79.九州のキリシタン。
(永禄5年 (1562年)2月下旬~3月上旬)
よっしゃあ~、良くやった。
俺は飛び上がって小躍りをしたいほど嬉しかった。
もう龍造寺-隆信の名を永遠に忘れないだろう。
馬鹿だ。馬鹿だ。世情を無視する無法者と思っていたが褒めてやる。
隆信がフランシスコ・カブラル司祭を説得してイスパニア艦隊に助けを求めて、一緒に平戸を去ってくれた。
フランシスコ・カブラル司祭、隆信よ。
フォーエヴァ!?
フランシスコ・カブラル司祭は元軍人らしいが、軍才はまったくなかったのか、修道士に道を変えた。
名将は『兵站』を語り、素人は『戦略』を語ると言うが、カブラル司祭は素人だった。
軍人と修道士としての才能は違う。
修道士としては優秀だから司祭になれたのだろう。
無能ではないのだろうが、この日の本では通じない。
フランシスコ・カブラル司祭は、幕府軍から逃げて来た教徒が日々増えるのを見て喜んだ。
戦はまったく素人だ。
その数で幕府軍に勝てると思ったのだ。
南肥前に集中した幕府軍は名護屋を手薄にしている。
幕府軍の背後を襲えば、あるいは留守の名護屋を強襲すればと、様々な戦略を考えては実行しようとして失敗した。
俺が到着した時点で追加の鉄砲隊と迫撃砲隊も連れて来た。
当然、黒鍬衆も引き連れている。
艦艇も増えて死角はない。
何故、そう考えないのか不思議な事だ。
さて、隆信は追っ手を振り切る為に長島街道を避けて、藤津郡の手前から国見岳近くにある栗ノ木峠を越えて佐世保に抜ける山道を使った。 (国道498号線の旧ルートの1つ)
最初に逃げたのに、避難民より後になるとは此れ如何に?
だが、そんなモノだ。
隆信の首を差し出せば、幕府軍に媚びを売れる。
力で味方にさせた者など信用ならない。
誰が敵になるか判らない。
堂々と関所を通ろうとするのは、底の抜けた大器か、大馬鹿者に違いない。
隆信は関所を避けて平戸を目指した。
用心深かった。
佐嘉から平戸まで26里 (100km)くらいあるので徒歩なら3日は掛かる。
長蛇の列の上、所々に関所がある。
避難民から銭を取る馬鹿はいないが対応が遅れる度に交通渋滞が起こり、佐嘉と藤津の避難民が平戸に入るのに7日から10日も要し、次の高来や彼杵の避難民が続いている。
腹を空かせた避難民はいつ暴徒化するか判らない。
平戸の教会にも、松浦家にもそんな大量の食糧の備蓄などなかった。
フランシスコ・カブラル司祭は『無ければ、敵から奪えば良い』と言って、味方を鼓舞した。
どこの食糧を襲う気だ?
伊万里を目指した軍の進路上に艦砲射撃を食らわせて追い返した後だぞ。
山を越えて伊万里を目指すのか?
中々に愉快な発想をする方だった。
平戸という名の独房に閉じ込められ、飢えて死ぬのを待つ処刑場に替わった事に気づかない。
通訳の草 (忍び)を通じて宣教師にそれとなく伝え、宣教師や修道士がフランシスコ・カブラル司祭に教えても聞く気を持たない。
自らの作戦に心酔して他の事が目に入らない愚将なのか?
戦う事しか考えない脳筋なのか?
只々、引く事を知らない馬鹿なのか?
いずれかは知らなかったが平戸で鼓舞し続けた。
龍造寺軍が敗れた時点で逃げるのが普通だろう?
