第101話 赤い月を待つあいだ
それから、また一週間が過ぎた。
朝。
アリアはミレア湖の上に広がる空を、いつもより少し高いところから見ていた。
別邸の屋根はもう足元よりずっと下にあり、庭の木々も目の高さを越えることはない。その向こうには、朝の光を受けたミレア湖が大きく広がり、細かな波の一つ一つが遠くまできらきらと輝いている。
以前なら、この高さまで上がるだけでも何度も下を見ていた。
ちゃんと飛べているか。
落ちないか。
自分で庭まで戻れるか。
けれど今は、少しくらい強い風が身体を押しても、慌てて羽ばたくことはない。
背中に大きく広がった光の羽をわずかに傾ければ、風を受ける向きが変わり、それに合わせて身体もゆっくりと旋回していく。
飛ぶことに夢中になりすぎて、自分がどこにいるのか分からなくなることも減っていた。
高く上がったら、庭を見る。
湖を見る。
風の向きを確かめ、自分がどちらへ戻ればよいのかを確かめる。
何度も繰り返しているうちに、一つずつ頭で考えなくても、身体の方が自然と動くようになっていた。
「アリアー!」
ずっと下から声が聞こえた。
庭にいるルカが、こちらを見上げている。
「聞こえるー?」
「聞こえるよー!」
「そろそろ降りてきて!」
「はーい!」
返事をしたアリアは、すぐには高度を下げず、もう一度だけ湖へ目を向けた。
皆既月食まで、あと一週間ほど。
朝の空にはもう月の姿は見えないけれど、日が傾く頃になれば、かなり丸くなった月を見つけることができる。
あと少し。
あと一週間で、その月が赤く染まる。
アリアは湖の中央辺りへ目を凝らしてみた。
けれど見えるのは、朝日に照らされた青い水だけだった。
知らない町も、遠くの森もない。
四歳のあの日に先生が見たという、白い光も見えない。
「まだだね」
誰に言うでもなく小さく呟くと、アリアは今度こそ身体を傾けた。
高度を少しずつ落としていくと、別邸の屋根が近づき、その向こうから庭の芝生が大きく広がってくる。
地面が近づいたところで羽の角度を変え、落ちる速さをゆっくりと弱めてから。
とん。
両足が芝生へ着いた。
「ただいま!」
「おかえり」
待っていたルカが近づいてくる。
「今日、高かったね」
「うん!」
「怖くなかった?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとは怖いんだ」
「だって高いもん」
アリアは当たり前のように答えた。
怖くなくなったわけではない。
けれど、怖いからとすぐに降りることもなくなった。
どうすれば戻れるのかを知っていて、自分で戻れることも分かっていれば、少しくらい怖くても、そのままもう少しだけ飛んでいられる。
そんなことを、頭より先に身体の方が少しずつ覚えてきたらしい。
「次、魔法なの!」
庭の端からマルルが跳ねてきた。
「今日は何作る?」
ルカが尋ねる。
「昨日は鳥だったから……」
アリアは少し考え、湖へちらりと目を向けた。
「お魚!」
「やっぱり湖見てたから?」
「うん!」
アリアは両手を重ねた。
掌の間へ淡い光が集まり、ゆっくりと細長い形へ変わっていく。少しだけ膨らんだ身体ができ、小さな尾びれが生まれ、最後にひらひらとした胸びれが加わると、光の魚はアリアの手を離れて空中へふわりと浮かび上がった。
「お魚なの!」
マルルがすぐにその下へ跳ねる。
「食べられないよ?」
「分かってるなの」
本当だろうか。
ルカは少しだけ疑っていた。
光の魚はそんな二人の上をゆっくり泳ぎ、アリアの頭の周りを一度回ってから、今度はノルンの方へ向かった。
「ノルン!」
「はい?」
「今日、ハイラムさん来るんだよね?」
「はい。昼頃にはいらっしゃるそうです」
「何持ってくるの?」
「新しく確認した資料と、先日選んだ記録の写しだと聞いています」
「また増えた?」
「増えたようですね」
「いっぱいあるね」
「長い間調べていた方ですから」
アリアはノルンと話しながら、今度はどんなものを持ってくるのだろうと考えていた。
その間にも、光の魚は消えない。
ノルンが一度だけ魚へ目を向ける。
ルカも見る。
けれど、作った本人だけはもう魚のことを忘れているようだった。
少し前までは、魔法を残したまま誰かと話すだけでも大変だった。
形が崩れていないか気になって、何度も光を確認しながら話していたのに、今では別のことを考え、笑いながら話していても、魚はアリアの頭の上を水の中にいるようにゆったりと泳ぎ続けている。
