閑話.イスパニア艦隊の出撃。
新茶競争と言えば聞こえは良いが喜望峰航路では毎年のように難破する船が続出した。
この喜望峰はバーソロミュー=ディアスが発見した事から『ディアス岬』と呼ばれるが、別名が『嵐の岬』と呼ばれ、嵐の中にいる間に喜望峰を通過していたなどという事が度々あったらしい。
喜望峰を回ると、その行く先で航海日数が少なくとも10日、場合によっては航海距離が数千キロも違った。
最新鋭のキャラック船が中古の小型キャラック船に負ける。
そんな大穴も度々あった。
命を削ってお茶を仕入れる商人も要れば、その商人に全財産を掛けて博打に興じる馬鹿もおり、誰が勝つか判らない競争にヨーロッパの人々は熱狂した。
船が多くなれば、港が増える。
借款と言う名の『借地』が増え、入居した西洋人が誰の持ち物でもない新たな土地を発見して奪い取って行った。
こうしてさらに沢山の港が建造されて喜望峰航路が開花し、航海技術が発展し、航程が縮まっていった。
歴史の針を一世紀は進めてしまったのではないだろうか?
その原因の信照は、何も知らずに暢気にお茶を呑んでいたに違いない。
◇◇◇
(永禄5年 (1562年)1月下旬~3月下旬)
呂宋府の一室で司令官代理であるジャナンドレア・ドーリアは頭を抱えていた。
喜望峰航路を回ったポルトガル商船より10日ほど早くイスパニア王フェリペ2世の書簡が届けられたのだ。
参謀のミゲル・ロペス・デ・レガスピがお茶を差し出し、呑もうとした瞬間に腕が止まった。
中国産の茶色い茶でなく、日の本産の緑の緑茶だった。
「博多で買った屑茶と呼ばれる安物で申し訳ございません」
「そんな事を言っているのではない」
「こんな屑茶でもリスボンに持って行けば、一杯が銀貨一枚です」
「嫌味な奴だ」
「お茶に罪はありません」
「ある。この茶の為にここまで来る事になった」
「成る程。そうかもしれません」
参謀のレガスピが驚いた顔で新しい発見を喜んだ。
こんな状態でも喜べるのは才能だとジャナンドレアは思った。
だが、一緒に笑う気に為れない。
提督のアンドレス・デ・ウルダネータが入室の許可を求めてきたので許可する。
「司令官代理、出航の準備とその他の提督に参集の命令を出してきました」
「悪い。手間を掛けます」
「参謀をレガスピに押し付けたのです。罪滅ぼしにこの程度はやります」
「助かっております」
「気になさらず」
ウルダネータは最長年者であると同時に、マゼラン・ロアイサ遠征隊に参加して、2度の世界一周を達成した生き残りだ。
ヌエバ・エスパーニャ第二代副王ルイス・デ・ベラスコ・イ・ルイス・デ・アラルコンに命じられて、呂宋島の先遣隊として先にやって来た。
さらに何度も琉球まで行って航路を確保した。
丁度良い海流 (黒潮)を発見し、琉球まで10日ほどで行ける事が判った。
帰りは逆に少し遠回りした方が良い事も判った。
その折、琉球で知り合った宣教師に紛れて博多まで茶を買ってきた変わり者でもある。
数人の部下と修道士に化けて敵国に潜入する度胸に驚く事しかできない。
そして、ウルダネータは博多を『東洋のリスボン』(敵国のリスボン)と揶揄した。
博多周辺だけで3万人を超える都市であった。
その頃に大友・竜造寺連合軍と毛利軍が戦っており、その規模は数万人である。
文化はリスボンと称したように高く、敵も味方も帆船と鉄砲など所有しており、それを使い熟す。
兵の数が多いだけでなく、士気が高く、その上に個人も強い。
イスパニア艦隊の上陸部隊1万人程度では、どうしようもないと結論付けた張本人である。
攻略拠点の1つとして、考えた琉球でも数万人の人口があった。
琉球を捕れば、同盟国の日の本が襲ってくる。
襲われながら拠点造りもできないので、弾薬や食糧の補給が維持できない事が早々に見えた。
つまり、琉球ですら海戦に勝っても占領する兵が足りない。
その事を本国に報告するとアルバ公は話の判る方であり、海戦の後にこちらに有利な条約を結ぶ事で妥協して頂いた。
日の本と何らかの条約を結ぶ。
それで話が決着した頃、ジャナンドレアの養父アンドレア・ドーリアが死去したのだ。
アンドレアはジェノヴァ共和国の名家ドーリア家の出身であり、ドーリア一族は傭兵業を生業としていた。
フランス海軍に入って活躍したが余り高い評価を得ず、神聖ローマ帝国カール5世に誘われてイスパニアの海軍提督になって数々の戦果を上げた。
今回、極東にある日の本討伐の司令官に任命され、才能豊かな又甥のジャナンドレアを養子に迎えて副官とした。
ジャナンドレアの才覚で幾つかの困難を乗り越えた。
「司令官代理が居なかったら、討伐隊はマゼラン海峡に消えていたと言うのに…………」
