第102話 赤い月の夜へ
それからの一週間は、驚くほど早く過ぎていった。
満月を待っているからといって、毎日湖のことばかり考えていたわけではない。
朝になれば飛ぶ練習をして、そのあとは魔法を使ったり、本を読んだりする。時には本邸へ出掛けてミントに乗り、ハイラムから新しい資料が届けば、ノルンと一緒に読めるところを覗き込んだ。
ルカがエミールと訓練をしている間には、セレフィナと一緒に両親への手紙を書くこともあった。
いつもと同じように食事をして、笑って、覚えたことを一つずつ練習しながら、一日は過ぎていく。
けれど夜になると、アリアは必ず窓から空を見上げた。
昨日より少し丸くなった月を見つけては、あと何日だろうと数える。
次の日になれば、月はまた少し形を変えている。
長いと思っていた一週間は、そんなふうに毎日の中へ紛れながら過ぎていき。
とうとう。
その日が来た。
◇
朝。
目を覚ましたアリアが最初に見たのは、窓だった。
もちろん、そこに月はない。
夜明けの色をわずかに残した空と、その下に広がるミレア湖が見えるだけだった。
アリアは毛布から顔だけを出したまま、しばらく湖を眺めていた。
「今日」
ぽつりと呟くと、隣の寝台から声が返ってくる。
「うん?」
ルカも、もう起きていたらしい。
「今日だね」
「うん」
アリアは毛布を押しのけると、すぐに身体を起こした。
「今日、赤くなる」
「夜だけどね」
「分かってるよ」
そう答えながら、もう窓のそばまで行っている。
見下ろした湖は、昨日とも一昨日とも変わらなかった。
朝の風が水面を渡り、細かな波が岸へ向かって寄せている。知らない景色も、白い霞も、どこか別の場所へ続いているようなものも見えない。
「まだ何も見えない」
「朝だからね」
「夜になったら見えるかな」
「それを確かめるんでしょ」
「うん」
アリアは窓ガラスへ少しだけ顔を近づけた。
別邸で見つけた「境」という言葉。
古い歌に残された「門」。
ミレア湖のどこかにあるはずの鍵の欠片。
水の向こうに故郷を見た人々と、見えているのにどれだけ進んでも近づくことのできなかった景色。
そして四歳のあの日、先生が自分へ近づけなくなった時、その向こうから見えたという白い光。
最初にミレア湖へ来た頃には知らなかったことが、この一か月でずいぶん増えた。
けれど、それらが本当に一つにつながっているのか。
今夜、湖で何が起きるのか。
それだけは、まだ誰にも分からない。
「怖い?」
ルカが尋ねた。
アリアは窓から顔を離し、振り返る。
「ちょっと」
「そっか」
「ルカは?」
「僕もちょっと」
「一緒だね」
「そうだね」
ほんの短いやり取りだった。
けれど、自分だけではないと分かっただけで、アリアの肩から少しだけ力が抜けた。
◇
朝の飛行練習は、いつもより早く終わった。
「今日は無理をしません」
始める前に、ノルンからそう言われていたからだ。
「夜に飛ぶかもしれないから?」
「その可能性もあります」
「じゃあ、いっぱい残しておく」
「何をです?」
「元気」
ノルンは少しだけ目を瞬いた。
「それは大切ですね」
アリアは庭の上を一度だけ大きく回り、そのままゆっくり高度を落として芝生へ戻ってきた。
着地にも、もうほとんど迷わない。
光の羽の角度を変えて降りる速さを緩めると、両足がとん、と芝生へ触れた。
背中いっぱいに広がっていた羽も、役目を終えたように少しずつ小さくなっていく。
「終わり?」
マルルが近くまで跳ねてきた。
「今日は終わり」
「魔法は?」
「ちょっとだけ」
アリアは片方の手を上へ向けた。
掌の上へ淡い光が集まり、ゆっくりと形を整えながら、小さな白い花になっていく。
一輪だけ。
少し前なら、形ができた瞬間に嬉しくなって、皆へ見せながら庭を走っていたかもしれない。
けれど今日は、掌に咲いた小さな花をしばらく静かに眺めていた。
「夜もできるかな」
「無理に使う必要はありません」
ノルンが言う。
「でも、何かあったら?」
「必要になった時に考えましょう。そのためにも、今は余計に使わないことです」
「そっか」
アリアはもう一度、掌の花を見る。
少し前までは、魔法を出せることそのものが嬉しかった。
けれど今は、ただ使えるだけではなく、必要な時にきちんと使えることの方が大切なのだと、少しずつ分かるようになっていた。
白い花はしばらく掌の上に残り、それから静かに光の粒へ戻っていった。
◇
朝食のあと。
応接室には、また大きな地図が広げられていた。
ただし今日は、何かを調べるためではない。
