閑話.とある澳門(マカオ)の酒場の話。
弘治2年(1555年)12月25日、後に無敵艦隊の総司令官となるアロンソ・ペレス・デ・グスマン。その父であるフアン・カルロス・デ・グスマンは、イスパニア艦隊を率いて極東の小さな島に大砲を売った者を突き止める為に調査に赴きながら調査を全うせず、尾張熱田で織田の船に敗北すると言う恥辱を浴びながら、恥も知らずにも織田家と友好を交わして帰国の途に着くというイスパニアの貴族として相応しくない行為をした。
カルロスのイスパニア艦隊が世界の果てにある小国の中の小国に負けたという噂はヨーロッパ中を駆け抜け、イスパニア王家の威信を傷つけたのである。
『黒い鷲の羽は折れた』
そう揶揄されて、激怒した皇帝カール5世はカルロスに厳しい処罰を下すと思われた。
だが、カルロスの船は予定よりかなり遅れて母港に帰港する事になった。
ゴアでエンリケ・エンリケス司祭に看取られてフランシスコ・ザビエルが亡くなってしまったのだ。
カルロスはザビエルをゴアまで送った。
その後、ザビエルは教皇に書簡を送り、その内容は教皇を激怒させた。
それを聞くと誤解を解く書簡を書きながら、中国への布教を準備していた所でザビエルは病床に倒れ、すぐに息を引き取ったのだ。
カルロスは呂宋に戻った船と連絡を取りながら皇帝カール5世とポルトガル王に書簡を送り、ザビエルの助けを得て熱田港はサラゴサ条約 (1494年のイスパニアとポルトガルの間で結ばれた条約)のモルッカ諸島の東297.5レグアを通る子午線を第二の境界の東にあると主張したのだ。
ゴアのポルトガル司令長官兼インド副王フランシスコ・ダ・アルメイダは猛反発し、カルロスの出航を禁じたのだ。
ザビエルの後ろ盾を失うとカルロスは何もできなくなる。
そして、アルメイダはイスパニア艦隊の敗北とカルロスの卑怯を喧伝し、アジア周辺からヨーロッパ中に悪評を広げた。
この噂は神聖ローマ皇帝カール5世の権威を落とし、カルロスは強制帰国が命じられた。
その帰路の船上で無理が祟ったのかカルロスは亡くなってしまったのだ。
帰国して処分される事を恐れた船員の叛乱も起こった。
副官のヒネス・デ・マフラはその叛乱を鎮圧し、何とか帰国して皇帝カール5世に報告した。
水夫から副官までのし上がったヒネスは強かであり、皇帝が激怒している事を逆手に取って、どんな無念を抱いて友好を取り付けたのかとカルロスの遺言と称して、騙し討ちで船を乗っ取られたとか、水夫を人質にされたとか、汚名を晴らす為に交易できるように苦心した事とか、ある事ない事を言って凌いだのだ。
無念の中で苦しんで死んだカルロスを憐れに思ったのか、皇帝は息子を失って悲しむカルロスの父メディナ=シドニア公を罰する事はなかった。
そして、皇帝はカルロスの主張を取り入れ、日の本は境界の東にあるとして討伐を宣言した。
長く苦しい東方遠征の始まりであった。
そのメディナ=シドニア公も1559年に亡くなり、9歳で孫のアロンソが当主となった。
アロンソ (現在12歳)は父の仇の織田-信照を討つ為に討伐艦隊に参加する事を表明したが、公爵家の当主に何かあっては拙いと許されなかった。
アルバ公こと将軍フェルナンド・アルバレス・デ・トレドはアロンソが成人していたら総司令を命じたのにと若過ぎる当主を見て嘆いたと言う。
なお、アルバ公は船の補充員や整備や修理できる人材を派遣したが、その多さに驚いた。
まず、呂宋に到着したイスパニア艦隊の最初に出した本国への要望が水夫の補充願いであり、航海で水夫や奴隷の損耗が激しかったのだ。
損耗の原因は主に壊血病であり、その損耗は各船で3割から7割に達し、全体で5割に届いた。
さらに、連絡を入れてから実際に届くまでの期間に1年を要する距離の遠さに絶望した。
アフリカや中南米ではあり得ない遠さだった。
