第103話 水鏡の向こう
……リーン。
澄んだ音が、夕暮れの湖の上を細く長く渡っていった。
アリアは東の空へ昇り始めた満月から顔を戻し、腕の中にいるマルルを見る。
「鳴った」
「鳴ったなの」
マルル自身も驚いたらしく、長い耳を揺らしながら首元のコンパクトへ顔を近づけていた。
けれど、空へ昇り始めた月はまだ白い。
皆既月食が始まったわけでもなければ、湖面にも変わったものは見えず、夕暮れの色を映した水面が、船の進むたびに細かな波を広げているだけだった。
それでも、コンパクトは確かに反応した。
「開けてみて」
ルカに言われ、マルルが前足で小さな蓋を開く。
中には、これまで集めた二つの欠片が収まっていた。
その中央から淡い青い光が生まれ、細い線となって船の前方へまっすぐ伸びていく。
「前だね」
アリアが光の先を目で追うと、ノルンもコンパクトから伸びる線を確かめながら小さく頷いた。
「今のところは、まっすぐ前ですね」
船長も一度振り返り、光の向きを確認する。
「それなら、このまま進めるよ」
「うん」
アリアが頷くと、船は夕暮れのミレア湖をゆっくり沖へ進んでいった。
まだ岸は見えている。
振り返れば、船着き場には小さくなった人影がいくつか並んでいて、セレフィナやエレノア、クラリッサたちがこちらを見送っているのが分かった。その少し離れた場所には、きっとハイラムもいる。
アリアは大きく手を振りかけ、途中でぴたりと止めた。
さっき、船の上では気をつけるように言われたばかりだ。
少し考えてから、胸の前で小さく手を振る。
「ちゃんと覚えてるね」
隣にいたルカが笑った。
「覚えてるよ」
「たぶんじゃなく?」
「今日はほんと!」
むっとしながら答えたあと、アリアはもう一度船の進む先へ顔を向けた。
白い満月は、少しずつ東の空を昇っている。
その姿は湖にも映り、夕方の風に揺れる水面の中で、もう一つの月が細かく輪郭を崩しながら、空にある月と同じように輝いていた。
今はまだ、どちらも見慣れた満月だった。
◇
船が沖へ進むにつれて岸は遠くなり、西の空に残っていた淡い金色も少しずつ薄れていった。
代わりに深い青が空と湖を包み始め、辺りが暗くなるのに合わせて、船に積まれていた灯りにも一つずつ火が入っていく。
その頃には、コンパクトから伸びる青い光も、夕暮れの中ではっきり見えるようになっていた。
「もう少しだよ」
船長が前方を見ながら言った。
「前に反応が変わった辺りまで、あと少し」
マルルが首を伸ばし、コンパクトを覗き込む。
「まだ前なの」
「少し右へ向けてみよう」
船長が船員へ声を掛けると、船首がゆっくり右へ向きを変えた。
「光は?」
「前なの」
「じゃあ、今度は左へ」
船が反対へ向きを変えても、青い光は変わらず船首の先へ伸びている。
「前なの」
マルルの返事を聞いて、ルカの猫耳がぴくりと動いた。
「始まった」
「あの時と同じ?」
アリアが尋ねる。
「うん」
前に湖へ出た時も、ここから先は同じだった。
右へ向いても、左へ向いても、岸へ戻る方向へ船を向けても、コンパクトの光はいつも船の前へ伸びた。
船長は船を元の向きへ戻すと、それ以上進ませず、静かに速度を落としていった。
「ここからは、予定通り待つよ」
「止まる」
アリアが言う。
「そう」
「確かめる」
「そうだね」
「それから動く」
「よく覚えてた」
船長に褒められ、アリアは少しだけ得意そうに胸を張った。
けれど、その表情はすぐに変わった。
「あ」
見上げた空で、満月の端へほんの少しだけ暗い影が触れていた。
「欠けてる」
その声に、皆も空を見る。
白く丸かった月の端へ、小さな影が入り込んでいる。
最初は注意して見なければ気づかないほどだったのに、しばらく見ているうちに、その影はゆっくりと月の内側へ広がっていった。
「始まったね」
船長が言った。
アリアは何も答えず、月を見つめていた。
皆既月食のことを初めて聞いた時には、月がなくなってしまうような気がして少し怖かった。
今は、そうではないと知っている。
月そのものが消えてしまうわけではない。
それでも、いつも丸い月が目の前で少しずつ暗くなっていく光景は、知識として分かっていても不思議だった。
「ほんとに欠けてく」
「うん」
ルカも隣で空を見上げている。
アリアは少しだけその横顔を見た。
「怖い?」
「ちょっと」
「まだ一緒だね」
「そうだね」
同じ答えが返ってきたことに、アリアは小さく笑った。
◇
それからの時間は、ひどくゆっくり進んでいるように感じられた。
月を覆う影は少しずつ大きくなり、白く輝いている部分がゆっくり細くなっていく。
湖面に映る月も、空の月をそのまま写したように同じ形で欠けていた。
空を見上げて。
湖を覗き込み。
また空を見る。