「無理を言うな。ペドロ・メネンデス・デ・アビレス提督にはそれが判らんのだ」
「ウルダネータ様。それが判らぬ者が提督なのですか?」
「判らぬのではない。判りたくないのだ。王に進言した事があるという自尊心。古い貴族にありがちな傲慢さだな」
艦隊を送る最大の困難は南アメリカ南端のマゼラン海峡だ。
すでにフェルディナンド・マゼランやフランシスコ・ホセ・ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサという探検家が航路を確立していたが、寄港地の少なさから兵の損耗が疑われた。
そこでジャナンドレアはマゼラン、及び、ロアイサの探検にも参加した生き残りのウルダネータを参謀に求めた。
ウルダネータは難色を示して代わりにレガスピを推薦して断ったが、結局は第2代ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコ・イ・ルイス・デ・アラルコンの命令で提督にされて先発隊を率いた。
ジャナンドレアは推薦されたレガスピを参謀に迎え、マゼランの探検で見習い水夫だったフアン・デ・スビレタ、フアン・デ・アラティアらを船長に加えた。
彼らの知恵を借りてベラクルス港で兵士を降ろし、メキシコシティーを通って陸路でアカプルコに輸送し、身軽になった船団は南アメリカ南端のマゼラン海峡を越えて、アカプルコで再び兵士を乗せた。
こうして、ジャナンドレアは船員や兵士の損耗を極力さけるという妙案で乗り切った。
そこまでしても呂宋に到着できた生存者は5割であり、ジャナンドレアの才覚を評価する者としない者は真っ二つに割れた。
兵士を乗せてマゼラン海峡を通過していれば、全滅の危機だったのだ。
予定通り、呂宋島周辺を占領して食糧の供出を求めたが、兵6,000人分の食糧を集める事は無理だった。
ジャナンドレアは澳門のポルトガル商人から銀で食糧を購入するという鬼手を使った。
『ポルトガルに頼るとは情けない』
そういう評価もあったが、中南米のヌエバ・エスパーニャ副王領から太平洋を隔てて食糧と兵の補充を供給し続けるのが困難である事は明らかであった。
輸送船団が嵐で遅れると食糧難が襲ってくる。
船を各地に分散して略奪の限りを行うか、餓死を目の前にして撤退するしかなかった。
妙案としか言えない。
これで食糧を確保し、港の整備と船の補修、新兵の訓練などを行いながら兵士の補充を待った。
琉球まで偵察艦を送り、航路の確保と日の本の情報を集めたが、集めれば集めるほど上陸部隊の兵の少なさに不安を覚えた。
宣教師らを使って明国や周辺国の援助を求めていても良い返事をする国は1つもなく、この呂宋島周辺を開発・開拓して、橋頭保とする事が最も現実的な解決策であったが本国は許可してくれない。
『討伐軍であって、開拓軍でない』
イスパニア王フェリペ2世の無茶な命令もアルバ公の機転で日の本との条約締結で良いという判断で解決した。
だがしかし、イスパニア本土と呂宋との距離は遠く、1つの提案の是非を決めるのに往復一年も有した。
各提督は訓練と称して呂宋島周辺のさらに外側の占領を進めた。
それで弾薬が減って、本国に弾や火薬の補充を頼む事になる。
そうこうしている内にアンドレア・ドーリア司令官が亡くなり、副官のジャナンドレアが司令官代理となった。
だが、その決定に各提督が納得しない。
命令を聞かせる為には、イスパニア王フェリペ2世に許可を貰わねばならない。
再び、もう一年の無駄な時を過ごした。
こうして去年の秋に来年の夏には残りの補充兵と大型ガレオン船5隻と通常船5隻の計10隻の艦隊を率いさせて新しい司令官を送ると返事が返って来た。
候補者の一人は、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼとも聞かされた。
母方は庶子であるが神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の娘であり、イスパニア王の甥になる。
ブリュッセルから呼び戻して、今回の戦で『茶王』の箔を付けようと言うのだ。
勝った後を考えるより、勝つ事を考えて欲しいとジャナンドレアはウンザリとした顔で報告を聞いたが、17歳の若造は傀儡に過ぎず、それでいてペドロ達の提督を黙らせる事ができる筈であった。
アルバ公はパルマ公を餌に大量の兵と物資を運ぶ口実にしたのかもしれないと考えた。
しかし、その話は白紙になった。
先程 (1月下旬)、イスパニア王の書簡が届き、直ちに日の本を攻めろと命じられた。
正式に司令官代理を命じられた事が幸いだったのだろうか?
