第98話 研究者の困惑
翌朝。
ハイラムは、店の奥にある卓をほとんど占領するほど広げた紙を前に、一人で腕を組んでいた。
昨日アリアたちと話したあと、写しにする記録を一緒に確認するため、翌朝もう一度店へ来てもらうことになっている。そのため昨夜のうちに、水辺で起きたと分かるものや月食の時期と重なっているもの、水面に見慣れない景色を見たという記録、突然知らない土地へ人や家が現れたと書かれているものまで、関係がありそうな資料を一つずつ選び直しておいた。
全部を持ち出させるわけにはいかない。
だから写しを作るものだけでも絞っておこうと思ったのだが、いざ並べてみると、予想していたよりずっと多くなった。
「…………」
ハイラムは卓の端に置かれた古い手記へ目を向けた。
昨夜からどうにも気になっているのは、光の加減で白にも銀にも見える、不思議な色の髪をした少女だった。
ノルン。
古い文字を読める人間がいること自体は、それほど珍しいことではない。
古文書を専門に扱う学者を探せば何人かはいるし、ハイラム自身も長い年月をかけ、かなりのものを読めるようになった。
問題は、ノルンが読むまでの速さだった。
昨日、何百年も前に書かれた先祖の手記を見せた時も、彼女はほとんど迷わなかった。崩れた文字を前にしても止まらず、意味を確かめるために別の資料を開くこともなく、そのまま視線を動かしていった。
『あの夜、水の向こうに故郷を見た』
『されど、いくら進めど辿り着けず』
『水は道にあらず。境であった』
ハイラムが初めて同じ文章へ向き合った時には、とてもそんな簡単にはいかなかった。
古い綴りを調べ、同じ時代に書かれた別の文書を探し、擦れて読めない文字は何度も角度を変えて眺めた。それでも意味の分からない言葉が残り、たった一つの文章を読み解くためだけに何日も費やしたことさえある。
それをノルンは、手記へ目を落としたかと思えば、そのまま読み、意味まで理解して終わってしまった。
「…………」
ハイラムは額へ手を当てた。
長年の研究とは、いったい何だったのだろう。
もちろん、本気でそう思っているわけではない。
むしろ研究者としては、猛烈に気になっていた。
どうして読めるのか。
どこで覚えたのか。
いったい、どこまで読めるのか。
昨日はアリアたちの村の話を聞く方へ意識が向いていたため、そこまで確かめる余裕がなかった。
なら今日は、少し聞いてみればいい。
そう考えたところで、店の扉についた小さな鈴が鳴った。
「おはよう!」
昨日と同じ明るい声が店の中へ響く。
「来たか」
ハイラムが顔を上げると、本棚の向こうから最初に水色の髪が現れ、その後ろにルカとノルン、足元には白いマルルが続いた。最後に入ってきたエミールが扉を閉める。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようなの」
「朝から元気だな」
「いっぱい寝たよ!」
「それはよかった」
何気なく答えながら、ハイラムの視線は自然とノルンへ向かっていた。
今日も前には、革のホルダーで支えられた古い木箱が下がっている。
見たところ昨日と何も変わらない。
不思議な髪色を除けば、ただの少女にしか見えない。
その少女が、どうしてあの文字を読めるのか。
「ハイラムさん?」
アリアが首を傾げた。
「何?」
「ノルンずっと見てる」
「見てない」
「見てたよ」
「見ていました」
本人にまで言われた。
「…………」
誤魔化す意味もなくなり、ハイラムは卓に置かれた手記を指した。
「ちょうどいい。ノルン」
「はい」
「一つ聞きたい」
「何でしょう」
「昨日、この手記を読んだな」
「読みました」
「どこで古い文字を習った?」
「古い文字?」
ノルンは少し考えた。
「特に、習ったというほどではありません」
「……何?」
「読めますから」
「それを聞いてるんじゃない」
横で聞いていたアリアが、きょとんとする。
「何聞いてるの?」
「俺も分からなくなってきた」
ハイラムは一度息を吐いた。
「どうして読めるのかを聞いてるんだ」
「以前から読めます」
「以前っていつだ」
「昔です」
「どのくらい昔だ」
「かなり昔ですね」
「…………」
話が一向に進まない。
ルカが横で口元を押さえているのが見えた。
「笑ってるだろ」
「ちょっとだけ」
「笑うところか?」
「だってノルン、いつもこんな感じだから」
「いつもなのか」
「はい」
ノルン本人が頷いた。
ハイラムはもう一度額へ手を当てる。
「ちょっと待て」
「待ちます」
