第109話 三つ目の報告
翌朝。
本邸を出る前に、アリアはもう一度だけアリアーヌの顔を見せてもらった。
昨日は顔を真っ赤にして、部屋いっぱいに響くほど元気な声で泣いていたのに、今朝はアデリーヌのそばですっかり静かに眠っている。
アリアは寝台のそばへ近づくと、起こさないようにそっと顔を覗き込んだ。
「まだ寝てる」
「赤ちゃんは、たくさん眠るのよ」
アデリーヌも、つられるように小さな声で答える。
「わたしが帰ってきた時には起きてる?」
「どうかしら。その時も眠っているかもしれないわね」
「ずっと寝るの?」
「ずっとではありませんよ」
「そっか」
アリアは少し考えてから、眠っているアリアーヌへ胸の前で小さく手を振った。
「じゃあ、行ってくるね」
もちろん返事はない。
それでも、ほんの少しだけ口元が動いたように見えて、アリアはすぐに嬉しそうな顔になった。
「今、動いた」
「偶然かもしれませんよ」
すぐ後ろからノルンの声が飛んでくる。
「ノルン、昨日からずっとそれ言ってる」
「昨日からずっと、偶然かもしれませんから」
「三回も?」
「三回でもです」
どうにも納得できない。
それでも、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。
アリアはもう一度だけアリアーヌの顔を見てから、今度こそ寝台を離れた。
今日は、昨日行くはずだった教会へ向かう。
三つ目の欠片を見つけたことを女神さまへ報告しなければならないのだが、話さなければならないことは、それだけではなかった。
水鏡の向こうに知らない世界が現れ、そこで水の精霊女王に出会った。三つ目の欠片は、こちら側にも向こう側にも入らず、二つの世界の境目に引っかかっていた。
そのうえ、同じ時間に岸から湖を見ていたセレフィナたちには、自分たちとはまるで違うものが見えていたらしい。
そして昨日は、アデリーヌの手を握っているうちに、自分の羽まで突然光った。
思い返せば返すほど話すことが増えていき、本邸を出る頃には、アリアの頭の中ですっかり順番が分からなくなっていた。
「いっぱいあるね」
隣を歩きながら呟くと、ノルンが頷いた。
「順番にお話しすれば大丈夫ですよ」
「最初は三つ目?」
「その前に、どうやって見つけたのかを説明した方がよいでしょうね」
「じゃあ、船に乗ったところから?」
「それくらいからでいいと思います」
アリアは歩きながら指を一本ずつ折り始めた。
「船に乗って、月が出て、コンパクトが鳴って、それから湖が静かになって、月が赤くなって、水にも月があって……」
「そこからもう長いね」
横からルカが笑う。
「まだ女王さま出てきてないよ」
「だから長いんだよ」
言われてみれば、その通りだった。
アリアは折っていた指を見ながら少し悩み、それからノルンへ顔を向けた。
「じゃあ、ノルンが話す?」
「アリアが話したいのでしょう?」
「話したい」
「だったら、アリアが話して、足りないところをノルンに足してもらえばいいんじゃない?」
ルカの提案に、アリアはすぐに頷いた。
「それがいい!」
「最初から、そのつもりでした」
ノルンが静かに言う。
「あれ?」
「アリアが全部一人で説明するとは言っていませんよ」
「そっか」
どうやら心配する必要はなかったらしい。
アリアがほっとした顔で前を向くと、その足元ではマルルが歩くたびに首元のコンパクトを小さく揺らしていた。
中には一つ目と二つ目、そして昨日手に入れた三つ目の青い欠片が収まっている。
昨日の朝までは、まだ二つだった。
それが今は、ちゃんと三つになっていた。
◇
教会へ着くと、アリアたちは礼拝堂へ案内された。
昨日まで人が絶えず行き来していた本邸とは違い、ここでは自分たちの靴音までよく響く。
アリアは祭壇の前まで行くと、いつものように両手を胸の前で合わせた。隣にはルカとノルンが並び、マルルはアリアの足元へ座る。少し後ろでは、エリオが静かに見守っていた。
アリアは目を閉じた。
「女神さま。三つ目、見つけたよ」
小さな声が静かな礼拝堂へ落ち、しばらくは何も起こらなかった。
けれど、やがて祭壇の向こうに淡い光が集まり始める。
高い窓から差し込む朝日とは違う白い光がゆっくりと形を持ち、その中から見慣れた姿が現れた。
「女神さま!」
『おかえりなさい、アリア』