集まってくる避難民を見て喜ぶなよ。
俺はその報告を聞いて焦った。
このままでは5万人の殉教者を作り、フランシスコ・カブラル司祭は『聖人』と讃えられ、俺は『悪魔』の烙印が付く。
しかもイスパニア艦隊を誘き寄せるという戦略が崩れ、無駄な時間と労力を費やした事になる。
単なる時間の無駄。
完全な戦略的な破綻だ。
そこに天使が舞い降りた。
隆信はそれを見事に説得して平戸から追い出してくれた。
今回ばかりは神 (隆信)に感謝だ。
これでキリシタンを懐柔する交渉に入れる。
イスパニア艦隊の誘き寄せは、すでに艦隊が呂宋を出航していれば、無駄な作戦になるが保険を掛けておいて損はない。
勝つ戦いより負けない戦略を評価する。
だが、全体では物足りない。
龍造寺軍の先鋒から刈った8,000人の首を平戸に送り、伊万里も多久も佐嘉なども皆殺しにしたと喧伝して脅した方が早かったのではないか?
直接に平戸を攻めるので最低3日で済んでしまう。
12日も費やしたのは完全な戦略的なミスだ。
まだ、後始末の集めたキリシタンと交渉する手間が残っている。
あと、どれだけの日数を使うか判らない。
この策の致命的な失敗は逃げるかどうかの判断を敵に託した事だ。
最初から平戸の宣教師を唆して、フランシスコ・カブラル司祭を無理矢理に国外に追い出す策を考えていなかったのだ。
作戦を立案した時点で松浦-隆信を調略するとか手があっただろう。
詰めが甘い。
小一郎も胤治も官兵衛も赤点だ。
◇◇
キリシタンの叛乱は博多周辺以外では大きいモノはなかった。
確かにキリシタンを挑発する為に逃がされたフランシスコ・カブラル司祭は思惑通りに手紙を書いて各地を焚きつけてくれた。
効果は覿面であったが、博多以外はキリシタンの数が少な過ぎたのだ。
暴動が起こってもすぐに鎮圧できる規模だった。
「官兵衛がこの事を予測して立案したならば、わたくしはこの席を官兵衛に譲りたいと思います」
「そんな訳あるか」
「そうでございますね。キリシタンの数はおおよそ把握していたようですが、それに追随する者の対応が遅れておりました」
「俺もそこは考えていなかった」
「若様はそもそも賽子を振りません」
「そんな事はない。一度だけ振った事があるぞ」
俺は義元との戦いで懲りたのだ。
あれは若気の至りだ。
二度と賽子を振りたくないし、用心しても信玄や謙信といった斜め上を行く策を考える奴がいる。
欲をかけば、俺は死んでいたかもしれない。
義元に感謝だ。
千代女は官兵衛の読みの甘さを批判した。
「肥前はともかく、府内に博多とよくこれだけのキリシタンが増えたモノだ」
「わたくしは不思議とは思いません」
「そうか!?」
「すでに経験済みです」
フランシスコ・ザビエルは日の本に来日したが、当初は失敗続きだった。
布教の許しすら貰えていない。
周防国・長門国を本拠とした大内-義隆に好かれて、布教を許されるまで何も始まっていなかった。
ザビエルは反省したのか、義隆に献上品を差し出した。
献上した品は時計や眼鏡、鏡、ガラスの器、オルゴール、望遠鏡などの13品目だ。
中でも義隆が気に入ったのが、珍陀酒(葡萄酒)だった。
義隆にも「男色家は豚にも劣る卑しい行いだ」と言ったという逸話が残っているが怪しい。
薩摩の失敗を二度繰り返したとは思えない。
濁酒に比べれば、珍陀酒は洗練された酒である。
雅な義隆の心を捕えたのだろう。
兄上(信長)や宗麟ならば、時計や望遠鏡に魅了されただろう。
どちらも織田家では最重要機密の1つだ。
土産の献上品に差し出すなどあり得ない。
精々、眼鏡くらいが献上品にできる。
「薩摩で交易ができるようになった理由の1つに羅牟比岐がありました」
「実に薩摩らしい理由だ」
「羅牟比岐、正式な名称は『兜釜式焼酎蒸留器』と言うそうです」
「道理で薩摩にも蒸留器があった訳だ」
以前にも話したが、薩摩には蒸留酒があった。
その製造方法が羅牟比岐だった。
下の熱した釜で酒を蒸発させ、上に置いた水入りの蓋で冷やされて落ちてくる。
それを集めて蒸留酒を造った。
薩摩から俺への献上品の1つに磁器製の羅牟比岐を持って来た。
元々は銅製だったらしいが銅の値は高い。
そこで工夫して焼き窯で焼いて陶器製を造ったようだ。
「その話はもうよいではありませんか?」
「そうだな」
「千代はどこで信徒が増えるのを知ったのだ」
「それは若様です」
俺だと?