「そういう意味じゃない」
アリアがくすくす笑い始めた。
昨日は喋る白い兎を見ても、それほど取り乱さなかった。
自分は案外、何が起きても冷静でいられる人間なのかもしれないと思ったのだが、どうやら勘違いだったらしい。
「じゃあ」
ハイラムは紙の束から一枚を抜き出した。
「これは読めるか?」
昨日は見せていない記録だった。
古い土地台帳の一部で、文章そのものに特別な意味はない。ただ、書かれた年代が古く、文字もかなり崩れているため、ハイラム自身が読むのに相当苦労したものだった。
ノルンは差し出された紙へ目を落とす。
「読めます」
「本当に?」
「はい」
少しだけ視線を動かした。
「土地の境界についての記録ですね。こちらが古い地名で、ここからこちらまでを一つの区画として扱っています」
ハイラムの顔から表情が消えた。
ノルンは気づく様子もなく、さらに紙の下へ視線を移す。
「この文字は、今ではほとんど使いませんね」
「……それ」
「はい?」
「俺、その一文字を調べるのに三日かかったんだが」
「そうなのですか?」
本当に驚いた顔をされた。
そこが一番腹立たしい。
「ノルン」
ルカが笑いながら小声で言う。
「それ、たぶん言わない方がいいよ」
「何をです?」
「『そうなのですか』って」
「事実を確認しただけですが」
「そこなんだよ」
ハイラムが思わず口を挟んだ。
アリアはとうとう声を上げて笑い、マルルまで何がおかしいのか分からないまま、楽しそうに長い耳を揺らしている。
「ノルン、すごいなの」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「そうなのですか?」
「今度は俺に言うな」
店の中へ笑い声が広がった。
しばらくしてようやく静かになると、ハイラムは椅子へ座り直した。
けれど、ノルンへの見方は昨日とは完全に変わっていた。
ただ文字を読めるだけではない。
その言葉がどの時代に使われていたものなのか。今の言葉とは何が違うのか。どこが普通で、どこが特殊なのか。
まるで、その文字が使われていた時代そのものを知っているような読み方をする。
いったい、どういう少女なのだ。
「ハイラムさん」
そのノルンが、今度は卓の上に並べられた紙へ目を向けた。
「これは、昨日お話ししていた記録ですか?」
「ああ」
研究の話へ入った途端、声も表情も変わる。
「関係がありそうなものを選んだ。全部渡すわけにはいかないから、写しを作るものを一度確認してほしい」
「ありがとうございます」
ノルンが紙へ手を伸ばし、ハイラムも椅子を寄せた。
「一応、俺は四つに分けた」
「四つ?」
アリアもすぐ卓へ近づく。
「水辺に関係する記録、月食と時期が重なるもの、知らない景色を見たというもの。それから、土地や人が突然別の場所へ現れた記録だ」
「いっぱい」
「ああ。だから全部同じだとは思うなよ」
「昨日も言ってたね」
「そこは覚えてるのか」
「覚えてるよ?」
なぜ疑われたのか分からない顔をされる。
「アリア」
ルカが笑った。
「ハイラムさん、昨日一日でいろいろ心配になったんだと思う」
「誰のせいだ」
「アリアたち?」
「自覚はあるんだな」
「僕はあるよ」
アリアがすぐルカを見る。
「わたしもあるよ?」
「ほんと?」
「あるもん」
「何が?」
「…………」
真剣に考え始めたアリアを見て、ハイラムはもうそれ以上聞かないことにした。
◇
それからしばらくは、卓に並べた記録を一枚ずつ確かめる時間が続いた。
ノルンが内容を読み、ハイラムがその記録をどこで見つけ、どの程度まで事実を確認できているのかを説明する。ルカは横から地名や年代を確認し、アリアは読める文字を見つけるたびに、指で追いながら一緒に紙を覗き込んでいた。
マルルは最初こそ卓の下にいたものの、途中から退屈したらしく、エミールの足元へ移動して丸くなっている。
エミールも今日は案内役というより、完全に聞き役だった。
「これ」
ノルンが一枚の紙で手を止めた。
「移動したとされる年代が曖昧ですね」
「ああ。三年くらい幅がある」
「それなら、月食との一致を強く見すぎない方がよいでしょう」
「俺もそう思う」
「こちらは?」
「日付まで残ってる」
「なら、こちらの方が比較には使えますね」
「そうだな」
ハイラムは返事をしながら、ふと気づいた。
会話が普通に成立している。
昨日出会ったばかりの少女と、自分が何十年も続けてきた研究について、ごく当たり前のように話している。
しかもノルンは、ただ説明を聞いているだけではない。