「ただいま!」
すぐに返事をしてから、アリアはふと首を傾げた。
「でも、ここに帰ってきたわけじゃないよ?」
女神さまの口元が柔らかく緩む。
『それでも、こうしてまた顔を見せに来てくれたでしょう?』
「じゃあ、ただいまでいい?」
『ええ』
「ただいま!」
今度は迷わず言えた。
すると、その少し後ろへもう一つ淡い光が集まり始める。
まだ形がはっきりする前から、アリアには誰なのか分かった。
「先生!」
『元気そうですね』
「元気だよ!」
答えた途端、アリアは足元のマルルへ顔を向けた。
「マルル、見せて!」
「なの!」
マルルは胸元へ両前足を添えると、首元の小さなコンパクトを器用に開いた。
中には三つの青い欠片が並んでいる。
「ほら!」
自分が持っているわけでもないのに、アリアは得意そうに胸を張った。
「三つになったよ!」
女神さまの視線が、開いたコンパクトへ落ちる。
『本当に、三つ目を見つけたのですね』
「うん!」
『よく頑張りましたね』
「今回は、ちょっと大変だったよ」
「ちょっとですか?」
すぐにノルンから声が飛んだ。
アリアはしばらく考え、それから言い直した。
「……いっぱい大変だった」
「その方が近いですね」
ルカが横で小さく笑った。
そこでアリアは、ミレア湖へ船を出したところから話し始めた。
満月が昇る前に湖へ出たこと。
途中から、船をどちらへ向けてもコンパクトの光が前を指すようになったこと。
以前も同じ場所で進めなくなっていたため、無理に先へ行こうとせず、船を止めて皆既月食を待ったこと。
『そこで待ったのですね』
先生に尋ねられ、アリアは少し得意そうに頷いた。
「ちゃんと止まったよ」
「今回は自分からね」
ルカが付け加える。
「今回はじゃないよ。これからもだよ」
『大切なことを覚えましたね』
「うん!」
先生に褒められると、アリアの背筋が少し伸びた。
そこから先は、ときどきノルンにも手伝ってもらいながら話した。
月が欠けていくにつれて湖を渡っていた風が弱くなり、月全体が暗い赤に染まった頃には波まで消え、水面が一枚の大きな鏡のようになった。
そして空にある赤い月と、水に映ったもう一つの月が、本来ならあり得ない動きで少しずつ互いへ近づいて見えたことを、アリアは両手を使って説明した。
「二つの月がね、こうやって近づいて、一個になったの」
離していた手をゆっくり重ねてみせる。
女神さまも先生も、途中で口を挟まずに聞いていた。
「そしたら、リンって鳴って」
「コンパクトの音ではありませんでした」
ノルンが補う。
「湖そのものから響いてきたようにも聞こえる、不思議な音でした」
「それでね、知らないところが見えたの」
『知らないところ?』
「水の精霊の世界!」
そこからアリアの声は急に弾み始めた。
「お水が空に浮いてたよ。それから木みたいなのもあったんだけど、葉っぱじゃなくて透明な雫がいっぱいついてて、氷みたいな柱もあった!」
一息で話しきり、ようやく大きく息を吸う。
続きをルカが引き取った。
「湖に何かが映っているようにも見えたけど、ただの映り込みには思えなかったよ。向こう側に、本当に別の場所があるみたいだった」
「そこへ、水の精霊が現れました」
ノルンが続ける。
「女王さま!」
アリアがすぐに割って入った。
「本人が最初から女王と名乗ったわけではありません」
「でも、女王さまだよ」
「今はそういうことにしておきましょう」
そのやり取りを聞きながら、女神さまの目にもわずかな笑みが浮かんだ。
『どのような方でしたか?』
「わたし!」
『……アリア?』
「お顔がね」
アリアは自分の頬を両手で挟んだ。
「わたしのお顔にしてたの。水の精霊には決まった形がないんだって」
そこからは、ノルンが女王から聞いたことを整理して伝えた。
水の精霊たちは決まった姿を持たず、相手に見える形を借りることがあるらしい。
昔は今より自由にこちら側へ渡ることができ、水のある場所なら行き来もしやすかったという。けれど今ではこちらへ自由に来られなくなっており、なぜそうなったのかも、いつからなのかも、女王自身には分からなかった。
『その方にも、理由は分からないのですね』
「うん。いっぱい聞いたけど、いっぱい分かんないって言ってたよ」
「時間の捉え方も、わたしたちとはかなり違うようでした」