船長とイレーネ、エリオ、セレフィナ。
その卓を囲むようにノルンとルカ、アリアも座り、マルルはアリアの椅子のそばにいる。
今夜、湖へ出る前の最後の確認だった。
「出航は、日が落ちる少し前にします」
船長が地図を指した。
「皆既食が始まってから湖へ出たのでは、周囲を確認する時間が足りなくなるかもしれないからね」
「明るいうちに行くの?」
「最初はね。月が見える頃には、もう湖の上にいるつもりだよ」
「どこまで行く?」
「まずは、前にコンパクトの反応が変わった辺りまで」
船長の指が、湖の中央に近い場所で止まった。
そこから先で、前回はどちらへ船を向けても、コンパクトの光が前へ伸びるようになった。
「そこからは?」
アリアが尋ねる。
「慌てて進まない」
船長は、はっきり答えた。
「これは、よく覚えておいて」
「うん」
「何か見えたとしても、すぐそちらへ船を向けない」
「なんで?」
「過去の記録にあったでしょう」
ノルンが横から言う。
「見えている場所へ進んでも、距離が変わらなかった」
「あ」
「それに、夜の湖で行き先を見失えば危険です」
「うん」
アリアはしっかり頷いた。
「だから、まず止まる」
船長が一本指を立てる。
「うん」
「それが何なのかを確かめる」
二本目。
「うん」
「それから動く」
三本目。
アリアも同じように指を立てながら繰り返した。
「止まる。確かめる。それから動く」
「そう」
「マルルも?」
「止まるなの」
「ルカも?」
「僕もちゃんと聞いてるよ」
「エリオお兄ちゃんも?」
「俺まで確認されるの?」
「みんなだよ」
「分かった。俺も」
ようやく全員へ確認できたらしく、アリアは満足そうに頷いた。
「それから」
今度はイレーネが、卓の上へ小さな箱を置いた。
蓋を開くと、中にはいくつかの予備の灯りと、細く巻かれた縄が収められている。
「船には、普段使う灯りとは別に、こちらも積んでおきます」
「縄?」
「はい」
「何に使うの?」
「万が一、霧などで船の中でも互いの姿が見えにくくなった時のためです」
「湖で?」
「昔の航海日誌には、水の中が白く霞んだという記録がありましたから」
「あ」
アリアは、ハイラムが持ってきた航海日誌を思い出した。
水に映った月の周囲が白く霞み、水の中には湖にあるはずのない灯りが見えた。
そして、そちらへ船を進めても距離は縮まらなかった。
「本当に白くなるかな」
「ならないかもしれません」
「そっか」
「ですが、起きてから困るより、起きるかもしれないことへ先に備えておく方がよいでしょう」
イレーネが箱の蓋を閉じる。
「知っていて損はありません」
セレフィナが静かに言った。
アリアはすぐにそちらを見る。
「あ!」
「覚えていました?」
「うん!」
ずっと前のことのように感じる。
この別邸へ来たばかりの頃、この卓で初めて「つき」と書いた。
何のために文字を覚えるのか。
どうして地図を見られた方がよいのか。
その頃のアリアには、まだよく分かっていなかった。
けれど今は、あの時から少しずつ覚えてきたことが、今夜のための準備にもつながっている。
「ほんとだったね」
「何がです?」
「いっぱい知ってたら、役に立つ」
セレフィナの口元が、静かに緩んだ。
「そうでしょう?」
「うん」
◇
「ただし」
船長の声が、少しだけ変わった。
アリアもすぐにそちらを見る。
「風が強くなった場合は、船を出さない」
「…………」
「出航したあとでも、危険だと判断したら岸へ戻る」
アリアは何も言わなかった。
「アリア」
隣からルカに呼ばれる。
「分かってるよ」
そう答えたものの、唇は少し尖っていた。
「今日しかないけど」
「そうだね」
「次の皆既月食、いつ?」
「すぐには来ません」
ノルンが答える。
「だから行きたい」
「それでもです」
アリアは卓に広げられた地図へ目を落とした。
今日まで、ずっと待ってきた。
一か月。
最初は長すぎると思っていた時間を待ち続けて、ようやく赤い月の日が来た。
もし風が強くなったら。
もし雨が降ったら。
何も確かめられないまま、今日が終わってしまうかもしれない。
「でも」
セレフィナの声がした。
アリアが顔を上げる。
「帰ってこられなくなっては、意味がないでしょう?」
「…………」
「お父様とお母様を探す旅は、今日で終わるのですか?」
「終わらない」
その返事だけは、迷わず出た。
「なら、今日一日だけを急ぐ必要はありません」
アリアはもう一度、地図を見る。
今日を逃したくない。
でも。
帰らなければ、その先へは進めない。
少しだけ時間をかけて考えてから、ようやく顔を上げた。
