閑話.龍造寺隆信の出奔。
(永禄5年 (1562年)2月中旬~下旬)
龍造寺-隆信は出発してすぐに山内二十六衆の神代-勝利らの襲撃を受けて多久の手前で進軍を止めた。
勝利の夜も明けぬ内の襲撃であった。
隆信はそれを聞いて怒りを露わにして、「またか!」と怒鳴った。
勝利は父である周家が暗殺される時も、土橋-栄益が隆信の失脚を企んだ時も参加した奴であった。
事ある毎に山奥から出て来て邪魔をする。
神出鬼没とは、彼の為にある言葉だ。
明日は鬼子岳城の手前で弟の長信と合流し、唐津からやって来る幕府軍と戦うつもりでいたが、ここで修正を余儀なくされる。
しばらくすると家老の鍋島-直茂が戻って来た。
「百武-賢兼が幕府軍と交戦中でございます」
「まぁ、まさか!?」
「信じがたい事ですが、こちらの動きを察知されていたと思われます」
「俺が出陣を決めたのが昨日だぞ」
「一昨日の時点で自発的に兵が村中城に集まっておりました。殿の気性を読まれたのかもしれません」
「博多の兵を向かわせたのは囮だったのか?」
「いいえ、そうではなく。鬼子岳城方面にも少数の兵を送っていたのかもしれません」
「なるほど、幕府軍が博多へ向けて兵を動かせば、こちらが動くと読まれたのか」
隆信と直茂の議論は尽きない
そこに龍造寺四天王と呼ばれる江里口-信常、円城寺-信胤が慌てて仮本陣に入って来た。
「殿、一大事でございます」
「信常、慌てるな。イザぁとなると肝が据わるのに、どうして普段は落ち着きがない」
「慌てるなと言うのは無理でございます。なぁ、信胤」
「如何にも。小河-信安が討死致しました」
隆信は立ち上がって「馬鹿な」と呟いて目を丸くした。
まだ、昼過ぎになったばかりである。
後詰めが反転して春日山城に向かったと聞いたが、その先鋒が戦を始めるにも早過ぎる。
信安が先陣を切って進み、自ら斥候となった神代-勝利と出会って、その場で一騎打ちになったとか、誰が想像できようか?
後詰めは崩壊すると予感した。
実際は直茂の子飼いの家臣だった木下-昌直や藤津両弾二島と称された犬塚-鎮家が逃げようとする武将を捕えて踏みとどまらせて甘南備城に入ったのだが、その報告はもう少し後になる。
もしも神代-勝利の奇襲を知って本隊を止めなければ、本隊の先駆けが逃げてきた百武-賢兼と合流できたかも知れない。
輝ノ介とお市を出迎えた兵数が500人から2,500人に増え、武将も藤津両弾二島の大村弾正と先駆けを得意とする広橋-信了が加わる。
輝ノ介の重装騎兵50騎と凄腕が集まったお市の忍び衆60人を足しても110人余りだ。
相手をするのは厳しかっただろう。
輝ノ介が後退すれば追われて、幕府軍は先鋒に続けて本隊との連戦となる。
負けないまでも相当の痛手を受けたかもしれない。
何と言っても百武-賢兼は討ち取られる事もなく、先鋒の全滅という不名誉も避けられた。
被害は相当なモノであるのに変わりないが、全滅と大損害では受ける印象に天と地ほどの差があった。
そうなると龍造寺軍と平戸・伊万里松浦党による挟撃も成立していた。
輝ノ介は戦力不足で苦戦を強いられる。
丹羽-長秀の『こんな事もあろうかと』が意味を持っただろう。
東松浦党の兵を唐津に入れて、準備した毛利・薩摩の混成隊1,000人と鉄砲・砲撃衆の1,000人を編成して送り、夕刻には鬼子岳城付近に到着していたのだ。
援護の迫撃砲と鉄砲隊、それに無傷の兵が補充される。
これで幕府軍が負ける事はない。
大勝利で意気揚々と名護屋に凱旋する輝ノ介とお市を苦々しい顔で信照が出迎えた。
信照は功労者を罰する訳に行かないので労いの言葉を掛け、後で自室に呼んで叱ると褒美と称して一ヶ月の休養と言う謹慎を与えた。
信照はその一ヶ月にイスパニアの艦隊が来ても連れて行かないと宣言した。
二人はかなり慌てたが信照は撤回せずにしばらく二人は落ち込んだ。