ノルンが続ける。
「何日前、何年前という数え方自体を、ほとんどしていないようです」
『そうですか』
女神さまはそれ以上、何かを決めつけようとはしなかった。
アリアは少し待ってから尋ねた。
「女神さまは分かる?」
『何がですか?』
「どうして水の精霊が、こっちに来られなくなったの?」
女神さまは静かに首を横へ振った。
『今のお話だけでは、まだ分かりません』
「女神さまでも?」
『ええ』
アリアは少しだけ意外そうな顔をしたものの、すぐに考え直すように頷いた。
「そっか。女王さまと一緒だね」
『そうかもしれませんね』
女神さまにも分からないことがある。
以前なら、それだけで少し不安になったかもしれない。
けれど今のアリアには、「まだ分からない」という答えも、それほど嫌なものには感じられなくなっていた。
「それから、三つ目!」
思い出したように声を上げると、ノルンがすぐにアリアを見る。
「そこが今回の報告で一番大切でしょう」
「忘れてないよ!」
マルルのコンパクトが再び強く反応したのは、水の精霊女王と話している途中だった。
それまで進む方向を指していた青い光は、今度は女王へ向かったのではない。
アリアたちのいるこちら側と、水鏡の向こうに広がる水の精霊界。その二つが触れ合って見える、ちょうど境目へ向かって伸びていた。
「最初は何もなかったの。でもコンパクトがずっと同じところを指してるから見てたら、そこでキラってしたんだよ」
「その場所に、欠片が見えました」
ルカが続ける。
「どちらの世界にも入っていないように見えたんだ」
「透明な何かへ引っかかっているような状態でした」
ノルンの言葉を聞いた時、先生の表情がほんのわずかに変わった。
『二つの世界の間に?』
「うん」
アリアは大きく頷いた。
「女王さまが取ろうとしたら、こっちに逃げてきたの。だから、わたしが取ろうとしたら、今度は向こうに逃げた」
両手を使って、右へ左へ逃げる欠片の動きを再現する。
「何度か繰り返しました」
ノルンが淡々と付け加えた。
「いっぱい逃げたよ」
「いっぱい追いましたね」
「途中でちゃんと止まったもん」
「途中までは追ったということです」
「でも、止まったよ」
そこだけは譲らない。
アリアは少し頬を膨らませたあと、欠片を追っている途中で一度だけ、女王と自分の手が同時に近づいた時に、その動きが鈍くなったことを話した。
「だからね、二人で一緒に手を出したら、どっちに逃げるのかなって思ったの」
『それを試したのですか?』
先生に尋ねられ、アリアはすぐに頷いた。
「うん。でも手だけだよ」
「身体まで前へ出さないよう、わたしからも確認しました」
ノルンが付け加えると、先生も静かに頷いた。
「それで二人で一緒に触ったら、欠片が逃げなかったの。真ん中で止まって、それからコンパクトがすごく光った」
「そのあと、欠片はコンパクトから伸びた光へ導かれるようにこちら側へ移動し、三つ目の窪みへ収まりました」
ノルンが説明を終えると、礼拝堂はしばらく静かになった。
女神さまと先生は、マルルの首元に開かれたままのコンパクトを見つめている。
アリアも二人が何か話し始めるのを待っていたものの、なかなか声が聞こえてこない。
「……変だった?」
『とても不思議です』
ようやく女神さまが答えた。
「女神さまも初めて?」
『少なくとも、わたしの知る限りでは、欠片が二つの場所の間に留まっていたという話は知りません』
「じゃあ、なんで?」
『それも、まだ分かりません』
「いつからあったのも?」
『分かりません』
「なんで一人だと取れなかったのも?」
『今は分かりません』
「二人だったら取れたのも?」
女神さまは少しだけ困ったように笑った。
『それもです』
「いっぱいだ」
『いっぱいですね』
アリアも思わず笑った。
分からないことは、また増えた。
それでも、自分だけが分かっていないわけではないと思うと、不思議と少し安心できた。
「もう一つあります」
今度はノルンが口を開いた。
伝えたのは、同じ夜を岸から見ていた人たちのことだった。
ハイラムが残した記録によれば、アリアたちには水鏡の向こうに精霊界が見えていたのに、岸にいたセレフィナやエレノアたちには、その景色も水の精霊女王も見えていなかった。
