第100話 先生が追えなかった場所
翌朝。
飛行練習を終えたアリアは、庭へ降りるなり、背中に広がっていた光の羽が小さく消えていくのを待つより先に、木陰で本を開いていたノルンのところへ向かった。
「今日、教会行く?」
昨日までなら、着地した直後には「今日は上手だった?」と聞いていた。
高く飛べたことや、前よりきれいに曲がれたことを確かめてもらい、褒められれば嬉しそうに笑う。それがここ最近の朝の流れになっていたのに、今日は自分の飛び方よりも先に聞きたいことがあったらしい。
ノルンもそれに気づいたのか、読んでいた頁へ指を挟んで本を閉じた。
「そのつもりです」
「先生に聞く?」
「はい」
「四歳の時のこと?」
「それもです」
アリアは少しだけ真面目な顔で頷いた。
昨夜、寝台へ入ってからも考えていた。
四歳の自分が天界から人間界へ落ちた時、先生はすぐに追いかけてきた。
けれど、途中から先へ来ることができなかった。
先生は飛ぶのが上手だ。
今のアリアよりずっと速く飛べるし、天界のことも魔法のことも、アリアがまだ知らないことをたくさん知っている。
その先生が、どうして自分へ追いつけなかったのか。
ハイラムの先祖が残した、
『水は道にあらず。境であった』
という言葉や、別邸の書庫で見つけた、
『空の子は、境を見る』
という古い記録と、本当に何か関係があるのか。
以前なら、分からないことが増えるたびに、何から考えればよいのか分からなくなっていた。
けれど最近は、全部を一度に分かろうとしなくてもいいことを覚えた。
分からないなら、分かるところから一つずつ調べればいい。
「先生、今度は教えてくれるかな」
「聞いてみなければ分かりません」
「また今度って言ったら?」
「その時は、なぜ今度なのかを聞けばよいでしょう」
「あ」
アリアの顔がぱっと明るくなった。
「それいいね」
「質問が増えただけだね」
少し離れたところで身体を伸ばしていたルカが笑う。
「ルカも聞きたいでしょ?」
「聞きたいよ」
「じゃあ一緒!」
「最初から行くつもりだよ」
そこへマルルも、長い耳を揺らしながら近づいてきた。
「マルルも行くなの」
「うん!」
アリアは満足そうに頷くと、ふと思い出したように庭の向こうへ顔を向けた。
朝のミレア湖は、今日も穏やかだった。
青い水面には朝の光が細かく散り、知らない森も町も、どこかへ続く道のようなものも見えない。
昨日までと何一つ変わらない湖のはずなのに、もう以前と同じようには見えなかった。
◇
朝食を済ませると、アリアたちは馬車で町の教会へ向かった。
この教会を訪れるのは、それほど久しぶりではない。
皆既月食と、別邸で見つけた古い記録について女神様へ報告したのも、ここだった。
あの時。
『空の子は、境を見る』
ノルンがそう読み上げた瞬間、先生の表情がほんの少しだけ変わった。
すぐに戻ったけれど、アリアはその顔を覚えている。
「先生、あの時やっぱり何か知ってたんだよね」
馬車の窓から流れていく景色を見ながらアリアが言うと、向かいに座っていたノルンも小さく頷いた。
「何かを思い出したのは確かだと思います」
「でも、教えてくれなかった」
「『昔のことを少し思い出した』と言っていましたね」
「わたしが四歳の時」
「はい」
ルカも隣から口を挟んだ。
「でも、あの時は僕たちも何を聞けばいいのか分からなかったよね」
「うん」
あの頃は、「境」という一つの言葉を聞いても、何と何の間にある境なのかさえ分からなかった。
けれど今は、ハイラムからいくつもの記録を聞いている。
ある日突然、知らない土地へ流れ着いた人々。
水の向こうに故郷を見た人。
見えているのに、いくら進んでもそこへ辿り着くことができなかった人。
村の外にいたために、帰ってきた時には家族も集落もなくなっていた人。
そして何百年も前に残された、
『水は道にあらず。境であった』
という言葉。
「今なら、いっぱい聞けるね」
「いっぱいになりすぎないようにね」
「ノルンもいるもん」
「結局そこなんだ」
ルカが笑った。
◇
教会へ着くと、以前会った神父がアリアたちを覚えていた。
「いらっしゃい」
「こんにちは!」
アリアは元気よく頭を下げる。
「今日は、また女神様へ?」
「うん。それと先生!」
「先生?」
「飛ぶの教えてくれた先生なの」
「なるほど」
本当に事情が分かったのかどうかは、少し怪しかった。