ジャナンドレアは溜息を吐きながら参謀のレガスピに聞いた。
「提督らは俺の命令に従うだろうか?」
「此度は勅命ですので従わない訳にはいかないでしょう。一先ずは従ってくれるのでないでしょうか」
「そうか、従ってくれるのか」
「問題は遅延ですな」
「判っている。今、使える艦艇数は?」
「20隻です。10日もあれば出航できます。しかし、食糧の補給が儘なりません」
「それには策がある」
ジャナンドレアの策は各艦隊へ運ぶ補給艦5隻を澳門に派遣し、そこで直接食糧を買い付けさせる策を披露した。
さらに、500トン級5隻 (2500トン)分の船を借り付けて、その船で食糧を運ばせる。
「補給は琉球の海上で行う。買い付け価格は倍。船は半年間の借り付け契約を結び、戦争が長期化した場合は追加の料金を払うと言えば、引き受ける船もあるだろう」
「なるほど、澳門と琉球の間のみならば、引き受ける者もいるでしょう」
「だが、弾頭と弾薬は補充できない。これはヌエバ・エスパーニャ副王に頼むしかない」
「どの当たりを妥協点に致しますか?」
「琉球をイスパニア領と認め、交易はイスパニアと優先し、尚且つ、税の免除だ」
参謀のレガスピと提督のウルダネータが頷いた。
だが、万全を期すには、各島に散った提督を戻す必要があった。
各提督が訓練と称して、各島に略奪、あるいは、占領しに向かっていた。
長い目で見れば、地元の島民を支配して奴隷などを連れてきて開拓するのが一番であったので、イスパニア王に否定された後も訓練として占領地を拡大していた。
戦争が終われば、褒美として占領した島を賜る可能性が高い。
提督とその部下も真剣だった。
「すべて戻るのはいつ頃になるか?」
「ペドロ・メネンデス・デ・アビレスはチャモロ (高貴)島に行っており、新たな島名もグアム (我が物)と決めております」
「ペドロはセム島ではなかったのか?」
「セム島は部下に任せて、私の担当であるチャモロ諸島を奪う気でしょう」
「戦後、レガスピが欲しいと言っていた島だな」
「日の本を捕れば、航行の要所となると思っておりました」
「仕方ない。話し合おう」
「些細な事です。後にしましょう」
「それですべての艦隊を戻すと、どれくらいになるか?」
ウルダネータが申し訳なさそうに少し頭を下げた。
航路の安全を確保する為にニューギニア島方面に寄港地を増やしに艦隊を送ったのだ。
すべてが戻るのを待つと1ヶ月を必要とした。
ジャナンドレアは悩んだ。
この時、すぐに出航できる20隻で琉球を目指せば、2月上旬に琉球に到着して2月中旬に最初の占領目的地であった博多に到着する事ができた。
つまり、肥前騒動の真っ只中にイスパニア艦隊20隻が到着する。
幕府軍はキリシタンとイスパニア艦隊の両面作戦を余儀なくされ、当然の事ながら、その報告を信照は京で聞く事になる。
日の本とイスパニアの天秤が大きく揺れた瞬間であった。
どうなるのかは『神のみぞ知る』としか言いようがない。
「20隻か。ウルダネータはどう思うか?」
「織田家の水軍は小さい船で6門しか大砲を装備しておりませんが、20隻ほどは所有している様子です」
「アロンソ・ペレス・デ・グスマンのイスパニア艦隊は、その一隻に負けたのだな」
「こちらも排水量が200トン級の小さな船でしたが、それも大砲を20門は備えてありました」
「最新艦は何隻が残っている?」
「3隻でございます」
「他は普通のガレオン船17隻か、少ないな」
「キャラック船を含めれば、30隻にできますが…………」