これが大勝利でなく、辛勝であったら責任を取らせて京への帰還を言い渡され、尾張に帰ったお市は土田御前から『おしりぺんぺん100叩きの刑』が待っていただろう。
神代-勝利のファインプレー。
お市は強運に恵まれていた。
◇◇◇
隆信が百武-賢兼の死を知るのは少しだけ遅れた。
百武-賢兼に預けた武将らがすべて討ち取られたからだ。
逃げ出した農兵らが本隊の先駆けに捕えられて、広橋-信了が確認に兵を向かわせた後に報告された。
その報告を受けて仮本陣が騒然とした。
小瀬城の斥候が厳木川の対岸の山から見た限りで先鋒が総崩れしているとも伝わった。
「千葉城まで後退する」
「殿、多久に入らねば、長信様を始め方々を見捨てる事になります」
「武将達が動揺しておる。戦にならん」
「しかし…………」
「諄い。皆の顔を見よ」
直茂は本陣にいる方々の顔を眺めると百武-賢兼の死に動揺しているのが手に取るように判った。
これでは戦の最中に寝返りそうなほどだった。
隆信は東肥前の領主達を心から信用していない。
命を預けるには心許ない。
「長信様はどういたしますか?」
「あれはあれで考えればよい。まずは幕府軍の動向を確かめる。背後で暴れられては城を空にできん」
「判りました。平戸の松浦党が背後を突けば、幕府軍が反転するでしょう。こちらも背後の神代-勝利を討ってから進撃でよろしいですか」
「そのように軍を編成し直せ。俺は何としても龍造寺家を残さねばならん」
「なぁ、なるほど。そういう意味でございましたか」
直茂は隆信の意図に気が付いた。
隆信は猜疑心が強く、家臣でも信用している者は多くない。
しかし、人間味がない訳ではなく、実は情も厚い。
領主や家臣に洗礼を勧めて宣教師の機嫌を取る隆信であったが、家臣らが弟の長信も「洗礼を受けさせては」と言うと猛反対した。
直茂も洗礼を勧められた事がない。
隆信が信用する武将ほどキリシタンにするつもりなどなかった。
宣教師は『隣人を愛せ』などと嘯くが、堂々と武器の仲介をする。
隆信は宣教師も信じておらず、利用する事しか考えていない。
だから、信用していない家臣ほど宣教師に売った。
多久を見放す事で長信は幕府軍に降る好機を得る。
まだ、兵数が整っていない幕府軍は臣従を許すだろう。
これで龍造寺家は安泰だ。
直茂は“相も変わらず、判り難い人だ”と心の中で嘆いた。
かと言って、自分も生き延びる事を諦めた訳ではない。
隆信は逆に知恵袋の直茂に問い直した。
「他に策があるかの?」
「幕府軍はキリシタンを敵と致しました。幕府軍が来れば、キリシタンは皆殺しにされると噂を流せば、より多くのキリシタンが参陣してくれるでしょう」
「おぉ、2万か、3万は集まりそうだな」
「おそらく、それ以上かと」
直茂はそれ以上の策が思い付かなかった。
豊後の大友-宗麟の腹一つで情勢は大きく変わる。
しかし、宗麟は幕府を裏切らない。
この九州で従えた属国は九州探題という名で繋いでいるからだ。
幕府を否定した瞬間から、いつ裏切られるか判らなくなる。
対して隆信は肥前の大名に過ぎない。
九州を統一するにはすべての敵を叩き潰す必要があり、幕府を敵にしても失うモノが少なかった。
宣教師もイスパニアの艦隊も利用する事ができた。
筑前、筑後、豊前、豊後、肥後などで司教の檄を受けてキリシタンが暴れ出したが、戦況を覆すほどの勢力はない。
鎮圧されれば、大友軍が西から押し寄せてくる。
龍造寺軍は短期決戦で幕府を降すと、次に大友軍に備える必要があった。
明日にでもイスパニアの艦隊が来れば別だが、状況は最悪である。
千葉城に戻ると直茂は軍の再編成を行う。
すると、後詰めは崩壊しておらず、まだ甘南備城に2,000人の兵が残っていると言う朗報と百武-賢兼が率いた先鋒8,000人が本当に皆殺しにあったと言う凶報を受けた。
直茂は龍造寺家に掛かる暗雲に頭を抱えた。
◇◇◇
翌日、神代-勝利への備えを万全にした龍造寺軍は、再び幕府軍に備えた。