俺が麒麟児で名を馳せ始めると、祖父の本家である大喜五郎丸が熱田神社で宮司を務める千秋家と話し合って神官にする事に決めた。
俺を熱田明神の生まれ代わりと持ち上げたのだ。
父上 (故信秀)へのご機嫌取りだ。
俺は石鹸に始まり、家庭の医学書、酒 (消毒用の蒸留酒)、うどん、味噌、しょうゆ、ローマンコンクリート、清酒と立て続けに異才を発揮した。
寒い、暑い、不清潔ではいつ死んでも可笑しくない。
生活改善の為には仕方なかった。
無償の労働力を得る為に川などにいた穢多、非人、河原者と呼ばれる乞食らを囲った。
家と食事を与えるだけで労働力は無償だ。
子供に教育を施せば、こちらも無償のマイ商人とマイ技術者が手に入る。
千代女には歩き巫女を作らせた。
村人の支持を得る為に餅を配り、抱っこ紐(吊り紐)を使った投石を教え、肉を食べる習慣を施し、病人が居ればわずかばかりの葛根湯などを配った。
気が付くと、誰からも熱田明神と呼ばれるようになった。
「熱田神社は古くから商売もしていたので、寺院との付き合いも古かったのです」
「それは承知している」
「熱田の寺々も若様の評判の良さのため、問題が起こりました」
「そんな事があったのか?」
「はい。そこですべての寺に熱田神社の分社を建て、宮司の配慮で熱田明神のお札を売れるようにしました。さらに、門外不出の『家庭の医学書』の写本を許したそうです。加持・祈祷の横で治療を行うと生還率が上がり、寺も大いに面目が立った訳です」
「分社があるのは知っていたが、その話は初めて聞いたぞ」
「そうでございましたか。わたくしはわずか3年で熱田の民をすべて信者にした若様のお力を見たのです」
成る程。
神社の氏子も寺の檀家も俺の信者だったのか。
今更、知ってしまった。
そんな感じはしていたが、実際にそうだとは知らなかった。
あぁ、判った気がした。
キリシタンは畿内で増えていない。
堺や京で教会を建てて布教はやっており、洗礼を受けた者は増えている。
対して安息日と呼ばれる日に教会を訪れるキリシタンの数は数える程らしい。
神社の縁日などで人が溢れるのと対照的だ。
つまり、有力者と知識人ほど南蛮人の珍しい品と知識を欲するが貧困層に広がっていない。
畿内では尾張を真似て各所で炊き出しが行われる。
土木作業も絶える事なく続き、働きたい者は働ける。
子供は寺子屋で勉強と給食が与えられて飢えている者が少ない。
現状に不満がある者くらいがキリシタンに入信する。
「極め付けは疫病で若様のお慈悲に感謝されている事です。畿内の寺や神社には次々と熱田神社の分社が建っております。キリシタンに入信するのは愚か者か、逆恨みした者くらいです」
「逆恨み?」
「俺の妻を助けてくれなかった。私の子供を返してなどと喚く愚か者です」
「事実だろう。俺は隔離しただけで助ける気はなかったぞ」
「雨風を凌ぐ場所を与え、清潔な衣服と三食の食事を出しただけで感謝されるのは当然でございます。死ぬ所を助かった者も多くいます。若様の知識とお慈悲がなければ、滅んだ村も多かったでしょう」
俺の認識と民の認識では大きな隔たりがあったみたいだ。
付け加えるならば、ルイス・デ・アルメイダ司祭が堺の診療所で働いて学んでいる。
京で外科手術を見て感動し、京の診療所で学びたいと言ってきた。
京の診療所は出産する妻の為に万が一を考えて魔改造を施した。
秘密の塊になったので雇えない。
初等科の学校や神学校に入れる訳にもいかないので堺の診療所に預けた。
司祭がこれだからキリシタンが増える訳もない。
「しかし、ロレンソ了斎や結城-忠正や高山-図書などの共感する者を増やしております」