「それは駄目だ。5隻は琉球で睨みを利かせ、残る5隻と交替で澳門との食糧輸送を担当して貰う」
ジャナンドレアは悩んだ末に全軍を再結集してから攻める事を決めた。
そして、再結集に1ヶ月と少しを要した。
2月下旬になると呂宋に近づく怪しいポルトガル船を拿捕し、その船からフランシスコ・カブラル司祭と龍造寺-隆信が降りて来た。
カブラル司祭はキリシタンの救援を求め、九州王を名乗る隆信は九州奪回の協力を求めた。
「九州を奪還した暁には、それ相応の領地をお与え致します」
キリシタン5万人、龍造寺軍5万人の協力と援助を約束してくれた。
最大の弱点であった兵力が整った。
琉球をイスパニア領に求める要求を九州全土に変更できる手札が転がり込んだ。
強欲ばりペドロ・メネンデス・デ・アビレス提督らも10万人の領民を有する領地を約束すると言われれば、やる気も出て来た。
「巧くすれば、侯爵の地位が貰えるかもしれん」
「いやいや、10万人となれば、副王に任命されるかもしれませんぞ」
「石見銀山もくれると言う」
「石見?」
「新大陸に負けぬほどの銀を産出する銀山だそうだ」
「そのような銀山を?」
「九州の隣の国らしく。奪えば、好きにして良いそうだ。もちろん、陸軍を貸してくれる」
「それは素晴らしい」
日の本と戦えば、戦艦を失うかもしれないと後ろ向きだった提督達もやる気になった。
奇跡だ。
ジャナンドレアはどうやって日の本に付いてくるのを承知させようかと思っていた悩みが消えた。
相も変わらず、命令には従順ではないが、先陣を競うくらいなのでやり様はあった。
また、幕府が建造中の名護屋港の情報も得た。
博多の次に、ここを奪えば、拠点としてすぐに使えると判った事が嬉しかった。
食糧、兵士、拠点作り。
そのすべてが解決したのだ。
待った判断は正しかった。
ジャナンドレアは神に感謝した。
『おぉ、神よ。感謝致します』
無用の感謝だった。
すでに勝機を失っていたのだ。
兵は神速を貴ぶと言うが、今回は正にそれだった。
尾張から援軍が到着し、キリシタンの平戸隔離も終わった。
20隻の小型の連絡船 (ヨット型の小型帆船)を索敵船として利用し、九州から琉球方面を巡回させる配置も終わっていたのだ。
さらに坊津を起点に種子島、屋久島、宝島、喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島などの島々の島民にも狼煙を上げて貰う。
情報を制されて勝てる訳もない。
3月上旬に呂宋港を出航すると3月中旬に琉球に到着し、砲艦外交で琉球王より水の補給の許可を貰って、日の本の船の入港を禁じ、湊の沖にキャラック船5隻が停泊する事を認めさせた。
澳門より遅れて到着した船から琉球沖で食糧の補給を受けた。
『Levar anclas』(抜錨)
3月下旬、錨を上げてイスパニア艦隊40隻が平戸を目指して進み出した。
希望と勝利を乗せた出航であった。
ジャナンドレアは知らない。
九州の制圧が終わり、上陸兵が居なくなった時点で戦略的な敗北は決定した事を…………。
戦術的な海戦はまだ始まってもいない。
艦隊が島々に沿って薩摩を目指すか、北上して平戸に向かうか、日の本を欺いて黒潮に乗って堺を目指すか?
作戦1つで勝敗を引き分けに持って行ける余地は残されていた。
たとえば、
平戸を目指し、半数の戦艦の犠牲を覚悟して散開しながら包囲殲滅戦を行うとか?
薩摩を目指し、坊津などの湊を襲って決戦を避けるとか?
