか笑った」
「今は欠片」
ノルンに言われ、アリアもすぐ前へ向き直った。
◇
アリアは船縁のそばへ立ち、水の精霊女王も向こう側から、境目に浮かぶ欠片の前へ進んだ。
二人の間には、人間界にも水の精霊界にも完全には属していないように見える、小さな青い欠片が浮かんでいる。
マルルのコンパクトから伸びた光は、今も変わらずその欠片を照らしていた。
「いくよ」
『うむ』
「せーのって分かる?」
『分からぬ』
「一緒にってこと」
『ならば分かった』
「じゃあ、せーの!」
二人が同時に手を伸ばすと、欠片がいつものようにすっと動こうとした。
けれど、水の精霊女王から逃げようとすれば、その先にはアリアの指先がある。アリアから逃げようとすれば、今度は向こう側から女王の手が近づいている。
欠片はこちらへ逃げようとして一度止まり、今度は反対へ動こうとしたものの、そこにも女王の手があるため、また同じ場所へ押し戻された。
青い欠片は、二つの世界のちょうど真ん中で行き場を失ったように小さく震えている。
「止まった!」
『止まったな』
「そのまま!」
ルカの声が飛ぶ。
アリアと女王は互いの動きを確かめながら、さらにゆっくり指先を近づけていった。
今度は、欠片が逃げない。
マルルのコンパクトから伸びている青い光が少しずつ強くなり、欠片だけではなく、アリアと女王の指先まで淡く照らし始める。
あと少し。
アリアと水の精霊女王の指先が、その間に浮かぶ三つ目の欠片へゆっくり近づいていき、二人はほとんど同時に欠片へ触れた。
リン。
小さく澄んだ音が、指先のすぐそばで鳴った。
アリアは息を止める。
今度は、欠片が逃げなかった。
「……取れた?」
『どうやら、そのようだな』
「まだ離さないでください」
ノルンがすぐに言う。
「はぁい」
『うむ』
アリアは少し緊張したまま、欠片へ触れている指先を動かさなかった。
すると、マルルのコンパクトから、今までよりも強い音が響いた。
リーン。
「光ったなの!」
中に収まっている二つの欠片が一斉に青い光を放ち、その光が一本の線となって、アリアと水の精霊女王が同時に触れている三つ目の欠片へまっすぐつながった。
その瞬間、三つ目の欠片がふわりと二人の指先から離れ、宙へ浮かび上がる。
「逃げた?」
アリアの身体が反射的に動きかけた。
「待って」
今度はルカの声に、自分で踏みとどまる。
欠片は、もうどちらの世界へも逃げてはいなかった。
コンパクトから伸びる青い光に導かれるように境目を越え、水鏡の向こうからアリアたちのいる世界へ、ゆっくりと近づいてくる。
そしてマルルの目の前まで来ると、一度だけ静かに止まった。
「来たなの……」
マルルが息を詰めたようにコンパクトを見下ろす。
青い欠片は、その上でくるりと向きを変えると、空いていた三つ目の窪みへ、かちりと小さな音を立ててぴたりと収まった。
アリアは、しばらく瞬きさえできなかった。
「入った」
「うん」
ルカの声も、いつもより少しだけ弾んでいる。
「入ったね」
「三つ目なの!」
マルルの長い耳が、嬉しそうに大きく揺れた。
「三つ目!」
アリアも両手を上げ、そのまま勢いよく跳び上がろうとする。
「船の上」
「船の上ですよ」
「跳ぶなよ」
ルカ、ノルン、エリオの声が三方向からほとんど同時に飛んできた。
アリアは両手を上げた姿勢のまま固まり、そっと浮きかけた踵を甲板へ戻す。
「……跳んでないよ」
「今、跳ぼうとしたよね」
「でも止まったもん」
「それは偉い」
「でしょ?」
褒められたので、それで満足したらしい。
◇
水鏡の向こうでは、水の精霊女王が、自分の指先と、さっきまで欠片の浮かんでいた場所を不思議そうに見比べていた。
『取れたな』
「うん!」
『ひとりでは逃げたというのに』
「二人だったら取れた」
『妙なものだ』
「なんでかな?」
アリアはすぐにノルンを見る。
ノルンも少し考えたものの、やがて静かに首を横へ振った。
「分かりません」
「そっか」
今度は女王を見る。
「女王さまは?」
『われにも分からぬ』
「やっぱり」
アリアは、マルルのコンパクトに収まったばかりの三つ目の欠片を眺めた。
「いつからあそこにあったのかも分かんない」
『うむ』
「なんで境に引っかかってたのかも?」
『知らぬ』
「なんで一人だと逃げたのかも?」
『それも知らぬ』
「二人なら取れたのも?」
『分からぬな』
アリアは指を一本ずつ折りながら数えていたが、途中でやめた。
「いっぱいあるね」
『何がだ?』
「調べること」
『また調べるのか』
「うん」
『そなたらは、ほんに忙しいものだな』
「でも」
アリアは少しだけ笑った。
「三つ目は取れたよ」
その言葉を聞くと、女王もにこりと笑った。
『それは、われにも分かる』
「一個分かった」
『うむ』
分からないことは、まだたくさんある。
けれど、何も分からないわけではない。
少なくとも、三つ目の欠片は今、確かにマルルのコンパクトの中にある。
◇
「ねえ、女王さま」
アリアは、もう一度水鏡の向こうに広がる世界を眺めた。
「昔は、本当にこっちと行ったり来たりできたんだよね」