「確かに畿内でキリシタンはそれほど増えないが、仲間は増やしている感じだな」
「脅威ではありませんが監視は付けてあります」
「そう言えば、忘れていたが、交渉役で送った図書はどうなっている?」
「初日に光秀が捕えて牢に入れました。幕府転覆は冤罪と判りましたが自室で謹慎させられております」
「キリシタンだから自由にはさせられんな」
一方、九州のキリシタンはこんな感じだ。
フランシスコ・ザビエルに代わりにやって来たバルタザル・ガーゴ神父らは大友家からの援助を受けて土地などを貰うと教会を建て、そこを拠点に貧しい民に施し、病で見捨てられた者を保護し、神に祈ると天国に行けると説いた。
神 (天照大神)に祈ると天国に行けるのだ。
受け入れやすい。
また、宣教師らは南蛮の珍しい品を領主や大商人に譲ったり、商売を斡旋したのでキリスト教を支持する領主が増えた。
炊き出しや貧しい者の治療を行った為か、府内だけでもキリシタンの数は増えた。
大名の宗麟が洗礼を受けると一気に膨らんだ。
府内と博多のキリシタンは一万人以上だ。
寺院や神社も焦っただろう。
寺院は門徒を奪われ、神社は氏子を失った。
このまま放置はできない。
「若様のように分社という妥協点がございません」
「寺同士でも宗派が違えば争う。いくらキリスト神と天照大神が同一神と説いても対決は免れない」
「はい。宣教師の神のみが絶対神であり、その他の神・仏を認めません」
「しかも、俺が邪教認定されてからは神社の教えも歪められていると言い出したからな」
「唯一無二にして絶対と言えば、争うしかありません」
大友家や龍造寺家に押さえつけられて仲裁、あるいは、叩き潰された寺社らは幕府のお墨付きを貰って反撃に転じた。
当然のようにキリシタンを村八分にして弾圧が始まる。
人目を避けて襲ったり、祟りと称して毒殺したり、野盗を装って金品を盗み、家に火を付けるなど悪行の限りを尽くした。
これでは神も仏もあったモノじゃない。
悪党神官と生臭坊主だ。
氏子と門徒を奪われた恨みをここぞと晴らした。
「キリシタンが暴動を起こすのでなく、僧侶に唆された領主も騒動を起こしました」
「後で罰せられると思わんのか?」
「理解していないでしょう」
「不毛な争いだ」
「まったくでございます」
大友家が仲裁をする前もキリシタンが増え出した頃に日照りや祟りなどの悪い事が起これば、キリシタンの責任にして集団暴行など起こっていた。
そんな彼らが誘導し、一箇所に隔離された時点でキリシタンの不安が天井に達していたのだろう。
罵倒1つでキリシタンが殺される。
切っ掛けがあれば各所で虐殺が起こった。
神仏を支持する領主は見て見ぬふりをするが、キリスト教を支持する領主は彼らを取り締まる。
フランシスコ・カブラル司祭の激文で『キリシタンを根絶やしにするつもりだ。立て同胞よ』と言う文章に真実味が増して、一度火が付くと瞬く間に火の手が上がった。
「輝ノ介がすべてキリシタンを隔離しろと無茶な命令を出したからです」
「確かにな」
「一箇所に集められた上に柵で囲われて、家の周りに薪を並べられれば、身の危険を感じて暴動を起こす者が現れるのは当然です」
「油まで撒いた馬鹿もいたみたいだ。本気で最初から殺すつもりの奴もいたかもしれない」
「どこまで愚かなのでしょうか」
「だから、そういう奴らは日の本から追い出すのだ」
「根絶やしにしても良いのに若様はお優しい」
博多の激震は大友家に与した属国で一気に燃え広がった。
特にキリシタンの多い所は肥前、豊後、筑前の三か所だ。
豊後の府内から日田往還を通って筑前の博多、筑前の小倉から長崎街道を通って肥前の佐嘉と長崎が特に多い。