堺を目指し、戻って来た信照の織田水軍を狭い瀬戸内海の出口に当たる小豆島辺りで待つとか?
日の本の動きを封じて、イスパニア艦隊が自由に動くやり方は幾らでもあった。
だがしかし、正しい情報を手にしていないイスパニア艦隊がそのような手段を取る訳もなく、イスパニア艦隊の未来は、惜敗か、大敗の2つに1つしかなかったのだ。
もちろん、神でない信照も3つ目の選択があるとは思ってみなかった。
■リスボンから薩摩までの航行距離。
リスボン~平戸間を航海の場合、
喜望峰ルートだと航海距離はおよそ24,400kmで、
スエズ運河を通った場合の距離はおおよそ17,900kmになります。
その差は6,500kmです。
まだ、スエズルートはありません。
喜望峰付近は常に嵐が起こり、流された船は数千キロをロスする事になります。
帆船の速度は最大で10ノット程度です。
平均は4ノット (7.2km/時)か、5ノット (9km/時)と言われます。
寄港地での食糧や水の補給を省くと、航程は5ノットで113日から4ノットで142日となります。
嵐に見舞われると数千キロのロスが起こし、10日以上も日程が変わったでしょう。
また、バスコ・ダ・ガマが初めて喜望峰回りのインド航路を開いた1499年からマゼランが帰国した1513年までのわずか14年の間にポルトガルは安定した航路を確立したと言われ、最短航程から逆算して喜望峰ルートで最短ならば4ヶ月から5ヶ月としました。
(リスボンからアフリカ西の岬まで、海流と風の助けで時間短縮ができます)
時代は先になりますが、イギリスの商人がチャーターしたアメリカのクリッパーはホンコンからロンドンまでなんと97日 (3カ月)で走破しております。
実際、この当時の航程を調べるのは資料が少なく、確定するのが困難な作業でした。
当時は、まだお茶レースも始まっていなかったので、アジアからヨーロッパに運ばれる物量は8ヶ月から13ヶ月程度は掛かっていたと推測しております。
よって、お茶レースが始まった事で港の整備や航程が一世紀は早まったとしております。
なお、伊達藩主、伊達正宗から命を受けた支倉常長を大使とする支倉使節団の帰り道は、1617年7月4日にスペインのセビリア港を出航し、メキシコのサン・フアン・デ・ウルア港に到着し、アカプルコを1618年4月2日に出航している。
どれだけメキシコシティーに滞在していたのか?
行きは1614年6月10日 (サン・フアン・デ・ウルア港)を発し、1614年11月25日となっている。
そして、アカプルコを1618年4月2日に出航した一行はフィリピン諸島に8月10日に到着する。
これを参考にすると、大西洋に6ヶ月、太平洋に4ヶ月も掛けております。
行きは牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)〔慶長18年9月15日(1613年10月28日)〕からアカプルコ〔1614年1月28日〕の3ヶ月です。
帰りは途中の島々によっていたのでしょうか?
この支倉使節団に壊血病の記述はありますが、使節団で掛かった記録がありません。
時期的にまだ解決策はなかったハズです。
という訳で、余程の風が悪かったのか、様々な寄港地で寄り道をしたとしないと説明が付かないのです。
(ガラパスゴス諸島、ツアモツ諸島、サモア諸島、ニューギニア島など)
寄港地を増やせば、壊血病を減らせる事を薄々は勘付いていたのではないかと言うのが推測です。 (証拠はございません)
■薩摩と呂宋との距離
鹿児島とマニラの距離は単純に2,120kmです。
練習帆船「海王丸」がダーウィンから神戸港に向かった航海スケジュールを見ると、
5月22日(水) ダーウィン発
6月8日(土) 神戸着
と、17日間です。
一方、行きは、
4月26日(金) 神戸発
5月17日(金) ダーウィン着
と、21日間でした。
神戸とダーウィンの距離が5,198kmです。
単純に距離で割ると、
呂宋から坊津まで7日間、坊津から呂宋まで9日間です。
練習艦『海王丸』の平均速度は11.2ノットですから、当時の倍の速度が出ております。
以上を考慮して、
呂宋から坊津まで14日間、坊津から呂宋まで18日間としております。
突っ込みたくなる所、疑うべき所が多々ありますがお許し下さい。