彼らに見えていたのは船の周囲へ広がった青白い光で、一時は船の輪郭までぼやけ、確かにそこへ浮かんでいるのに、どれほど離れているのか分からないように見えたという。
その話を聞いている間、先生は一度も口を挟まなかった。
「先生?」
『聞いていますよ』
「似てる?」
何と、とは言わなかった。
それでも先生には分かったらしい。
四歳のアリアが人間界へ落ちた、あの日。
先生が後を追っていたのに、途中から二人の距離が縮まらなくなった。
確かにそこにいるはずなのに、アリアがどんどん遠く見えるようになり、いくら飛んでも追いつけなかった。
『似ているところはあります』
先生が静かに答えると、アリアの目が少し大きくなった。
「同じ?」
『それは、まだ分かりません』
「やっぱり」
けれど、今度は残念そうにはしなかった。
「まだ決めない。でも、覚えておく」
『それがいいでしょう』
先生が頷き、ノルンも静かに微笑んだ。
似ているからといって、すぐに同じものだと決めない。
分からないものには、分からないまま残しておくことも必要なのだと、アリアも少しずつ覚えてきていた。
「それからね」
まだ続きを話そうとするアリアに、先生がわずかに目を見開く。
『まだあるのですか?』
「あるよ。昨日の」
アリアは自分の背中へ手を回そうとした。
「羽が光った」
その言葉を聞いた途端、女神さまと先生の表情がほとんど同時に変わった。
『羽が?』
「うん」
今度は、昨日の本邸で起きたことを最初から話した。
アデリーヌの赤ちゃんがなかなか生まれず、長い時間がかかっていたこと。
アデリーヌがすっかり疲れてしまい、自分を呼んでくれたので部屋へ入り、そばで手を握っていたこと。
「アデリーヌお姉ちゃんの手、冷たかったの」
そう言いながら、アリアは自分の両手を見た。
「だから、あったかくなったらいいなって思った。それから、痛いのも少しなくなったらいいなって」
「アリアは、何か魔法を使おうとしたわけではありません」
ノルンが補う。
「本人にも、そのつもりはなかったようです」
「なかったよ」
アリアはすぐに頷き、今度は胸の辺りへ手を置いた。
「でも、ここがあったかくなって」
アリアは胸の辺りへ手を当てた。
「それから羽がふわって光って、手もあったかくなったの」
『そのあと、アデリーヌさんは?』
女神さまに尋ねられ、アリアはあの時のことを思い出すように自分の両手を見た。
「痛いのはなくなってないって。でも、ちょっと楽になったって言ったよ」
「その後、セレフィナ様からも、アデリーヌ様の呼吸が少し落ち着いたと伺っています」
ノルンが、あとから聞いたことだけを補う。
「それで赤ちゃん生まれたよ!」
待ちきれなかったように、アリアの声が一気に明るくなった。
「女の子!」
『それは、おめでとうございます』
「アリアーヌっていうの」
『アリアーヌ?』
「わたしとちょっとおそろい!」
女神さまが柔らかく微笑んだ。
『素敵な名前ですね』
「うん!」
アリアも嬉しそうに頷く。
そこで一度話が途切れたところへ、先生が静かに声を掛けた。
『アリア。昨日と同じ光を、今ここで出すことはできますか?』
「今?」
アリアは自分の掌を見る。
昨日、自分はどうしたのだったか。
アデリーヌの手を握り、少しでも痛くなくなればいいと思った。元気になってほしいと願い、赤ちゃんにも生まれてきてほしいと思った。
「やってみる」
両手を前へ出し、しばらく掌を見つめてみる。
けれど、何も起こらない。
胸も手も温かくならなければ、背中の小さな羽もいつものままだった。
「……出ない」
『無理に力を入れなくていいですよ』
先生がすぐに言った。
「でも……」
『昨日も、その光を出そうと思って出したわけではなかったのでしょう?』
「うん」
『なら、今ここで無理に同じことをする必要はありません』
アリアは少し残念そうに両手を下ろした。
「何だったのかな」
女神さまも先生も、すぐには答えなかった。
『誰かに元気になってほしいという強い願いに、あなたの中の何かが応えた可能性はあります』
女神さまの言葉に、アリアは首を傾げる。
「魔法?」
『それも、今はまだ分かりません』
「治す魔法?」
『昨日のお話だけで、そこまで決めることもできません』
「また分かんない」
『ええ』
アリアはもう一度、自分の両手を眺めた。