それならば、新大陸の中南米を治める為にヌエバ・エスパーニャ副王を置いたように、呂宋にもルソン副王を置き、すべてを現地調達させる事も考えたくらいだった。
欠員した水夫や奴隷をイスパニアから呂宋に運ぶ手間を省き、すべてを現地調達できるように呂宋に造船所を建設してしまおうとも考えていた。
少なくとも船と人員をヌエバ・エスパーニャ副王領から調達しないと財政的に破綻すると思えたからだ。
だが、それは実現しなかった。
イスパニア王はそれを望まず、日の本を攻める事に固執したからだ。
◇◇◇
(永禄5年 (1562年)3月初旬、澳門にある媽閣の酒場)
あの衝撃は帆船や大砲の進化に繋がった。
イスパニア国王が日の本の討伐を言い出し、新型の帆船の建造を命じ、大砲の開発に多額の支援を投じたからだ。
ガレオン船が多く建造された。
さらに強固な大型帆船がイスパニア王の主導で計画されて投入された。
ガレオン船の排水量は約500トン、全長50メートルで大砲40門を備え、乗員が400人である。
最新鋭の新造ガレオン戦艦は3本マストの大型ガレオン船の排水量は約1,300トン、全長66メートルで大砲100門を備え、乗員800人を乗せる。
大量の船を欲したイスパニア国王に応える為にポルトガルとイスパニアの造船所だけでは足りず、多くの造船所が欧州中に造られた。
皮肉な事に新しく作られた造船所では、お茶を売って儲けた貴族や船長の注文で新造のキャラック船も造られた。
イスパニアは中南米の銀で沸き、ポルトガル商人らは日の本の茶で潤っていたのだ。
平戸や博多に来る船がジャンク船からキャラック船に代わり、そのキャラック船も200トン級から500トン級へと代わっていった。
最近では、1,500トン級のキャラック船を注文した貴族もいると言う。
対する織田家の帆船である尾張級は1,000石 (積載量150トン、排水量200トン、大砲10門)でしかない。
織田家の船も大きくなったと言う者もいる。
確かに当時300石 (60トン)級の帆船が主力だった織田家も尾張 (積載量1,000石、排水量200トン)級に変わっていた。
だが、キャラック船 (ポルトガル、イスパニア)の排水量500トン級に敵わない。
況して、最新鋭の大型ガレオン軍艦の排水量が1,300トンと比べると大人と子供ほど差があった。
『我らの再会に乾杯』
満剌加から明や日の本などに向かう船の交差点である澳門の港には多くの船が行き交う。
春が近づくと再会の季節がやって来た。
日の本の茶を求めて多くのポルトガル商人がやって来る季節だ。
やって来た商人らはこの一年の情報をここで集め直す。
ここは明国の商人やイスラムの商人が集まり、倭寇や日の本の商人もやって来ていた。
近海の海を生業とする者から情報を得る為に積極的に交流を深めていた。
「また、会えた事を神に感謝を」
「感謝を」
商人、船長・副長らは面会の予約を取って小洒落た料亭などに足を運び、船員は気の向くままに泥臭い酒場を巡った。
そんなゴミ溜めのような店の中で倭寇と連んで近海で小銭を稼ぐ船のポルトガル商船の船員を見つけて声を掛けた。
遠い港で知り合いに遭うなど、神の奇跡と呼ばれた。
昔はそれほど珍しかった。
何故なら、少し前までリスボンと澳門を往復する船員は壊血病で命を落とす事が多く、こうして再会できるのは『神の導き』以外に考えられないと思えるほど少なかった。
だが、それも今は昔の話だ。
「織田様々」
「もう一度、織田に向かって乾杯するか」
「勝って欲しいな」
「あぁ、勝って欲しい」
別に信照が壊血病を解決した訳ではない。
解決法が漏えいした訳でもない。
少し前に織田家の水夫が壊血病に掛かった事がないと聞いて、秘密を探ろうとした者がいた。
結論を言えば、『熱田明神様のお蔭だ』となる。
船員の神より御利益がありそうだ。
柑橘類を食事に出すなどの秘匿事項はまったく漏れていなかったが、船倉まで綺麗に清掃を行い、寄港地では1日以上の休息と十分な食事を与えられている事が判った。
