朝焼けのグラウンド
体育祭当日、朝の話です。
体育祭当日。
いつもより少しだけ早く目が覚めた。
白石美月は天井を見上げたまま、しばらく瞬きを繰り返した。
「……今日か。」
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、もう初夏の色をしている。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
枕元の時計を見る。
まだ、家族が起きるには少し早い時間。
なのに、目は冴えていた。
(緊張してるのかな。)
体育祭。
入学してから初めての大きな行事。
歓迎遠足は雨で終わってしまった。
ダンス練習もリレー練習も、まだ「準備」の時間だった。
でも今日は違う。
本番だ。
布団から起き上がり、深呼吸をする。
胸の奥が少しだけそわそわしていた。
◇
「いってきます。」
「楽しんでおいで。」
「うん。」
玄関を出る。
四月の朝は、思ったより涼しかった。
空は高く澄んでいて、雲ひとつない。
絶好の体育祭日和。
駅に向かう道にも、体操服姿の高校生たちがちらほら見える。
「おはよう!」
「あ、おはよー!」
「今日楽しみだね!」
「絶対写真撮ろうね!」
楽しそうな声。
白石は思わず笑った。
昨日までの緊張が、少しずつ期待に変わっていく。
◇
「眠い。」
神崎悠真は欠伸を噛み殺した。
「おはよー。」
「……朝から元気だな。」
「体育祭だよ?」
駅で合流した朝倉陽菜は、信じられないものを見るような顔をした。
「なんでそんなテンション低いの?」
「朝だから。」
「神崎って本当に変わらないよね。」
「そうか?」
「こういう日くらい浮かれなよ。」
「別に。」
「でも。」
陽菜は少し笑った。
「いつもより早く来てるじゃん。」
「遅刻したら面倒だから。」
「はいはい。」
神崎は答えなかった。
でも、少しだけ周囲を見回した。
体操服姿の生徒たち。
浮き足立った空気。
普段とは違う朝。
(……騒がしいな。)
そう思った。
だけど、不思議と嫌ではなかった。
◇
青峰高校。
校門をくぐった瞬間、いつもの景色が違って見えた。
グラウンドに並ぶ白いテント。
朝日に照らされる入場門。
校舎の窓には体育祭のスローガン。
放送席では、放送部がマイクの確認をしていた。
『あー、あー。本日は晴天なり。』
『聞こえる?』
『もうちょっと音量上げて!』
「なんか、本当に始まるんだね。」
「昨日までリハだったのに。」
「急に実感湧いてきた。」
あちこちからそんな声が聞こえる。
女子たちは写真を撮っていた。
「こっち向いて!」
「ピース!」
「待って、撮り直し!」
男子たちは。
「眠い。」
「腹減った。」
「でも楽しみ。」
「分かる。」
そんなことを言いながら笑っていた。
◇
「白石さん!」
「おはよう!」
「おはよう。」
女子たちの輪に入る。
「今日絶対優勝したい!」
「無理無理。」
「でも一組結構強いよね。」
「神崎くんいるし。」
「あー、足速そう。」
「あとダンスの白石さん。」
「え?」
「期待してる!」
「そんな……。」
白石は困ったように笑った。
「頑張るね。」
「うん!」
その時。
「神崎ー!」
「お前ちゃんと来てたんだな!」
「失礼だな。」
少し離れたところから男子たちの笑い声が聞こえた。
白石はついそちらを見る。
神崎がいた。
いつも通りの表情。
でも。
「神崎くん、全員リレー頼んだ!」
「期待してる!」
「無理。」
「即答!」
男子たちと話していた。
そして。
「神崎、おはよう!」
「おはよう。」
クラスの女子にも、普通に返事をしていた。
それは特別なことじゃない。
同じクラスだから。
普通の会話。
普通のやり取り。
それなのに。
(……あれ?)
胸の奥が少しだけ引っかかった。
(なんだろ。)
別に変なことじゃない。
神崎は誰とでも普通に話す。
白石とだけ話すわけじゃない。
当たり前のことだ。
(……うん。)
なのに。
ほんの少しだけ。
もやもやした。
「白石さん?」
「え?」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。」
「緊張してる?」
「そうかも。」
白石は笑って誤魔化した。
胸の違和感には気づかないふりをした。
◇
「一年一組、集合!」
担任の声。
クラスメイトたちが集まる。
「怪我だけはするなよ。」
「はい!」
「楽しんでこい!」
「はーい!」
返事は昨日よりずっと大きかった。
緊張。
期待。
高揚感。
全部が混ざっている。
グラウンドには全校生徒が並び始めていた。
太陽は少しずつ高くなる。
空はどこまでも青い。
吹き抜ける風はまだ涼しくて。
でも、その空気の中には確かに熱があった。
『それでは、青峰高校体育祭を開始します。』
放送席から声が響く。
一瞬の静寂。
そして。
大きな拍手。
歓声。
笑い声。
そのすべてが、初夏の空へと溶けていった。
高校生活最初の体育祭。
特別な一日が、今、始まる。
そしてまだ誰も知らない。
この一日が、白石美月にとって「ただの行事」では終わらないことを。
――それを知るのは、もう少し先のことだった。