昨日は確かに光ったし、アデリーヌも少し楽になったと言っていた。それなのに、今は同じことをしてみても何も起こらない。
『アリア』
先生に呼ばれ、顔を上げる。
『自分でも分からない力を、必要もないのに何度も試してはいけませんよ。どのような時に現れるのかも、それがあなた自身へどれほど負担をかけるのかも、まだ分からないのですから』
「疲れちゃうかもしれない?」
『そうかもしれません』
「じゃあ、一人でやらない?」
『そうしてください』
「必要になった時は?」
先生は少し考えてから答えた。
『その時も、できるだけ周りの大人へ知らせてください』
アリアは自分の手を見ながら、その言葉を少し考えた。
分からないものへ、いきなり飛び込まない。まず止まって確かめてから動く。それは昨日まで何度も練習してきたことと、少し似ているような気がした。
「分かった」
今度は素直に頷いた。
◇
ようやく全部話し終えると、アリアは大きく息を吐いた。
「いっぱい話した」
「本当にいっぱいありましたからね」
ノルンも頷く。
「三つ目も見せたし、女王さまのことも言ったし、昨日の羽も言った」
「岸からの記録もです」
「あ、それも」
「もう忘れ始めていますね」
「忘れてないよ。今思い出したもん」
それを忘れたというのではないかと、ルカは言いかけたものの、結局笑うだけにした。
アリアはもう一度、マルルの首元へ目を向ける。
「じゃあ、終わり?」
『そうですね』
女神さまが答えた。
『三つ目の欠片を無事に見つけられたことが、何よりです』
「うん!」
「じゃあ閉じるなの」
マルルはコンパクトへ両前足を添え、小さな蓋をぱちりと閉じた。
これで今日の報告は終わり。
アリアもそう思った、その時だった。
リン。
「え?」
アリアとマルルが同時に首元を見る。
「ぼくなの?」
「マルルじゃなくて、コンパクトでしょ」
「そうだったなの」
閉じたばかりの蓋が、ひとりでに開いた。
中に収まっている三つの欠片が淡い青い光を放ち始め、その中央から細い光の線がまっすぐ礼拝堂の外へ向かって伸びていく。
「また光った!」
アリアがすぐにしゃがみ込むと、ルカも隣へ来た。
「次?」
「たぶん。ちょっと待って」
ルカは荷物からいつもの地図を取り出し、礼拝堂の床へ広げた。
「マルル、こっちに来て」
「なの」
マルルが地図のそばへ移動すると、首元のコンパクトから伸びた青い光が紙の上へ落ち、そのまま細い線となって走り始めた。
「あっ」
アリアは思わず地図へ顔を近づける。
光はミレア湖を離れ、町を越え、森を抜けて、さらに南へ進んでいく。
「どこまで行くの?」
「まだ先みたいだ」
ルカも肩を寄せるようにして光を追い、反対側からノルンも覗き込んだ。
青い線は止まらない。
今まで旅をしてきた場所から離れ、まだ知らない土地へ、その先へと伸びていく。
アリアは光を見失わないように、少し離れたところを指先で追っていった。
やがて、その指が止まる。
「……あれ?」
光が地図に描かれた陸地の端へ近づいていた。
その先には、もう町も道も描かれていない。切り立った海岸線の向こうには、地図いっぱいに青い色が広がっている。
「ここで陸、終わってるよ?」
「うん」
ルカも光の先を確かめた。
青い線は海へ飛び出してはいなかった。
陸地の南端、切り立った海岸の一角で止まり、その場所だけが静かに明るさを増している。
「じゃあ、ここって……」
アリアはますます地図へ顔を近づけた。
光が止まっている場所のすぐ向こうには、青く塗られた場所がどこまでも続いている。
「海のところ?」
「そうみたいだね」
ルカが海岸線を指で辿る。
その隣では、ノルンも地図の南端をじっと見つめていた。
「南の海に面した断崖ですね」
「うみ……」
アリアは、その言葉を小さく繰り返した。
ミレア湖より、ずっと大きいと聞いた場所。
向こう側が見えないという、大きな水。
アリアにはまだ、それがどんな景色なのか想像することさえできなかった。
ただ、地図の上には陸地の終わりから先いっぱいに青い色が広がっている。
その青を見つめているうちに、今度は三つ目の欠片を手に入れた嬉しさとは少し違うものが、胸の中でむくむくと膨らんできた。
「海って、どのくらいおっきいんだろ」
ぽつりと呟きながら、アリアはしばらく地図から目を離せなかった。