「危なかったら帰る」
「よろしい」
セレフィナが頷いた。
隣では、ルカも少しだけ肩の力を抜いていた。
◇
昼頃。
ハイラムが別邸へやって来た。
「ハイラムさん!」
「まだ出てないよな」
「夜だよ?」
「分かってる」
分かっていても、確認したくなったらしい。
しかも今日は、手に小さな包みまで持っている。
「何?」
「最後に見つけたものだ」
「また?」
「俺だって、もう増やしたくなかった」
「増えたの?」
「一つだけな」
その声を聞きつけて、ノルンも近づいてきた。
「どのような記録ですか?」
「記録というほど立派なものじゃない」
ハイラムが包みから取り出したのは、一枚の薄い写しだった。
「例の航海日誌の裏表紙に、後から書き足されたものがあった」
「誰が書いたの?」
「船頭本人の字じゃない。おそらく息子か、その次の代だと思う」
ノルンが写しを受け取り、目を通した。
「…………」
「何?」
「短い文章です」
ノルンは、そこに残された言葉を読み上げた。
「『見えし灯を追うべからず』」
アリアの表情が変わる。
「追っちゃだめ?」
「そう書かれています」
ノルンは次の一文へ目を移した。
「『月の重なるを待て』」
「…………」
今度はルカも、写しを覗き込んだ。
「二つの月が重なるまで、動くなってこと?」
アリアが尋ねる。
「そういう意味なのかもしれない」
ハイラムが答える。
「ただ、誰が何を聞いて書き残したものなのかまでは分からない。当時の船頭が、あとから家族へ話していたことなのかもしれないしな」
「じゃあ、まだ決めない」
「そういうことだ」
アリアは少し考え、朝から何度も確認していた言葉を思い出した。
「止まる」
「ああ」
「確かめる」
「そうだ」
「それから動く」
「その方がいい」
アリアは大きく一度頷いた。
「覚えた」
「忘れるなよ」
「忘れないよ!」
少しだけ間が空く。
「たぶん」
「そこは言い切れ」
ハイラムがとうとう声を上げて笑った。
◇
昼食を終えると、不思議なくらい何もすることがなくなった。
準備は、もう終わっている。
船へ積む荷物も、予備の灯りも、縄も、夜の冷え込みに備えるための上着も用意されている。
コンパクトはいつものようにマルルの首元にあり、アリアの白いポシェットも、すぐ出掛けられるように準備してあった。
あとは、夕方になるのを待つだけだった。
「長い」
テラスの椅子で、アリアが呟いた。
「まだ一時間も経ってないよ」
隣にいたルカが答える。
「一時間、長いね」
「一か月待ったのに?」
「今日だけ長い」
「そういうものかもね」
ノルンは、少し離れたところで本を読んでいる。
いつもと変わらないように見えた。
「ノルン、緊張しないの?」
「しています」
「本読んでるよ?」
「緊張していても、本は読めます」
「すごい」
「何がです?」
「わたし、読めない」
アリアの膝の上にも、一冊の本が載っている。
けれど同じ頁を何度も眺めているだけで、ほとんど一行も進んでいなかった。
「なら、無理に読まなくてもよいでしょう」
「何する?」
「休んでください」
「…………」
アリアは本を閉じ、椅子の背へ身体を預けた。
見上げた空は青い。
雲は少なく、風も今のところ穏やかだった。
「晴れてる」
「うん」
ルカも同じ空を見る。
「このままだといいね」
「うん」
アリアが目を細めていると、庭の向こうから二人の人影が歩いてきた。
「エレノアおばあちゃん!」
エレノアだった。
その隣には、クラリッサもいる。
「二人とも来たの?」
「見送りにね」
クラリッサが答える。
「わたしも行く?」
「行きません」
エレノアが間を置かず答えた。
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてあります」
「また?」
「またです」
アリアは、自分の頬を両手で触った。
「字ないよ?」
「そういう意味ではありません」
少し前にも、よく似たことを言われた気がする。
ルカが笑い、クラリッサも笑う。
それだけで、朝から身体のどこかに残っていた緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
日が傾き始めた頃。
別邸の前には、船着き場へ向かう者たちが集まっていた。
アリアとルカ、ノルン、マルル。
エリオとイレーネ。
そして、船を任される船長と二人の船員。
セレフィナたちは、湖岸まで見送りに来ることになっている。
「イレーネも乗るの?」
アリアが尋ねた。
「ご一緒します」