それを聞いたポルトガル商人が寄港地を増やし、水の補給が終わってもすぐに出航せず、船倉まで掃除をさせ、船員に十分な食事を与えてみた。
上陸こそ許さなかったが、壊血病で死ぬ者が激減した。
奇跡だった。
だが、奴隷は使い捨て、水夫も奴隷のように扱う船長には受け入れられない。
また、一番茶を誰が早くリスボンに届けるのかという競争をする船にとって、寄港地でのんびりと休暇を与えるなど勝負を捨てているに等しい。
解決にはほど遠かったが、壊血病を恐れるポルトガル商人は減っていた。
しかし、イスパニアの事情は違った。
大西洋と太平洋では寄港できる都合のいい島がある訳ではない。
一度航海に出ると壊血病で船員に3割の被害が出るのは変わっていなかった。
イスパニアから呂宋に到着する頃には5割に減っていた。
「真剣な話。どっちが勝つと思う」
「そりゃ、イスパニアだろう。織田の船が小舟に見えてしまう」
「お前とこの250トンのキャラックなら、もう小型船だな」
「そう言うお前とこも300トンだろう」
「ははは、情報が古いな。ウチの船長が中古500トン級のキャラック船を買った」
「嘘だろう」
排水量が大きくなると物資を運ぶ量も増えて儲けも桁違いに増えてゆく。
船員も増えるが、それ以上に儲けも増える。
中堅以上の船員になれば、臨時の報奨金も桁が違ってくる。
しかも茶を買って帰れば、大儲け間違い無し。
そう思って船長は中古の中型キャラック船を購入したが、その途端にイスパニア王の宣戦布告を聞いて慌てた。
せめて一度でも茶を運んで儲けないと、茶を買う為に借りた借財で船長が破産すると船員は言った。
「馬鹿な事を」
「知っていれば、金など借りていなかっただろう」
「儲けないと船を手放す事になりそうだな」
「俺は路頭に迷いたくない」
「だが、難しい。織田家の大砲の射程は500メートルだ。この意味は判るな」
「イスパニアの新型の大砲も500メートルと言っていた」
「イスパニアが追い付いた」
「そうなると国力差。船の数で織田家が負けるのか」
「悔しいがそうなるな」
イスパニアは新型の大砲の有効射程を500メートルと公言していた。
織田家が砲艦外交で見せる的の距離も500メートルであり、織田家の大砲の有効射程が500メートルと思われており、実際にそうであった。
しかし、イスパニアの大砲の有効射程は500メートルではなく、最大射角で1500メートル、実際の有効射程で300メートルだった。
有効射程500メートルは固定砲台からの成果に過ぎなかったのだ。
もちろん、そんな事実を知らない船員にとって射程で追い付かれた織田家は、船の数で敗けると思われた。
なお、イスパニアの大砲の進化を後押ししたのも織田家が原因であった。
1つは、落とした弾を目撃した船員が織田家の砲弾が丸くなかったと証言した。
1つは、発射ごとに大砲を中に仕舞っていなかった事に気が付いた砲主の疑問だ。
そこに狙いを定めた結論だった。
まず、弾丸の形を真似る事に試行錯誤し、一部で提唱されていた後部開閉式の大砲を開発した。
さらに飛距離を稼ぐ為に口径を小さくして、大砲と言うより小口径火砲 (小口径の速射砲)となっていた。
だが、無煙火薬やライフリングは導入されておらず、最大射程も命中精度も悪い儘だったのだ。
そんな裏事情など知らない船員は一気に酒を呑み干した。
「せめて後3日早く到着していれば、琉球付近までイスパニアの食糧を運ぶ仕事に有り付けたのに」
「食糧を運んだくらいでは儲からないだろう?」
「そんな事はない。通常の3倍の値で買って貰え、戦争が続く限り永続的に仕事が回ってくる」
「そんな仕事があったのか?」
「あったんだ。それよりお前んとこは大丈夫なのか?」
「どうせウチの船はゴアまでしか運ばん。余り儲からんが明国の磁器でも運ぶと言っていた」
儲からない訳ではない。