記録の弱い部分や、まだ判断材料として足りないところまで見つけてくる。
「…………」
「どうしました?」
「いや」
「またノルン見てる」
アリアがすぐに気づいた。
「見てない」
「今は見てたよ」
「お前はこっちを見るな」
「なんで?」
「全部見つかるからだ」
「?」
アリアは意味が分からないまま首を傾げる。
ハイラムは小さく息を吐き、紙へ視線を戻した。
本当に、とんでもない子どもたちが来たものだ。
そう思った時、昨日から気になっていたことを一つ思い出した。
「そういえば、確認したいことがある」
「なに?」
アリアが顔を上げる。
「昨日、君たちは村が別の場所へ流されたと言ったな」
「うん」
「それを、どうしてそこまで信じている?」
アリアは不思議そうな顔をした。
「女神さまに聞いたから」
「…………」
ハイラムの手が止まった。
「誰に?」
「女神さま」
「…………」
聞き間違いではなかったらしい。
「女神?」
「うん」
「女神って」
ハイラムは一度言葉を選んだ。
「教会で祈る、あの女神か?」
「うん」
「……誰かから、女神の言葉を聞いたということか?」
「違うよ?」
アリアがますます不思議そうになる。
「女神さまとお話したの」
「…………」
今度の沈黙は長かった。
ハイラムはまずアリアを見て、次にルカ、ノルン、エミールへ視線を移し、最後に足元のマルルを見た。
誰も冗談だという顔をしていない。
「直接?」
「うん」
「話した?」
「いっぱい」
「いっぱい?」
「何回か会ってるよ」
ルカが、何でもないことのように付け加えた。
ハイラムは椅子の背へ身体を預ける。
「ちょっと待て」
昨日から、こればかり言っている気がする。
「女神に、何回か会っている?」
「はい」
今度はノルンが答えた。
「教会において顕現されました」
「顕現……」
学者として、その言葉の意味は知っている。
知ってはいるが、それを日常会話の中で聞く日が来るとは思っていなかった。
すると足元にいたマルルが、ひょこりと顔を上げる。
「ぼく、この宝石も女神さまにもらったなの」
「…………」
ハイラムの視線が、マルルの額へ移った。
「それも?」
「そうなの」
「喋るのも?」
「女神さまのおかげなの」
「…………」
昨日、喋る兎を見て「そういう生き物もいるのだろう」と一度納得した自分を、今すぐ殴りたい。
「お前たち」
ハイラムは顔を覆うように片手を額へ当てた。
「昨日、ずいぶん大事なことを黙ってたな」
「だって聞かなかったもん」
アリアが答えた。
「…………」
確かに聞いていない。
普通は聞かない。
初対面の子どもに「女神に直接会ったことはあるか」と確認する人間など、まずいない。
エミールがとうとう吹き出した。
「ハイラムさん、大丈夫?」
「大丈夫に見えるか?」
「ちょっと無理そう」
「だろうな」
けれど、笑っていられたのはそこまでだった。
ハイラムはゆっくり手を下ろすと、改めてアリアへ顔を向けた。
「その女神は、本当に村が『流された』と言ったのか?」
声が変わった。
アリアもそれに気づいたらしく、笑っていた表情を戻す。
「うん」
「消えたのではなく?」
「うん。別のところに流されたって」
ハイラムはノルンを見る。
「あなたも聞いたのか?」
「はい」
ハイラムはノルンを見る。
「あなたも女神から直接聞いたのか?」
「最初に聞いたのは、アリアたちからです」
「アリアたちから?」
「はい。その後、教会で女神様にお会いした際に、わたしからも確認しました」
「確認した?」
「村の人々が消滅したのではなく、別の場所へ移っているということをです」
ノルンは静かに続けた。
「女神様も、同じようにおっしゃっていました」
迷いのない返事だった。
ハイラムは、卓の上へ並んでいる古い記録へ目を落とした。
土地が突然現れたという話。
知らない場所へ人々が流れ着いたという記録。
水の向こうに故郷を見たという手記。
何年資料を集め続けても、それが本当に起きた出来事なのか、それとも長い年月の中で姿を変えた昔話なのか、完全には切り分けることができなかった。
ところが目の前の子どもたちは、神本人から、村は別の場所へ移動したのだと聞いたという。
「……とんでもない話だな」
思わず声に出た。
「すごい?」
アリアが聞く。
「その『すごい』ではない」
「違うの?」
「違う」
ハイラムは紙へ視線を落としたまま、しばらく考えた。
「ただし」
先に口を開いたのはノルンだった。