「アリア」
「なあに?」
「魚」
「え?」
ルカが上を指す。
アリアもつられて見上げた。
「あ!」
まだいた。
「消えてない!」
「自分で忘れてたでしょ」
「忘れてないよ!」
「忘れてたなの」
「マルルまで!」
むっとした瞬間、光の魚が一度大きく揺れ、そのまま淡い粒へほどけて消えてしまった。
「あ」
「今ので消えたね」
ルカが笑う。
アリアは魚がいた場所を見上げ、少し考えた。
「じゃあ明日は、怒っても消えないようにする」
「そこ練習するの?」
「する!」
「まず怒らなければいいと思うけど」
「それは別!」
ノルンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
昼を少し過ぎた頃。
ハイラムは、本当に別邸へやって来た。
これまではアリアたちが町の店へ出向くことの方が多かったため、玄関へ入ったハイラムは、高い天井や奥まで続く廊下へ何度か目を向けていた。
「すごいところに住んでるな」
「セレフィナおばあちゃんのお家だよ」
「それは知ってる」
「ハイラムさんのお家より大きいよ」
「比べるまでもない」
アリアは隣に立っていたセレフィナを見上げた。
「大きいって」
「そうですね」
セレフィナは何でもないことのように微笑んだ。
「資料をお持ちなのでしょう。どうぞ、こちらへ」
案内された応接室では、中央にある大きな卓がすっかり片づけられていた。
ハイラムが持ってきた包みを置いて開くと、中から何冊かの写本と、紐でまとめられた紙の束が出てくる。
「こんなに?」
ルカが目を丸くした。
「これでも減らした」
「減らしてそれなの?」
「関係が薄そうなものは置いてきた」
横にいたノルンの目が、わずかに明るくなったように見えた。
「拝見しても?」
「そのために持ってきた」
「ありがとうございます」
「ノルン、今日寝る?」
アリアが心配そうに尋ねる。
「寝ます」
「ほんと?」
「寝ます」
「二回言った」
「アリアが二回聞くからです」
ハイラムは二人のやり取りを横目で見ながら、持ってきた資料の中から一枚の大きな紙を選んだ。
「全部見る前に、まずこれだ」
「なに?」
皆が卓へ近づく。
紙には、いくつもの年代と土地の名前が並び、その横には短い印が書き込まれていた。
「今まで集めた記録を、起きた時期が分かるものだけ並べ直した」
アリアには、まだ全部は読めない。
ルカが隣から覗き込み、ノルンは一番上から順番に文字を追っていった。
「月食との照合ですか?」
「ああ」
ハイラムが頷く。
「正確な年どころか、何十年頃としか分からない記録も多い。そういうものは外して、比較できるものだけ調べ直した」
「どうだったの?」
アリアが尋ねる。
「先に言っておくが、全部が月食と重なっていたわけじゃない」
「じゃあ違った?」
「最後まで聞け」
「はぁい」
ハイラムの指が、紙の中のいくつかへ移った。
「人や土地が突然移ったという記録だけを見ると、月食の有無はばらばらだ。月食が確認できない時期のものもある」
ノルンが小さく頷く。
「では、移動そのものと月食が必ず結びついているとは言えませんね」
「今のところはな」
ハイラムの指が、今度は別の印へ動いた。
「ただ、水面に本来そこにはない景色を見たという記録だけを抜き出すと、少し気になる」
「どうなるの?」
「時期まで絞れたものが六件。そのうち四件は、月食が観測された時期と重なっている」
ルカの猫耳が、ぴくりと動いた。
「四つも?」
「ああ」
「多い?」
アリアがノルンを見る。
「気になる数ではあります」
「月食だから見えた?」
「そこまでは言えません」
ノルンがすぐに答えた。
「記録そのものが少ないですし、月食の記述が残っていない二件でも、似た景色は見られています」
「じゃあ、まだ分からない」
「はい」
「覚えてるよ」
「よろしいです」
そのやり取りを聞いて、ハイラムが少し笑った。
「もう一つ、気になったことがある」
「なに?」
「水の向こうに故郷らしきものを見た人間の多くは、元の土地へ帰ろうとしていた者だった」
アリアの表情が少しだけ変わった。
「帰りたかった人?」
「ああ。流されてきた本人だったり、その家族だったりな。長い間、元いた場所を探していた者が多い」
「求むる者」
ルカが小さく呟いた。
古い歌の一節。
求むる者は辿り着けず。
アリアもすぐに思い出した。
「じゃあ、帰りたいって思ったから見えたの?」
「それは分からない」