それでも神父は深く尋ねることなく、前と同じように礼拝堂を使わせてくれた。
今日はほかに祈っている者もいない。
青い窓から差し込む柔らかな光が、長い椅子の間へ細く落ち、祭壇のろうそくを静かに照らしている。
アリアたちは、そのまま前へ進んだ。
アリア。
ルカ。
ノルン。
マルル。
そして少し後ろには、今日もエリオがいる。
「エリオお兄ちゃんも来る?」
「ここにいるよ」
「前みたいに見えないかも」
「分かってる」
「光は見えたよね」
「ああ」
「今日は見えるかもしれないよ?」
「期待しないでおく」
「どうして?」
「見えなかった時に、アリアが残念そうな顔するから」
「今日はしないよ」
「ほんと?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
エリオの口元が緩んだ。
アリアは祭壇へ向き直り、胸の前で両手を組んだ。
「女神さま」
一度呼んでから、少し考える。
「先生も」
そして、そのまま付け足した。
「今日は、いっぱい聞きたいことがあります」
「最初から宣言するんだ」
後ろからルカの小さな声が聞こえた。
「だって、いっぱいあるもん」
「祈りの途中だよ」
「あ」
アリアは慌てて口を閉じ、もう一度きちんと目を閉じ直した。
しばらくは何も起こらなかった。
静かな礼拝堂の中で、ろうそくの炎だけが小さく揺れている。
やがて。
ちりん。
澄んだ音が響き、マルルの首元でコンパクトが淡く光った。
その光に呼応するように、祭壇の前へ金色と水色の柔らかな輝きが広がっていく。
「来た!」
アリアが目を開ける。
重なり合う光の中に、女神様が立っていた。
そして、その少し後ろには。
「先生!」
エルシアの姿もある。
「こんにちは、アリア」
「こんにちは!」
アリアは反射的に駆け寄ろうとして、一歩目でぴたりと止まった。
ここは教会だ。
「……歩く」
自分へ言い聞かせるように小さく呟き、今度はきちんと歩いて先生の前まで行った。
「今日は走りませんでしたね」
「レディーの練習したから!」
「レディー?」
「あとで話す!」
「また話が増えましたね」
「いっぱいあるよ」
エルシアの口元が、少しだけ緩んだ。
◇
「それで」
女神様がアリアの前へしゃがむ。
「今日は何を聞きに来たのですか?」
「境!」
返事は早かった。
その瞬間、先生の目がほんのわずかに動く。
アリアは、それを見逃さなかった。
「今、また変な顔した」
「していません」
「したよ」
「アリア」
ルカが名前を呼んだものの、もう遅かった。
「先生」
「はい」
「四歳の時、わたしを追いかけてきたよね」
エルシアの表情から、さっきまでの小さな笑みが消えた。
「ええ」
「でも途中から来られなかった」
「そうです」
「どうして?」
礼拝堂が静かになった。
アリアは先生を見上げたまま、返事を待った。
以前なら、答えがすぐに返ってこなければ、もう一度同じことを聞いていたかもしれない。
けれど今は、先生が何も言わないのではなく、昔の出来事を思い出しながら、どう話せばよいのか考えているのだと分かる。
だから、待った。
やがてエルシアが口を開いた。
「今でも、その理由までは分かっていません」
「先生にも?」
「はい。ただ、あの日に何が起きたのかは覚えています」
「教えて」
「もちろんです」
先生は一度だけ女神様へ目を向けた。
女神様が静かに頷く。
「あなたは、いつもの飛行練習をしていました。当時はまだ、一人で長い距離を飛ぶことができなかった頃です」
「今はできるよ」
「知っています」
「見てた?」
「その話はあとで」
「あ」
アリアは慌てて口を閉じた。
「その日、あなたはいつもより少しわたしから離れすぎました。戻るように声を掛けた、その直後です」
アリアの中にも、ところどころぼんやりと記憶が残っている。
どこまでも広がる青い空。
白い雲。
少し離れたところから聞こえた先生の声。
そして突然、羽がうまく動かなくなった。
「落ちた」
「そうです」
エルシアは静かに頷いた。
「わたしはすぐに追いました。あなたの方が速く落ちていましたが、追いつけない距離ではありませんでした」
ルカの猫耳が、すっと前へ向く。
「じゃあ、最初は追いついてたんですか?」
「少しずつ距離は縮まっていました」
「でも、途中から?」
「ええ」
先生の声が、ほんの少し低くなった。
「突然、アリアの姿が揺らいだのです」