「女神様がおっしゃったことと、ハイラムさんのご先祖に起きたことが、同じ現象だと決まったわけではありません」
ハイラムは顔を上げた。
「……そうだ」
「よく似ています。しかし、似ていることと同じであることは別です」
「ああ」
ハイラムは短く頷いた。
そこまで考えているのか。
古い文字を読めるだけではない。
目の前へ、とんでもなく魅力的な答えらしきものが現れても、すぐに飛びつかず、分かっていることと推測をきちんと分けようとしている。
ハイラムは少しだけ目を細めた。
「ノルン」
「はい」
「本当に何者なんだ?」
「ノルンです」
「名前を聞いてるんじゃない」
「では、何を?」
「…………もういい」
「そうですか」
本当に分かっていない顔をしている。
それを見て、ルカがまた笑い始めた。
◇
「もう一つあるなの」
今度はマルルだった。
「何が?」
アリアが足元を見る。
「湖で、コンパクト変だったなの」
「あ」
ルカもすぐに思い出す。
「どっち向いても前だったやつ」
ハイラムが反応した。
「何の話だ?」
アリアは答えようとして、途中でノルンを見る。
昨日と同じだった。
何でもそのまま話してしまわず、今ここで話してよいところを一度確かめる。
ノルンは少し考えてから頷いた。
「詳しい仕組みについてはお話しできませんが、わたしたちが探しているものの方向を示す道具があります」
「方向を?」
「はい」
「それが湖で変な動きをした?」
「そうなの!」
マルルがすぐに答えた。
「船をこっちにしても前なの。こっちにしても前なの。戻っても前なの」
「待て」
ハイラムはすぐに紙を一枚引き寄せ、円を描いて、その中へ簡単な船の形を書き込んだ。
「最初はこう進んだ」
「うん」
アリアが頷く。
「その時、光は?」
「前」
「船を右へ向けた」
「前」
「左へ?」
「前」
「反対へ戻った時も?」
「前だったよ」
ハイラムは鉛筆の先で、描いた円の中央を軽く叩いた。
「それなら、少なくとも湖のどこか一つの地点を指していた動きではないな」
ノルンの目も紙へ落ちる。
「そうですね」
「一点を示しているなら、船を反対へ向けた時には、光が後ろを向くはずだ」
「はい」
「でも、そうならなかった」
「そうなの」
マルルが大きく頷く。
ハイラムは紙の上へいくつか矢印を書き込み、しばらくその図を眺めていた。
「何を基準に『前』になっているんだ……?」
「それが分からないんです」
ルカが答える。
「だから、その時は場所を探せなかった」
「なるほどな」
ハイラムの顔は、いつの間にか完全に研究者のものへ戻っていた。
「この動きも記録しておいた方がいい。ただし、今の段階で意味までは決めない方がいいな」
ノルンがハイラムを見る。
ハイラムもその視線を返した。
「何かを示していることと、それが何なのかは別だ」
「同感です」
二人がほとんど同時に頷く。
アリアはその顔を交互に見比べた。
「なんか似てるね」
「どこが?」
「ノルンとハイラムさん」
二人から、ほとんど同じタイミングで聞き返された。
今度はルカとエミールが笑った。
◇
「それから」
ハイラムは卓の端に置いていた紙へ目を向けた。
「昨日聞いた古い言葉だ」
「空の子?」
アリアが尋ねる。
「ああ」
『空の子は、境を見る』
その言葉だけを書き出した紙を、ハイラムは皆へ向けた。
「この『空の子』について、何か分かっているのか?」
「分かってないよ」
アリアが答える。
「わたしかもって言われてるけど」
「どうして君が出てくる?」
「アリアは天使だから」
ルカが言った。
ハイラムは改めてアリアを見る。
背中には確かに、小さな白い羽がある。
そこまでは昨日から見えていた。
「それだけか?」
「あと」
ルカが少し考えた。
「アリア、四歳の時に天界から人間界へ落ちてきたから」
「…………」
ハイラムの顔が止まった。
「天界から?」
「うん」
アリアが頷く。
「落ちたの」
「空からじゃなく?」
「お空だけど、天界だよ?」
「…………」
また来た。
昨日までは、喋る兎がいるだけだった。
今日は朝から、古い文字を自在に読む少女がいて、女神本人と何度も会話したと言われ、そのうえ目の前の六歳の少女は天界から落ちてきたのだという。
「本当に、とんでもないな……」
「また言った」
「言うだろ、これは」
ハイラムは両手で顔を擦った。
それでも、すぐに研究者の方が勝った。
「それで、天界から落ちた時のことは覚えているのか?」
「ちょっとだけ」
「何を?」
「先生がいた」
「先生?」
「飛ぶの教えてくれてた先生」