ハイラムは即座に首を横へ振った。
「元いた場所を探していた人間だからこそ、妙なものを見た時に記録へ残しただけかもしれない。そこを条件だと決めるのは早い」
「そっか」
「ただ、古い歌と一緒に考えるなら、覚えておく価値はあると思ってる」
「忘れない」
「ああ。それでいい」
アリアは頷いてから、ふと自分の胸へ手を当てた。
お父さんとお母さんに会いたい。
それなら、自分も同じなのだろうか。
そんな考えが浮かんだけれど、アリアはすぐに答えを決めなかった。
似ているからといって、同じとは限らない。
それも、この何日かで何度も教わったことだった。
◇
「それから」
ハイラムが紙の束へ手を伸ばし、その中から一枚だけ別にしていたものを取り出した。
「今日、一番見せたかったのはこれだ」
今までの写しとは少し違っていた。
文字の横に、簡単な絵が描かれている。
丸い月。
その下には、水面を表しているらしい何本もの線。
そして、その水の中にも、もう一つ丸があった。
「二つのお月さま!」
アリアがすぐに言った。
「ああ」
「古い言葉と同じ?」
「そこを見てほしかった」
ノルンが紙へ顔を近づける。
「どこの記録です?」
ハイラムは少しだけ間を置いた。
「ミレア湖だ」
「え?」
アリアだけでなく、ルカもノルンも顔を上げた。
「この湖なの?」
「ああ」
「今まで見つけてなかったよ?」
「俺も、こういう形で残っているとは思ってなかった」
元になったのは、町の古い家に残されていた航海日誌だった。
今はほとんど使われなくなった、あの古い舟着き場から船を出していた一族が、代々書き残していたものだという。
「昨日、持ち主のところへ行って、該当する頁を確認してきた」
「昨日?」
アリアはハイラムをじっと見る。
「また寝てない?」
「寝た」
「ちょっと?」
「その話はもういい」
「寝ないと駄目だよ?」
「分かったから、まず読んでくれ」
ハイラムがノルンの方へ紙を押し出す。
アリアはまだ少し疑うようにハイラムを見ていたが、やがて自分も一緒に写しを覗き込んだ。
「月食の夜について書かれていますね」
ノルンが言う。
「やっぱり?」
「ああ」
「どんなこと?」
アリアが尋ねると、ノルンは最初からゆっくり内容を追っていった。
その夜、数人の船乗りが月食を見るために湖へ船を出した。
どこまで沖へ出たのか、正確な位置までは残されていない。ただ、岸からはかなり離れた場所だったらしい。
「月を見にお船に乗ったの?」
「そう書かれています」
「きれいだったかな」
「それは書かれていません」
「書けばいいのに」
「航海日誌ですから」
「そっか」
ノルンは続きを追った。
「月が暗くなり始め、湖面に映る月の色も変わった。その頃から、水に映った月の周囲が白く霞んで見えたそうです」
「白い?」
アリアの目が止まった。
「はい」
「先生が見たのも白かったよ」
「ええ」
ノルンも同じことを思い出したらしい。
けれど、すぐに二つを結びつけることはせず、そのまま次の行へ目を移した。
「船頭は最初、霧だと思った。しかし霧のように水面の上へ広がるのではなく、水の中だけが白く霞んでいた、とあります」
「水の中?」
「そうです」
「光ってたの?」
「そこまでは書かれていません」
アリアは紙の上に描かれた月を見た。
「そのあと?」
「少し待ってください」
ノルンの指が、次の行で止まる。
「ここです」
「なに?」
ノルンは、もう一度書かれている文字を確かめた。
「『天の月と、水の月が重なった』とあります」
「…………」
部屋の空気が、一瞬だけ静かになった。
「二つの月、重なりし時」
ルカが小さく呟く。
別邸の書庫で見つけた古い言葉と、ほとんど同じだった。
アリアは、紙に描かれた二つの丸をじっと見つめた。
「どうやって重なったの?」
「分からない」
答えたのはハイラムだった。
「分からないの?」
「ああ」
「お空のお月さまと、お水のお月さまなのに?」
「だから俺も気になってる」
航海日誌を書いた者が、いったい何を見て「重なった」と表現したのか。
見る位置によってそう見えたのか。
月食の途中で、いつもとは違う見え方をしたのか。
それとも、まったく別のことを指しているのか。
日誌には、そこまで書かれていなかった。
「じゃあ」
アリアは少し考えた。
「満月の日に見ないと分からない?」
「その可能性が高いですね」
ノルンが答える。
「場所も?」
「まだ分かりません」
「いっぱい見ないと」