何度も二つの月を見比べていたアリアは、やがて月とは別の変化に気づいた。
「ねえ」
「どうしました?」
ノルンが振り返る。
「お水、さっきより静かじゃない?」
ルカも湖へ目を向けた。
「……ほんとだ」
船のすぐそばには、自分たちが進んできたことで生まれた小さな波がまだ残っている。
けれど、その向こうでは、湖面を渡っていた細かな揺れが少しずつ弱くなっていた。
頬に触れる夜の風も、先ほどよりずっと穏やかで、帆を揺らしていた空気の動きも、いつの間にかほとんど感じられなくなっていた。
船長も湖面を見回した。
「こんなふうに風が落ちるのは珍しいな」
「止まっちゃうの?」
「まだ分からないけど、ずいぶん静かになったね」
アリアは船縁から水面を覗き込んだ。
波が弱くなったぶん、そこに映る欠けた月の輪郭が、さっきよりずっとはっきりしている。
「鏡みたい」
まるで、水の中にもう一つ空があるようだった。
まだわずかに揺れてはいるものの、湖面の月は空に浮かぶ月と同じ形をして、同じように少しずつ欠けている。
ノルンも何も言わず、その二つを見比べていた。
「二つの月……」
アリアが小さく呟く。
別邸の書庫で読んだ古い言葉が、もう紙の上の文字だけではなくなっていた。
空にある月と、水に映る月。
確かに今、二つの月が目の前にある。
けれど、まだ離れている。
◇
さらに時間が過ぎると、白く残っていた部分は細くなり、月の光そのものも弱くなっていった。
周囲の山々はほとんど黒い影となり、遠くの岸も少しずつ夜の中へ溶けている。
船の灯りだけが、先ほどよりも妙に明るく見えた。
「色が……」
イレーネの声に、アリアも空を見上げる。
影に覆われた月が、いつの間にか淡い赤みを帯び始めていた。
「赤い」
最初は、まだ真っ赤ではない。
暗い茶色のようにも見えた色が、影が深くなるにつれて少しずつ変わり、やがて銅のような赤を帯びていく。
いつも見ている月とは、まるで違っていた。
「ほんとに赤くなった」
アリアは瞬きも忘れたように、その変化を見上げていた。
そして、その赤は湖にも映っている。
静かになった水面の中で、もう一つの月も、空の月を追うようにゆっくり赤く染まっていった。
空には、暗い赤を帯びた月。
その真下の湖には、同じ色をしたもう一つの月。
二つを見比べていたアリアの胸の奥で、何かが小さく高鳴った。
「赤き月、水鏡に沈みし夜」
ノルンが静かに読み上げる。
誰もその続きを口にしなかった。
何百年も前に残された言葉の景色が、今まさに自分たちの目の前で形になり始めていた。
◇
やがて、最後まで白く残っていた細い光も、ゆっくり影の中へ入っていった。
月全体が暗い赤に染まる。
「全部……」
アリアが呟いた。
「入りました」
ノルンも空を見上げたまま答える。
「皆既食です」
その瞬間。
ふっと、何かが消えた。
アリアは思わず周囲を見回した。
「……風?」
さっきまでわずかに頬へ触れていた夜の風が、どこにもなかった。
帆も動かない。
湖を渡っていた細かな波も、まるで見えない手で一つずつ撫でられていくように静まり、船の周りに残っていた小さな波紋さえ、ゆっくり広がったあと何の跡も残さず消えていった。
やがて湖全体が、空をそのまま映した巨大な鏡のようになった。
アリアは息を止める。
空には、暗い赤に染まった月が浮かんでいる。
その真下には、まったく同じ形をしたもう一つの赤い月が、揺れ一つない湖面に映っていた。
どちらが空で、どちらが水なのか分からなくなるほど、二つの月は同じ形をしている。
船のきしむ音も聞こえない。
水が船腹へ触れる音もない。
すぐ隣にいるはずの誰かの息遣いさえ、ひどく遠くなったように感じられた。
湖だけではなく、この場所そのものが息を潜め、時間まで止まってしまったようだった。
その静寂の中で。
リィーン。
どこからともなく、透き通った鈴の音が響いた。
「今の……」
ルカが辺りを見回す。
「マルル?」
「ぼくじゃないなの」
マルルも長い耳を立て、音の行方を探している。
もう一度。
リィーン。
今度は、湖そのものが鳴ったように聞こえた。
アリアはゆっくり水面へ目を戻した。
空には赤い月があり、その真下の湖にも同じ赤い月が映っている。
けれど。
「……あれ?」
アリアの目が止まった。
何かがおかしい。
上下に離れていたはずの二つの月が、少しずつ近づいているように見えた。
「ノルン」
「見えています」
ノルンの声も、いつもよりわずかに低かった。
船は止まったままだ。
月も、本来ならこんな速さで動くはずがない。
それなのに、目の前では湖面の赤い月が、水の奥からゆっくり浮かび上がるように見え、空に浮かぶ月は反対に水へ向かって沈んでくるようだった。
「二つの月……」
ルカが呟く。