明国の磁器や絹織物は欧州で高く売れるが茶と比べると利益が乏しいだけだ。
この周辺国から集まってくるチョウジ、ニクズクという香辛料も高価な商材だが、やはり茶ほど高くない。
「ウチの副長がここでチョウジ、ニクズクを買うだけ買って、後はインドのコーチで胡椒を買って帰れば、金利くらいは返せるかどうかとか言っていた」
「どれだけ金を借りて来たんだ?」
「船を大きくした。限界までに決まっているだろう」
「そうか、そうだな」
「で、どう思う。博多には入れると思うか?」
「判らん。最初に出て行ったキャラック船も帰らん。後を追ったジャンク船も戻って来ない」
「だとすると、船長が言っていたように船を奪われたか?」
「何の為に?」
「イスパニアの艦隊と戦うならば、一隻でも多くの船が欲しいだろう」
「それもあるか」
澳門を拠点にする商人らは倭寇とも連んで商売をしていたので、拿捕されて没収されるまでは考えていない。
そんな無茶をすれば日の本は明国との交易もできなくなり、すべての交易を手放す事になる。
そんな馬鹿な真似はしないと信じていた。
尤も裏技として銭を出して買い上げると言う手があった。
織田家が負ければ、払ってくれるか怪しい。
いずれにしろ、戦禍に巻き込まれるのを嫌って近づいていない者の方が多かった。
純粋なポルトガル商人はもっと深刻であった。
同じキリスト教の船とされる危険性があり、接収される可能性もあった。
そうなると大損で済まない。
危なくて近づけない。
イスパニアが勝てば、イスパニア商人が独占して排除され、日の本が勝っても同じキリスト圏という事で今まで通りに交易が許されるか判らない。
戦が始まる前に儲けようと危険を冒して急いだが間に合わなかったポルトガル商船が澳門の媽閣付近に停泊していた。
だが、割り切ってお茶を諦めると言うほど商人の賢者は少ない。
儲ける為なら妻・子でも売る。
それが欧州の商人の本質であり、手に入らないからこそ、お茶に高値が付く。
何とかして手に入れる方法はないかと模索して無駄に時間を過ごしていた。
「何か巧い手はないか?」
「あるくらいなら、ウチの船長がやっている」
「そりゃ、そうか」
寄港する多くのポルトガル船のお蔭で澳門は今日も繁盛していた。
■当時の船舶の積載量と排水量
1,000石船の積載量は約150トンであり、排水量に換算すると200トンになります。
対するキャラック船の排水量は200トンから1,500トンとあります。
1492年、クリストファー・コロンブスのサンタ・マリア号の排水量は全長30メートル、排水量100トン程度と言われています。
1519年、フェルディナンド・マゼランが乗ったビクトリア号は全長25.9メートル、最大幅6.72メートル、排水量170トンです。
1510年、ヘンリー8世によって建造された帆船は、なんと全長32メートル、排水量はおよそ600トンと一気に増えてきました。
16世紀初頭、サンタ・カタリナ・ド・モンテ・シナイ、ポルトガル王国の軍艦であり、大型のキャラック船は乗員約400名、全長38メートル、幅13メートル、排水量800トンで、3層の船首楼・船尾楼を重ねた6層甲板式とされ、140門のカノン砲を装備した。
17世紀頃、ガレオン船は全長約55メートル、乗組員約400名(砲手40人、水夫240人)、大砲約40門、排水量500トンくらいでしょうか。
建造の期間は500トン級で45日程度であり、英国1637年製ガレオン船で65,000ポンド (16億円)です。
■フィリピンの造船所?
史実では、1565年にスペインは太平洋航路を開通させ、マニラとアカプルコを結ぶガレオン貿易が始まっている。
調べて見ると、ガレオン貿易に使われた船の多くは主としてフィリピンで建造されていた事が判る。
大規模な造船場が併設されていたわけではなかったが、アカプルコにもガレオン船の修理ができる施設が整えられていたようだ。