「そういうことです」
アリアは、しっかり頷いた。
◇
ノルンは、さらに航海日誌の写しを読み進めていた。
「その船の人、ほかには何か見なかったの?」
アリアが尋ねる。
「あります」
「なに?」
ノルンの目が、少し先の文章で止まった。
「『水面の奥に、湖にはない灯を見た』」
「灯り?」
「はい」
「お家?」
「そこまでは書かれていません。ただ、湖の中にあるはずのない複数の灯りが見えたそうです」
「町かな」
「分かりません」
ノルンは、さらに続きを読んでいった。
船頭は、その灯りの正体を確かめようと、船をそちらへ向けた。
けれど。
「船は確かに進んでいたのに、灯りとの距離が変わらなかったそうです」
「……まただ」
ルカの声が、少しだけ低くなった。
アリアもすぐに気づく。
「辿り着けない」
「そうですね」
三百年ほど前の商人。
ハイラムの先祖。
そして今度は、ミレア湖へ船を出した船乗り。
それぞれが見たものは違う。
場所も、時代も違う。
それでも、見えているものへ近づこうとしても距離が変わらないというところだけは、よく似ていた。
「その人、ずっと追いかけたの?」
「いいえ」
ノルンが続きを読む。
「しばらく進んだところで異常だと判断し、岸へ戻っています」
「よかった」
アリアが小さく息を吐いた。
翌朝、同じ辺りへ再び船を出した時には、水面に白い霞も灯りもなく、いつもの湖へ戻っていたという。
「月食の夜だけ?」
「この記録から分かるのは、その夜に一度見たということだけです」
ノルンが答える。
「次の月食でも同じものが見えたとは書かれていません」
「そっか」
アリアは写しを見つめたまま、少し考えた。
「でも」
「なんだ?」
ハイラムが聞く。
「ミレア湖でも、本当に変なことあったんだね」
今度は、ハイラムもすぐには否定しなかった。
「少なくとも、この記録が事実を伝えているならな」
「うん」
ノルンも小さく頷いた。
「次の皆既月食に、湖で何が起こるのかを確かめる理由は、昨日より増えました」
その言葉に、アリアもしっかり頷いた。
◇
そこから先は、いつの間にか一週間後のための相談になっていった。
セレフィナがイレーネを呼び、船長にも航海日誌の内容を伝えるため、人が送られることになった。
卓の上には、ミレア湖の地図と天文暦が広げられる。
月が欠け始める時間。
皆既食が始まるおおよその時刻。
最も深く影へ入る頃。
夜の湖へ出るために必要な灯りや、身体を冷やさないための毛布。
風が強くなった時の判断。
雲が厚くなり、湖面がほとんど見えなくなった時にはどうするのか。
一つずつ確認していく。
「行けない日もある?」
アリアが尋ねる。
「危険な天候なら、出航しません」
イレーネが迷わず答えた。
「でも、次の月食は一回だけだよ?」
「それでもです」
「…………」
「安全より優先するものはありません」
アリアの口が少しだけ尖った。
「アリア」
隣からルカに呼ばれる。
「分かってるよ」
「ならいいけど」
「でも、晴れてほしい」
「それは僕も」
「マルルもなの」
ノルンも小さく頷いた。
一週間後の空だけは、誰にも決めることができない。
アリアは窓の向こうを見る。
今日の空は、雲一つない青色だった。
「女神さまにお願いする?」
「天候を変えていただくお願いはしません」
ノルンが即答した。
「まだ何も言ってないよ」
「顔に出ていました」
「字?」
「そういう意味ではありません」
「そっか」
そばで聞いていたセレフィナが、思わず笑った。
◇
相談が一段落した頃。
ハイラムは窓辺へ立ち、庭の向こうに広がる湖を眺めていた。
アリアはしばらくその背中を見ていたが、やがて椅子から降り、隣へ歩いていった。
「ハイラムさんも来る?」
予想していなかったらしく、ハイラムが振り返る。
「月食の夜か?」
「うん」
「…………」
「見たいでしょ?」
ハイラムは、すぐには答えなかった。
けれど、見たくないはずがない。
何年も調べ続けてきた。
自分の先祖が、どうして知らない土地へ流れ着いたのか。
水の向こうに何を見たのか。
どうして、そこへ辿り着くことができなかったのか。
その答えへつながるかもしれない夜が、一週間後に来る。
「見たいさ」
やがて、ハイラムは素直に認めた。
「じゃあ一緒に行こう」
「船には乗らない」
「どうして?」
「俺が行って、何ができる?」
「見る」
「見るだけなら岸でもできる」
「でも、近くで見たいんじゃない?」
「だからこそだ」