肥前においては強制的に改宗させたので、自ら進んで洗礼を受けた者の数に対して、仕方なくキリシタンになった数が桁違いに多かった。
所謂、中身は仏教徒の儘の『なんちゃってキリシタン』だ。
一方、豊後の府内では、バルタザル・ガーゴ司祭が冷静を保つようにしたので大きな暴動にならなかったが、むしろ豊後の地方で小さな騒ぎが起こった。
小さな騒ぎは豊前や筑後や肥後でも起こったが、大した問題ではなかった。
領主同士の争いの方が問題だった。
それに乗じて反大友派の者が暴れ出し、キリシタン擁護派の領主を襲って大混乱になった。
ドサクサに紛れて大友派の領主を始末しようとした。
「その手柄で領主に返り咲くつもりだったのでしょう」
「騒動を起こした奴らを俺が取り立てるのか?」
「あり得ませんが、そう考えたのです」
「宗麟も大概な苦労をしてそうだな」
「かもしれません。此度も宗麟は不安になっていると思われます。そろそろお会いになって上げては如何ですか?」
あぁ…………忘れていた。
キリシタンの人数はバルタザル・ガーゴ神父がフランシスコ・ザビエルに代わりに日本に派遣され、拠点を豊後の府内で活動した。
そして、宗麟に土地を提供されてキリシタンノコト タイウスドウ ケントク寺と教会を建てました。
1年ほどで500~600人、2年後の弘治元年(1555年)には1,500人の信者を獲得したとあります。
それまで布教の中心地であった山口が戦乱となり、拠点が府内にトルレス、ガーゴ、ヴィレラの3人の神父とアルメイダら6名の修道士、合わせて9名が揃ったようです。
1560年代に入ると、豊後のキリシタンの人数は2500人程度で頭打ちしたようで、肥前地方に宣教師らは力を注いだようで、豊後の司祭が一人になりました。
しかし、1575年に宗麟の次男親家がセバスチャンの名で洗礼を受けたのを切っ掛けに再び豊後が注目を集めます。
どうやら武器の買い付けが盛んになってきたようで、3年後の1578年には宗麟が臼杵の教会でカブラル神父からフランシスコの洗礼名で洗礼を受けました。
2500人程度で頭打ちしていたキリシタンが1580年に1万人を超え、1586年には3万人を超えたと報告が残っております。
大名がキリシタンになるのは、それほどインパクトが大きかった事が伺えます。
な1604年頃(関ヶ原の後)、細川忠興が小倉藩主として入部した記録の様ですが、小倉の人口が6000名から7000名で、そのうち信者は2000名と3割に達しております。
これを多いと見るか、半世紀で3割にしか達していないので少ないと考えるかが難しい所です。
ただ、フランシスコ・ザビエル師鹿児島到着後、
鹿児島ー平戸ー博多ー山口ー堺ー京都ー平戸ー山口ー府内(大分)
と辿っております。
その間に150人の洗礼をしたとありますので、各地にキリスト教の種を落としていたのは間違いないでしょう。
私の推測ですが、南蛮の珍しい品を求めた知識層と土地からも見捨てられた貧困層を取り込んでキリシタンを増やしていたと思われます。
小説では、10年の猶予はありませんでしたので豊後は1万人、博多周辺を中心に筑前も1万人、豊前、筑後、肥後は5,000人、日向は3,000人としました。
肥前は寺院を壊して、無理矢理に改宗を強制させたので約10万人としております。
平戸の5万人もキリシタンが集まったのかと思われるかもしれませんが、強制的にキリシタンにされたとしても、幕府に殺されるかもしれないと思えば、それくらいは逃げても可笑しくないとしました。
最初の設定では、語呂がいいので10万人のキリシタンと書いてありましたが、調べてみるとちょっと無理があると思い減らした次第です。