※ 練習艦『海王丸』
4檣バーク型帆船 全長:110.09m 総トン数:2,556t メインマスト高:55.02m 速力:13ノット 最大乗員:199名
・ISTAの帆船レース
乗員の半数以上を25歳以下の実習生で占める大型帆船が124時間でどれだけの距離を帆走できるか、その記録を提出して成績を競うイベントが1964年から毎年行われており、1位になった帆船にはISTAから「ボストン・ティーポット・トロフィー」が贈られます。これまで<海王丸>は3回受賞しており、その記念の楯が船内に飾られています。1995年に受賞した際は、歴代最高記録の1,394海里(平均速度11.2ノット)を樹立しました。
(B&G財団ホームページを参照)
◇◇◇
■日の本討伐軍
司令官:アンドレア・ドーリア (海軍提督から討伐軍司令官兼提督)
副官:ジャナンドレア・ドーリア(討伐軍司令官兼提督の副官)
参謀:ミゲル・ロペス・デ・レガスピ (ウルダネータの推薦)
上陸部隊の大隊長:ドン・アロンソ・デリバ
先発隊の提督:アンドレス・デ・ウルダネータ (貴族、マゼラン・ロアイサ探検の生き残り、船員・探検家・聖アウグスチノ修道会の修道士。バスク人。第2代ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコ・イ・ルイス・デ・アラルコンの命令で先発隊を率いる)
提督:ペドロ・メネンデス・デ・アビレス (短気、せっかち、無法者、フランス海賊の討伐でインディーズ艦隊の船長から提督に昇進。ジャナンドレアを嫌う筆頭)
船員:マルティン・デ・ゴイティ(ペドロの水先案内人)
船長:フアン・デ・スビレタ (マゼラン探検の生き残り)
船長:フアン・デ・アラティア(マゼラン探検の生き残り)
〇討伐軍の最初の編成 (合計50隻) 述べ11,740人(損耗5割で約6,000人)〔壊血病病等の死者が約6,000人、主に下級兵士と奴隷〕
先発隊のガレオン船 (メキシコ産):二提督10隻、320人×10隻=3,200人
本隊:八提督36隻
大型ガレオン船:6隻 640人×6隻=3,840人
ガレオン船 :10隻 320人×10隻=3,200人
輸送用キャラック:20隻 50人×10隻=500人
現地のキャラック船:一提督4隻 250人×4隻=1,000人
〇討伐軍の第2次編成 (合計50隻)〔大型ガレオン船10隻体制〕 述べ17,500人(補給が間に合わず、予定も8割で約14,000人)〔壊血病病等の死者が約10,000人、主に下級兵士と奴隷〕
☆航路を整備して補充員の損失は3割に留める事に成功したが、合計で1万人の死者を出した。
先発隊の船
大型ガレオン船 (メキシコ産): 640人×2隻=1,280人
ガレオン船 (メキシコ産):8隻 320人×8隻=2,560人
(内、2隻のガレオン船が大型ガレオン船に交換)
本隊の大型ガレオン船:8隻 640人×8隻=5,120人
(2隻の大型ガレオン船に補充される)
本隊のガレオン船 :22隻 320人×22隻=7,040人
(12隻の大型ガレオン船に補充される)
輸送用のキャラック船:10隻 50人×10隻=500人
物資の輸送専門キャラック船:20隻 50人×20隻=1,000人
(元のキャラック船10隻とメキシコ産のキャラック船が10隻補充されて、輸送隊として分離される)
〇船の性能
大型ガレオン船
全長:66メートル
乗員:約800名(太平洋を横断する時は8割が限界)
水夫:80~240人(戦闘員を含む)
砲手:100人
兵士:460~620人(300~460人)
大砲数:100門
排水量:1,300トン
ガレオン船
乗員:約400名(太平洋を横断する時は8割が限界)
全長:50メートル
水夫:60~180人(戦闘員を含む)
砲手:40人
兵士:180~300人(100~220人)
大砲数:40門
排水量:500トン
キャラック船
全長:40メートル
乗員:約500名(太平洋を横断する時は8割が限界)
水夫:30~120人
砲手:20人
兵士:360~450人(260~350人)
大砲数:20門
排水量:500トン
この数値は荷物が兵である事を前提に計算しております。
〔※ この数字は推測値であり、正しいデーターを参照したモノではありません〕