「ゆらいだ?」
「そこにいるのに、遠く見えました。こちらは確かに近づいているはずなのに、それ以上、距離が縮まらなくなったのです」
ノルンが顔を上げた。
ルカも先生を見る。
そしてアリアの表情も、ゆっくり変わった。
「……辿り着けない」
その言葉が、自然と口からこぼれた。
エルシアの目がアリアへ向く。
「そうですね」
「先生にも、わたしは見えてたの?」
「見えていました」
「でも、来られなかった?」
「どれだけ飛んでも、それ以上近づくことができませんでした」
アリアの胸の奥で、小さく何かが鳴ったような気がした。
何百年も前の商人も、水の向こうに故郷を見た。
見えていた。
そこにあると思った。
けれど、いくら進んでも距離は変わらなかった。
よく似ている。
けれど、まだ同じだと決まったわけではない。
「その時」
先生は続けた。
「あなたとわたしの間に、何かがあるように感じました」
「何か?」
「目には見えませんでした」
「触った?」
「いいえ。そもそも、そこまで近づくことができませんでした」
「じゃあ、どうして分かったの?」
「それ以上、進めなかったからです」
エルシアは一度、自分の手へ目を落とした。
「飛んでも、飛んでも、あなたとの距離だけが変わらない。まるで同じ場所にいるはずなのに、アリアだけが別のところへ遠ざかっていくようでした」
アリアは何も言わず、先生を見つめていた。
「そして、そのあとです」
先生の視線が再びアリアへ戻る。
「あなたの向こうから、白い光が見えました」
「向こう?」
「ええ」
「わたしが光ったんじゃないの?」
「そうは見えませんでした。あなたより、さらに向こうから差してくるような光でした」
「何があった?」
「見えませんでした」
エルシアは静かに首を横へ振る。
「光が見えたのは、ほんのわずかな時間です。そして、その次の瞬間には」
一度、言葉が止まった。
「あなたの姿が、白い光の中へ消えました」
「消えた?」
「わたしの目からは」
「でも、わたしは人間界に落ちたよ」
「ええ」
エルシアは頷いた。
「あなたは、そのあと人間界で見つかりました」
◇
誰も、すぐには話さなかった。
アリアは自分の足元へ目を落とした。
四歳の自分は空から落ちた。
先生はすぐに追いかけてくれた。
最初は、その距離も少しずつ縮まっていた。
それなのに途中から、どれだけ先生が飛んでも近づけなくなり、その向こうから白い光が見えた直後、自分の姿は先生の前から消えた。
「先生」
「はい」
「それ……境だった?」
今度は、先生もすぐには答えなかった。
女神様も何も言わず、静かに二人を見ている。
しばらくして、エルシアはゆっくり口を開いた。
「今は、その可能性を考えています」
「ほんと?」
「ええ。ただし」
先生はそこで一度言葉を切った。
「あの日に起きたことが、あなたたちが今調べている『境』と同じものだったのかは、まだ分かりません」
「違うかもしれない?」
「はい」
「でも、同じかもしれない?」
「その可能性もあります」
アリアは少し考えた。
「じゃあ、まだ決めない?」
「そうですね」
「ハイラムさんとノルンも、いつもそれ言うよ」
「大切なことです」
「いっぱい聞いたから覚えた」
少し得意そうに言うアリアを見て、エルシアの表情が柔らかくなる。
けれどルカは、まだ気になるところが残っているらしい。
「先生は、その先へは行けなかったんですよね」
「はい」
「でもアリアは、そのあと人間界にいた」
「それは確かです」
「じゃあ、アリアが何かを越えたこと自体は?」
エルシアは少し考えてから答えた。
「アリアが天界から人間界へ渡ったことは間違いありません。ただ、その途中で何が起き、どこを通ったのかまでは、わたしにも分からないのです」
「そっか」
アリアが自分の胸を指した。
「わたしも覚えてない」
「四歳でしたからね」
「今なら覚えてるのに」
「もう一度落ちて確かめようとは考えないでください」
「しないよ!」
返事があまりにも早かったので、ルカが横からじっと見る。
「ほんと?」
「しないもん!」
「ならいいけど」
先生まで、ほんの少し安心したように息を吐いた。
◇
「先生」
今度はノルンが一歩前へ出た。
「もう一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「先ほどの白い光についてですが、見えたのはアリアの姿が消える直前で間違いありませんか?」