アリアが首を傾げた。
ハイラムは、もう一度湖へ顔を向けた。
「俺は船乗りじゃない。夜の湖で何かあっても、船を動かせるわけじゃないし、君たちを守れるわけでもない」
「…………」
「危険かもしれない場所へ、興味だけで人数を増やすべきじゃない」
アリアはしばらくハイラムの横顔を見ていた。
以前なら、「一緒に行こうよ」と、もう一度誘っていたかもしれない。
けれど今は。
「じゃあ」
「なんだ?」
「帰ってきたら、全部話す」
ハイラムの目がアリアへ向く。
「見たものも、変だったことも」
「……ああ」
「ちゃんと覚えて帰る」
「頼む」
「ノルンもいるから大丈夫」
「君も覚えてこい」
「覚えるよ!」
「食べ物のことだけじゃなく?」
「全部!」
後ろで聞いていたルカが笑った。
◇
夕方。
ハイラムを見送ったあと、アリアは湖の見えるテラスへ戻っていた。
卓の上には、昼間に広げたミレア湖の地図がまだ残っている。
その中央へ顔を近づけ、アリアはじっと湖の形を眺めた。
「昔の人、どこで見たのかな」
隣に座っていたルカも、地図を覗き込む。
「航海日誌には書いてなかったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、まだ分からないね」
「お月さま見たら分かるかな」
「コンパクトも、また変な動きするかもしれないし」
「マルルのお仕事なの!」
少し離れたところで丸くなっていたマルルが、長い耳をぴんと立てる。
「大事だね」
「大事なの!」
ノルンは今日受け取った写しを整理しながら、二人と一匹の会話を聞いていた。
「忘れてはいけないものが、また増えましたね」
「なに?」
アリアが顔を上げる。
「月食の途中で、水面がどのように変わるのか。白い霞が現れるのか。二つの月が重なるという記述が何を意味しているのか。そして、湖にはない何かが見えるのか」
「いっぱい」
「はい」
「空の子も?」
ノルンの手が一度止まった。
「それも、古い記録に残っている言葉の一つです」
「わたしかは、まだ分からない」
「はい」
「覚えてるよ」
「よろしいです」
アリアは少し得意そうに笑った。
それから椅子へ座り直し、湖を見る。
一か月近く前。
次の満月まで待たなければならないと知った時には、とても長いと思った。
けれど、その間にも毎日は止まらなかった。
飛ぶ練習をした。
魔法を習った。
文字を覚え、本を読み、両親へ手紙を書いた。
エレノアから新しいことを教わり、ミントにも乗った。
町へ出て、ハイラムとも出会った。
何百年も前にも、土地や人が知らない場所へ流されたという記録があることを知った。
水の向こうに帰りたい場所を見た人がいて、いくら進んでも、そこへ辿り着くことができなかった人もいた。
そして四歳のあの日。
先生が自分を追いかけていた途中で、突然どれだけ飛んでも距離を縮めることができなくなり、白い光の中へ自分の姿が消えたことも知った。
一か月前には知らなかったことが、今ではずいぶん増えている。
「一か月、短かったね」
アリアがぽつりと言った。
「まだ一週間あるよ」
ルカが答える。
「でも、もうちょっと」
「それと比べたらね」
「でしょ?」
アリアは笑った。
両腕を卓へ投げ出すことはせず、最近覚えたように椅子へ少しだけきちんと腰掛けたまま、夕日に染まり始めた湖を眺める。
あと一週間。
次の満月。
空の月が赤く染まり、その光が湖へ映る夜。
古い航海日誌に残されたことと同じものが、本当に現れるのか。
その時、「二つの月が重なる」という言葉が何を意味するのか。
まだ誰にも分からない。
けれど、その夜に何が起きても、アリア一人で確かめるわけではない。
ルカもいる。
ノルンもいる。
マルルもいる。
船長も、船を動かしてくれる人たちもいる。
そして岸では、ハイラムもきっと同じ湖を見ている。
アリアは赤くなり始めた夕空と、その色を映す水面をじっと見つめた。
一週間後の夜。
そこに何が現れるのか。
みんなで見て、みんなで確かめる。
待つだけだったはずの一か月は、いつの間にか、その夜を迎えるための時間へ変わっていた。
★お読みいただき、ありがとうございます★
ハイラムとアリア達の動画はこちら
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ストックが貯まったので、今日から少しの間1日2話更新です。
よろしくお願いします(*'▽'*)