『うむ』
「今はできない」
『そうだ』
「また、できるようになる?」
女王は少し考えるように遠くへ目を向けた。
『それは分からぬ』
「そっか」
今度のアリアは、それ以上尋ねなかった。
どうして行き来できなくなったのか。
何が二つの世界を隔てているのか。
境はいつから今のようになったのか。
そして、なぜ三つ目の欠片がそこに引っかかっていたのか。
一晩で全部の答えが出るわけではない。
それでいい。
分からないことがあれば、また分かるところから調べればいい。
アリアは最近になって、少しずつそれを覚えていた。
「ノルン」
「はい」
「今日のこと、いっぱい覚えた?」
「もちろんです」
「わたしも覚える」
「お願いします」
「ルカもね」
「僕もずっと見てたよ」
「マルルも覚えるなの!」
「じゃあ、みんなだね」
アリアが満足そうに笑う。
そんなこちら側の様子を、水の精霊女王は少し不思議そうに眺めていた。
『そなたらは、何でも皆で覚えるのか?』
「うん」
『なぜだ?』
「一人だと忘れるかもしれないから」
「アリアの場合は特にね」
ルカがさらりと言った。
「ルカ!」
『そなた、忘れるのか?』
「忘れないよ!」
『先ほど、欠片を見つけた途端に“止まる”を忘れかけておったぞ』
アリアは一瞬言葉を失い、それから少し不満そうに女王を見た。
「女王さま、見てたの?」
『見ておった』
「いっぱい見てるね」
『そなたは見ていて飽きぬからな』
「またそれ!」
船の上へ、小さな笑い声が広がった。
◇
その時、水鏡の向こうに広がっていた淡い光が、ほんの少しだけ揺らいだ。
ノルンがすぐに空を見上げる。
「月が」
その声につられてアリアも振り返ると、暗い赤に染まっていた月の端へ、細い白い光が戻り始めていた。
「皆既食が終わり始めています」
「じゃあ……」
アリアは慌てて水鏡の向こうを見る。
水の精霊界も、先ほどまでより輪郭が淡くなっていた。氷のような柱の向こうは少しずつ霞み、空中を漂っていた透明な水の帯も、淡い光へ溶けるように薄くなっている。
「消えちゃう?」
『そのようだな』
「また会える?」
女王は少しだけ首を傾げると、赤い月へ一度目を向けた。
『赤き月が、また重なる時ならば……再び道が開くやもしれぬ』
「次の月食?」
『そなたらは、そう呼ぶのであったな』
「ずっと先だよ?」
『そうなのか?』
「そうだよ!」
驚くアリアとは反対に、女王はまるで困っていない。
『こちらでは、そなたらほど時を気にせぬ』
「じゃあ、待てる?」
『待つことなど、どうということもない』
「わたしは苦手」
『知っておる』
「なんで?」
女王が楽しそうに笑った。
『顔に出ておる』
「また?」
『よく出る顔だ』
アリアは両手で自分の頬を触った。
「字ないのに」
とうとうルカが声を上げて笑う。
「そういう意味じゃないよ」
「知ってるよ!」
意味が分かっているのかいないのか、水の精霊女王まで楽しそうに笑っていた。
アリアは頬から手を離すと、少しずつ薄れていく女王へ手を上げた。
「じゃあ、またね」
『うむ。またな、アリア』
水の精霊女王が、ゆっくりと手を振る。
アリアも胸の前で、小さく手を振り返した。
今度は船の上だから、大きくは振らない。
透明な水の帯や、雫の花を咲かせていた木々、薄い氷のような柱が次々と淡い光へ溶けていき、その中に立つアリアの姿を借りた水の精霊女王も、少しずつ輪郭を失っていった。
最後まで見えていた女王の顔が、もう一度楽しそうに笑った。
次の瞬間、水鏡の向こうにあった世界は消え、そこに残ったのは皆既食を終え始めた月と、その光を映すミレア湖だけだった。
止まっていた夜の風が少しずつ湖へ戻り始める。
鏡のように静まり返っていた水面には細かな波が生まれ、それまで空の月をそのまま映していたもう一つの月も、波に合わせてゆっくり輪郭を崩していった。
アリアはしばらく、何も言わずにその湖を見つめていた。
水鏡の向こうには、本当に別の世界があった。
そこには水の精霊たちがいて、昔は今よりもっと自由にこちらと向こうを行き来することができたらしい。けれど今はできず、その理由もまだ分からない。
そして二つの世界の境には、いつからそこにあったのかさえ誰にも分からない、三つ目の欠片が引っかかっていた。
一人では取れず、どちら側から手を伸ばしても欠片は反対側へ逃げてしまったのに、二つの世界から同時に手を伸ばした時だけは逃げなかった。
「アリア」
隣から聞こえたルカの声に、アリアはようやく顔を上げた。
「うん?」
「コンパクト」
「あ」
マルルが大事そうに持っている小さなコンパクトへ目を落とす。
そこには一つ目、二つ目、そしてその隣に、三つ目の青い欠片が確かに収まっていた。
「三つ目」
アリアが小さく呟くと、ルカも嬉しそうに笑った。
「うん。三つ目だね」
「三つ目なの!」
マルルの長い耳が、嬉しそうに揺れる。
アリアはもう一度だけ、何も映らなくなったミレア湖へ目を向けた。
今夜、分からないことはまたいくつも増えた。
それでも、それと同じくらい確かに、見つけたものも一つ増えていた。