アリアは息をすることも忘れ、その光景から目を離さなかった。
赤い月と、その姿を映していたはずの赤い月。
二つの間にあった距離が、ゆっくりと狭くなっていく。
誰も動かなかった。
見えたものを追わない。
まず止まり、何が起きているのかを確かめる。
昼間に何度も確認したことを、アリアは思い出していた。
そして、ただ目の前の景色を見続けた。
やがて。
二つの赤い月が、一つに重なった。
◇
リィィーン。
これまでよりも長く、澄み切った音が湖全体へ響き渡った。
重なった赤い光が一度だけ大きく揺らめき、その波が湖面ではなく、目の前の空間そのものへ広がっていく。
アリアは瞬きを忘れた。
さっきまで二つの月があった、その向こう側に。
今までなかった景色が広がっていた。
水の底ではない。
湖の向こう岸でもない。
確かにそこに見えているのに、今自分たちがいる場所とは違う。
アリアがこれまで一度も見たことのない世界だった。
青とも白とも言えない淡い光が、どこまでも広がっている。
地面のようなものがあるのに、その上を透明な水が薄く流れているようにも見え、遠くには薄い氷から削り出したような柱がいくつも立ち並んでいた。
柱と柱の間には、水とも霧とも分からないものが静かに漂っている。
そこには空があるのかどうかも分からなかった。
太陽も月も見えないのに、世界そのものが内側から淡く光っている。
遠くに木のようなものも見えた。
けれど枝の先にあるのは葉ではなく、透明な雫のようなものだった。
雫は花のように枝へ連なり、落ちることもなく、静かな光をまとっている。
水は上から下へ流れるだけではない。
細い水の流れが途中で止まり、そのまま透明な帯となって空中をゆるやかに漂っていた。
「……きれい」
ようやく出たアリアの声は、自分でも驚くほど小さかった。
美しかった。
けれど、人間界のどこにもない美しさだった。
静かで、冷たく、それなのに死んでいるようには見えない。
何も急いでいないのに、すべてがゆっくり動いているようにも感じられる。
時間そのものが、こちらとは違う流れ方をしているような世界だった。
「これ……」
ルカの声が、少し遅れて聞こえた。
「湖に映ってるの?」
「分かりません」
ノルンも向こうの景色から目を離さない。
「ただ別の場所を映しているのか、それとも、本当に向こう側が見えているのか……」
「向こう側……」
アリアの胸が大きく鳴った。
その時。
淡い光に満たされた世界の奥で、何かが動いた。
「あ」
アリアが目を凝らす。
遠くから、誰かがこちらへ歩いてくる。
足を進めるたび、その足元には透明な波紋が生まれ、淡い光の中へ静かに広がっていった。
「誰かいる」
アリアが言うと、ルカも思わず身を乗り出しかけた。
けれど途中で止まり、すぐに姿勢を戻す。
「動かない」
「うん」
アリアもその場から動かなかった。
今は、ただ見る。
人影はゆっくりと近づいてくる。
まだ遠くにいる時には、小柄な誰かだということしか分からなかった。
けれど近づくにつれて、流れる水を何枚も重ねたような衣をまとっていることが見えてくる。
長い髪は、風などないはずなのに、ゆるやかな水流に漂うように揺れていた。
頭には、透明な氷の花を編んだような小さな冠があり、その一つ一つが淡い光を返している。
さらに近づき。
その顔が、はっきり見えるところまで来た時。
アリアの目が大きくなった。
隣にいるルカも言葉を失い、マルルの長い耳がぴんと立つ。
ノルンでさえ、その少女の顔を見た瞬間に一度だけ静かに瞬いた。
水の向こうに立っている少女は、アリアによく似ていた。
同じくらい小さな身体に、幼い丸みを残した頬と大きな瞳。
けれど、その身体は人の肌ではなく、透き通った水と淡い光で形作られているように見える。
長い髪の先から、ときどき小さな雫がほどけていく。
雫は地面へ落ちるよりも早く光の粒となり、空中へ溶けて消えていった。
少女が、こちらを見る。
アリアも、少女を見る。
大きな水鏡を挟んで、自分自身と向かい合っているようだった。
アリアはしばらくその顔を見つめたあと、確かめるように自分の頬へ片手を当てた。
すると向こうの少女も、同じように頬へ手を当てる。
「え?」
アリアが首を傾げると、少女も同じ方向へ首を傾げた。
アリアの眉が少し寄る。
「……わたし?」
それまでアリアの動きをそのまま写していた少女が、そこで初めて違う動きをした。
水でできたような大きな瞳がわずかに細くなり、口元が楽しそうに緩んでいく。
にこりと笑った。
アリアは自分の口元へ手を当てた。
自分は、笑っていない。
「……なんで?」
二つの赤い月が重なった水鏡の向こうで、アリアの姿をした少女は、まるで面白いものを見つけた子どものように、楽しそうにこちらを見つめていた。