「その先生も一緒に落ちたのか?」
「ううん」
アリアは首を横へ振る。
「追いかけてきたけど、途中から来られなかったの」
ハイラムの動きが止まった。
ノルンも、すぐにアリアへ目を向ける。
「来られなかった?」
「うん」
「先生から、そう聞いたのですか?」
「前に聞いたよ。追いかけたけど、途中から先には行けなかったって」
ルカの猫耳が、すっと前へ向いた。
「先生って、アリアよりずっと飛ぶの上手だよね」
「すっごく上手だよ!」
「なのに、追いつけなかった」
「うん」
ノルンは何も言わなかった。
ハイラムも、すぐには言葉を出さなかった。
卓の上には、
『空の子は、境を見る』
という言葉がある。
そして目の前には、天界から人間界へ落ちてきたという少女がいる。
その少女を追いかけた天使は、途中から先へ進むことができなかった。
あまりにも、きれいにつなげたくなる材料だった。
だからこそ。
「まだ、決めない方がいいな」
先に言ったのはハイラムだった。
ノルンも小さく頷く。
「はい」
「何を?」
アリアが二人を見る。
「今の話が『境』と関係しているとは、まだ決まっていないということです」
「でも、似てる?」
「少し気にはなります」
ノルンは正直に答えた。
「ただ、気になることと、そうだと決めることは別です」
「また比べるの?」
「はい」
「いっぱい増えたね」
「増えましたね」
アリアは少し考え、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いっぱい調べる」
その返事を聞いて、ハイラムは思わず口元を緩めた。
この子たちは、分からないことが一つ増えるたびに、困るより先に「調べる」と言うらしい。
研究者としては、嫌いではなかった。
◇
昼が近づく頃には、写しを作ってもらう記録がひとまず決まった。
水辺に関するものや、月食との時期が比較できるもの。湖に奇妙な景色を見たという記録に、土地や人が別の場所へ移った可能性があるものまで、ハイラムは選んだ紙を一つの束にまとめ、紐を掛けた。
「写しができるまで、少し時間をくれ」
「何日くらい?」
「二、三日だな」
「待つ!」
「今すぐ欲しいって言うかと思った」
「言いたいけど、できてないもん」
「そこは分かるんだな」
「分かるよ?」
アリアが少しむっとする。
「それから、俺ももう一度ミレア湖の記録を洗い直す」
「ほんと?」
「ああ。昨日までとは条件が変わった」
「女神さま?」
「それもある」
ハイラムは、卓の上へ並んだものへ順番に視線を移した。
水や月食に関する記録。
故郷という言葉。
境。
満月の湖で見られた知らない景色。
方向を示すはずなのに、どちらへ船を向けても前へ伸びたという光。
そして、天界から人間界へ落ちてきた少女。
昨日までは、自分が集めてきた古い記録の中だけで考えていた。
けれど今日は、そこへ今まで知らなかった情報がいくつも加わっている。
「ただし、期待しすぎるなよ」
ハイラムがアリアを見る。
「うん?」
「材料が増えたからといって、全部が一つにつながるとは限らない。満月になれば必ず何かが分かるとも限らないし、その湖の向こうに君の家族が見えると決まったわけでもない」
アリアは一度だけ黙った。
それから、しっかり頷く。
「分かってる」
「そうか」
「でも、見てみる」
「ああ」
「調べてから」
「ああ」
「ちゃんと準備して」
「それならいい」
ハイラムは小さく笑った。
昨日、この店へ入ってきた時には、ただ町を見て回っている子どもたちだと思った。
喋る兎が一匹混じっていることを除けば、だが。
それが、たった一日で。
古い文字を当たり前のように読む少女がいると分かり、女神と直接話したことがあると言われ、村が土地ごと別の場所へ流されたという話を聞き、とうとう天界から落ちてきた天使までいることを知った。
「…………」
「ハイラムさん?」
「なんだ」
「また考えてる?」
「考えてる」
「何?」
ハイラムは少しだけ間を置いた。
「昨日までの俺の研究は、ずいぶん静かだったんだなと思ってる」
「静か?」
「ああ」
アリアは意味が分からないまま首を傾げた。
その隣では、ノルンが受け取る予定の資料へ視線を落とし、すでに次に何を確かめるべきか考え始めているようだった。
ハイラムはその横顔を見ながら、もう一度小さく息を吐く。
昨日まで何年も変わらなかった研究が、たった二日で急に騒がしくなった。
少なくとも、しばらく退屈することだけはなさそうだった。