「はい」
「どのくらいの間、見えていました?」
「ほんのわずかです。光が見えたと思った次の瞬間には、アリアの姿も見えなくなりました」
「光そのものに、形は?」
「ありませんでした。少なくとも、わたしにはそう見えました」
「色は白だけですか?」
「ええ」
ノルンはそこで口を閉じ、しばらく何も言わなかった。
「ノルン?」
アリアが顔を覗き込む。
「何か分かった?」
「いいえ。ただ、覚えておいた方がよいと思います」
「白い光?」
「はい」
「ミレア湖でも出るかな」
「それは分かりません」
「また?」
「またです」
アリアが少し笑った。
ルカも考えながら口を開く。
「でも、もし満月の日に湖で何か変わるなら、光みたいな変化がないか気をつけて見た方がいいってことだよね」
「可能性の一つとしては、覚えておいてよいと思います」
ノルンはそう答えたものの、それ以上は続けなかった。
四歳の時に先生が見た白い光と、ミレア湖でこれから起きることが同じものだとは、まだ誰にも分からない。
◇
「それからね」
今度はアリアが女神様へ顔を向けた。
「ハイラムさんっていう人に会ったの」
「ハイラム?」
「昔のこと、いっぱい調べてる人!」
アリアがそのまま全部説明しようとしたところで、ノルンが静かに口を挟んだ。
「少し長くなりますので、わたしからお話しします」
「いっぱいあるもんね」
「だからです」
ノルンは、ハイラムから聞いたことを順番に説明した。
突然、知らない土地へ流れ着いた人々の記録が残っていること。
その中には、水辺と関係しているものが多いこと。
月食の時期と重なる可能性がある例も見つかっていること。
水の向こうに故郷を見ながら、どれだけ進んでも辿り着くことができなかった人々がいたこと。
そして昨日、アリアたちと同じように村の外にいて、戻ってきた時には暮らしていた集落そのものがなくなっていた商人の記録まで見つかったこと。
エルシアも女神様も、途中で口を挟むことなく最後まで聞いていた。
「そこまで調べている方がいるのですね」
「先生、流された土地のこと知ってた?」
アリアがすぐに尋ねる。
「伝承や古い記録としてなら、いくつかは」
「女神さまも?」
「ええ」
女神様が頷いた。
アリアの目が大きくなる。
「言ってよ!」
「アリア」
「だって!」
少し頬を膨らませる。
女神様は困ったように微笑んだ。
「あなたの村に起きたことと、過去に残されているそれらの話が同じものなのか、わたしにも分かっていなかったのです」
「今は?」
「以前より、似ているところは増えたように思います」
「同じ?」
「そこまでは、まだ」
「そっか」
アリアの頬が少し戻った。
「じゃあ、怒らない」
「ありがとうございます」
女神様があまりに丁寧に答えるので、今度はアリアの方が少し照れた。
その様子を見ていたルカが口を開く。
「じゃあ、もう一つ聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
「僕たちが村と一緒に流されなかったことと、アリアが四歳の時に人間界へ来たことって、何か関係あると思いますか?」
女神様とエルシアが、ほとんど同時にルカを見る。
少しの間、女神様は考えていた。
「今分かっていることだけで考えるなら、あなたたち三人が村の外にいたことが、一緒に移動しなかった理由としては最も自然だと思います」
「ハイラムさんの商人も、村の外にいたよ」
アリアが言う。
「ええ。その記録も、その考え方とは矛盾しませんね」
「じゃあ、森にいたから?」
「その可能性はあります」
「決まってない?」
「まだ、決まってはいません」
「うん」
今度のアリアは、すぐに納得した。
「では、アリアが四歳の時に人間界へ来たことは?」
ルカがもう一度尋ねる。
女神様は、静かにアリアへ目を向けた。
「それは、それとは別に調べる必要があるでしょう」
「別?」
「村と一緒に移動しなかった理由と、四歳の時にアリアへ起きたことが、必ず同じ理由から生じているとは限りません」
「そっか」
アリアは少し考え、それから頷いた。
「分けて考える」
「そうですね」
「それ、ハイラムさんも言ってた」
エルシアが少し笑う。
「よい研究者なのですね」
「ノルンと似てるよ」
「そうなのですか?」
「二人とも嫌がるけど」
「嫌がってはいません」