「最後まで?」
「船へ乗るのですから、最後までですよ」
「よかった」
アリアが少し安心したように笑う。
自分たちと一緒にいてくれる大人が、また一人増えた。
ハイラムは約束通り、船には乗らない。
それでも、船着き場までは一緒に来ていた。
「ほんとに岸にいるの?」
「ああ」
「何か見えたらどうする?」
「記録する」
「何を?」
「見えたもの全部だ」
「わたしと一緒だね」
「君は記録より先に、無事に帰ってこい」
「うん!」
◇
船着き場へ着く頃には、空の色が少しずつ変わり始めていた。
昼の青が薄くなり、西の空には淡い金色が広がっている。
湖はまだ明るい。
船も、前に乗った時と変わらず、水面の揺れに合わせて静かに浮かんでいた。
けれど今日は、その船へ乗る意味が少し違う。
アリアは岸から船を見つめた。
前にも一度、この船で湖の中央近くまで行った。
コンパクトの光を追い、その先へ進めば、いつか鍵の欠片へ辿り着けると思っていた。
けれど途中から、船をどちらへ向けても光は前へ伸びるようになり、結局何も見つけることはできなかった。
あの時は、光の示す先へ進むことばかりを考えていた。
けれど今日は違う。
何かが見えても、すぐには追わない。
まず止まり、自分たちが見ているものが何なのかをきちんと確かめる。
「今日、分かるかな」
アリアが小さく呟いた。
「何がです?」
隣にいたノルンが尋ねる。
「『境』とか、『門』とか」
「そうですね」
「ほんとにあるのかな」
「それを確かめるために来たのでしょう?」
「あ」
アリアは少し笑った。
「そうだった」
「水の精霊もいるかな」
「それは、まだ分かりません」
「会いたい」
「鍵の欠片も忘れないでね」
ルカが横から言った。
「あ!」
「忘れてた?」
「忘れてないよ!」
「今、顔が」
「言ってない!」
「言ってたなの」
「マルルまで!」
また小さな笑いが起きた。
アリアも笑いながら、ふと湖の向こうへ顔を向ける。
東の空には、まだ月の姿はない。
けれど、もうすぐ昇ってくる。
◇
船へ乗る前。
「アリア」
セレフィナに呼ばれた。
「なあに?」
そばへ行くと、セレフィナは少しかがみ、アリアが着ている上着の襟元をそっと整えた。
「寒くなったら、きちんと着るのですよ」
「うん」
「船長の言うことを聞くこと」
「うん」
「勝手に船から飛び出さない」
「…………」
「アリア?」
「飛べるよ?」
「飛べるかどうかの話ではありません」
「はぁい」
「それから」
襟元を整えていたセレフィナの手が、一度止まった。
「必ず帰ってきてください」
アリアは顔を上げた。
セレフィナは、いつもと同じように微笑んでいる。
けれど、その声だけがほんの少し違って聞こえた。
「帰ってくるよ」
「ええ」
「ハイラムさんにもお話するし」
「そうですね」
「エレノアおばあちゃんにも」
「待っていますよ」
少し後ろからエレノアが答えた。
「クラリッサおばちゃんにも!」
「もちろん」
「それから……」
「もう全員の名前を言わなくていいよ」
ルカが笑った。
「いっぱい待ってるもん」
「だから帰ってくるんでしょ」
「うん!」
アリアは、今度こそしっかり頷いた。
◇
アリアが船へ乗り込み、マルルを抱き上げる。
その隣へルカが乗り、ノルンも続いた。
エリオとイレーネが乗り込むと、二人の船員が荷物と縄を最後に確認していく。
やがて、船を岸へつないでいた縄が解かれた。
「出します」
船長の声とともに、船がゆっくり岸を離れた。
「行ってきます!」
アリアが岸へ向かって大きく手を振る。
「アリア!」
すぐにセレフィナの声が飛んできた。
「船の上では!」
「あ!」
振っていた手の勢いが、少しだけ小さくなる。
「これくらい?」
岸から笑い声が聞こえた。
アリアも笑った。
船は少しずつ沖へ進んでいく。
船着き場も、見送っている人たちも、少しずつ遠くなっていった。
湖へ出るのは二度目だった。
けれど今夜は、前とは違う。
何かが見えても追いかけない。
焦らず、まず止まって確かめる。
そして、古い記録に残された「二つの月が重なる」という言葉が何を意味するのかを、自分たちの目で見る。
アリアは船の前方へ顔を向けた。
湖の向こうには、夕暮れの空がどこまでも広がっている。
その端。
少しずつ暗さを増していく東の空から、白い月がゆっくりと姿を現し始めた。
満月だった。
アリアは息を呑むように、その月を見上げる。
「出た」
誰かが答えるより先に。
マルルの首元から。
リン。
澄んだ小さな音が、夕暮れの湖へ響いた。