ノルンがすぐに訂正した。
「ハイラムさんは嫌がってたよ?」
「それは知りません」
礼拝堂の空気が、少しだけ和らいだ。
◇
話を終える頃には、祭壇を包んでいた光が少しずつ淡くなり始めていた。
「先生」
アリアが呼ぶ。
「はい」
「満月の日、見ててね」
エルシアが少し目を見開いた。
「わたしが?」
「うん」
「教会からですか?」
「どこからでも」
「ずいぶん難しいお願いですね」
「女神さまと一緒ならできる?」
今度は女神様を見る。
「どうでしょう」
「またそれ!」
アリアが少し頬を膨らませると、女神様が笑った。
「でも、祈りは届きますよ」
「じゃあ呼ぶ!」
「大声でなくても構いません」
「分かってる!」
少し間を置いてから。
「たぶん」
「アリア」
「大声にしない!」
礼拝堂に小さな笑い声が広がった。
エルシアの姿も、少しずつ光へ溶け始めている。
その直前。
「アリア」
「なあに?」
先生が呼んだ。
「四歳のあの日」
アリアはじっと先生を見る。
「わたしは、あなたを助けられなかったことを、長い間気にしていました」
アリアの表情から、笑みが消えた。
「もう少し速く追えていたら。もっと早く異変に気づいていたら。そう考えたこともあります」
「先生」
「ですが、今日あの日のことを改めて話してみて、わたしが追いつけなかったのは、ただ飛ぶ速さが足りなかったからではないのだと、ようやく自分でも受け止められた気がします」
アリアは何も言わずに聞いていた。
先生は、あの日ずっと自分を追いかけてくれていた。
それでも届かなかった。
それを先生自身も、長い間ずっと覚えていた。
「何があったのかは、まだ分かりません」
「うん」
「けれど、その答えへつながる手掛かりが、今になって少しずつ見つかり始めているのでしょう」
アリアの顔が、ほんの少し明るくなった。
「じゃあ、一緒に調べる?」
「ええ」
「先生も?」
「わたしに分かることなら」
「じゃあ仲間!」
エルシアが一瞬だけ言葉を失った。
その隣で、女神様の口元が緩む。
「そうですね」
先生もやがて、小さく笑った。
「一緒に調べましょう」
「うん!」
その返事を聞いたあと、エルシアの姿はゆっくりと光の中へ溶けていった。
◇
教会を出ると、昼の空が頭上いっぱいに広がっていた。
アリアは石段を降りながら、一度だけその空を見上げる。
四歳のあの日。
先生は、確かに自分を追っていた。
最初は距離も縮まっていたのに、途中からいくら飛んでも近づけなくなった。
さらに向こうから白い光が差し、その直後、自分の姿は先生の前から消えた。
そして次に自分がいたのは、人間界だった。
あの時、二人の間に何があったのか。
それが今調べている「境」と同じものなのか。
答えは、まだない。
「アリア」
少し先へ行ったルカが振り返る。
「行くよ」
「うん!」
アリアは駆け出しかけて、一瞬だけ足を止めた。
「……もういいよね?」
「何が?」
「走って」
ルカが辺りを見回した。
「もう外だからいいんじゃない?」
「やった!」
今度こそ駆け出す。
「待ってなの!」
マルルも長い耳を揺らしながら、そのあとを追っていった。
ノルンは少し後ろから二人と一匹を眺め、それから一度だけ空を見上げた。
『空の子は、境を見る』
その言葉が本当にアリアを指しているのかは、まだ分からない。
四歳のあの日に起きたことが、ミレア湖に残る記録と同じ現象だったのかも分からない。
けれど今日、確かになったことはある。
先生は、アリアへ追いつけるはずだった。
それなのに途中から、どれだけ飛んでも距離を縮めることができなくなり、やがてアリアの姿だけが白い光の中へ消えた。
先生は、その先へ進むことができなかった。
何百年も前、水の向こうに故郷を見ながら、どれだけ進んでも近づくことができなかった人がいる。
そして四歳のアリアにも、よく似た「近づけない」出来事が起きていた。
同じなのか。
違うのか。
今はまだ、それすら分からない。
ノルンは空から視線を戻し、先を行くアリアたちのあとを歩き始めた。
皆既月食まで、あと二週間ほど。
赤い月が湖へ映る夜を前に、過去から拾い集めてきた小さな手掛かりは、少しずつ同じ場所へ集まり始めていた。
★お読みいただき、ありがとうございます★
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