『幕府軍はキリシタンを皆殺しにするつもりだ。戦わねば、殺されるぞ』
周辺の領主らには追加の徴兵を命じた。
逃げた東肥前の領主らにも再度の出陣を命じたが、多久の長信らが許された事で寝返る心配が大きくなった。
だがしかし、隆信はうっすらと笑みを浮かべていた。
「まさか、こんな事になるとは思っておりませんでした」
「ふふふ、まったくだ」
「領主がキリシタン、あるいは、子供らがキリシタンでは寝返っても助かるかどうか?」
「あの宗麟も家督を息子に譲り、自ら腹を切るつもりらしい。
誰が流した噂かな?」
「おそらくは…………」
千葉城の一角で隆信と直茂が軽く酒を呑みながら対策を練っていた。
「松浦-隆信があんな腑抜けと思っておらなんだ」
「まったくございます。こちらの予定が狂ってしまいました」
「明日、攻めて来られると間に合わぬな」
「残念ながら」
情けない事に平戸の松浦党が戦わずに逃げてしまったので幕府軍が多久に入ってしまった。
龍造寺軍は兵を再結集している途中であった。
佐嘉郡を中心にキリシタンが続々と結集しており、兵数は3万人を超えると思われた。
だが、間に合わない。
そこに晴気城が襲われているという早馬が届いた。
「やはり、早いな」
「我らの出陣にも対応した幕府でございます。再結集を待ってくれるとは思っておりませんでした」
「対策はあるのか?」
「周辺の山々に物見を立てております。晴気城を襲っていると見せて、進軍している可能性もございます。しばらくお待ち下さい」
直茂の懸念は幕府軍がどちらに侵攻するかであった。
晴気城の南の羽佐間城は長信の梶峰城の支城の1つであった。
その周辺には多久から流れる牛津川が流れており、長信の勢力圏を南下してくるか、晴気城の東南の峰山、鏡山を越えて佐嘉郡に直接攻めてくるかで対応が変わる。
南下すれば分断が目的であり、大内軍を待っての東西からの挟撃戦を狙っている。
大友軍が東から大軍で押し寄せてくれば、龍造寺軍に勝機はない。
待ち受ける幕府軍に挑んで行かねばならない。
一方、峰山、鏡山を越えて来るならば、幕府軍単独による侵攻戦だ。
兵が間に合えば、平地に誘って三方から包囲戦で勝機が見えてくる。
しかし、幕府軍はこちらの兵力が再結集するのを阻止する為に攻めて来ている。
峰山と鏡山に配置した兵を増援し、こちらの兵力が整うまで時間を稼がねばならない。
どちらにしても龍造寺軍が苦戦するのは間違いなかった。
直茂の元に情報が集まる。
多久の東南に陣を置いた幕府軍は動きはない。
進軍するのに邪魔な晴気城を落としに来たと判明した。
ならば、援軍を送って晴気城を助けるだけだ。
「信了、急ぎ救援に迎え」
「畏まりました」
「他の者は早朝に軍を前に進ませる。準備を怠るな」
広橋-信了は兵1,000人を従えて晴気城に向かった。
夜明け頃に晴気山の麓に到着し、晴気城の無事を見て安堵した。
そこから『ドカン』と着弾の音が聞こえ、南北の山の中腹で砂煙が上がる。
信了は何が起こったのかと目を白黒させた。
向こうの山から小さな火が見えると晴気城の付近に土煙が上がった。
大砲の砲撃?
そんな言葉が信了の脳裏に浮かぶが、大砲が遠くまで飛ぶモノではない。
考えた事を否定した。
信じられない。
足が止まって茫然としている内に晴気城に砲撃が当たって城が崩れ出した。
慌てて山を上がらせたが、今度は敵の大砲が信了の部隊を狙う。
前方で土煙が上がると兵を前に進められない。
そうこうしている内に晴気城は落城し、敵の砲撃を避けながら引き上げるしかなくなった。
千葉城を出発した龍造寺軍も再び千葉城に引き返すしかなかった。
◇◇◇
千葉城で軍議が開かれ、防衛拠点を松尾城、千葉城、高木城、村中城で包囲するように囲み、幕府軍を佐嘉郡に引き込んで包囲殲滅戦を行う。
直茂が考えた必中の策であった。
敵の大砲の威力を知った家臣らは動揺したが、直茂は涼しい顔で否定した。
「幕府の大砲が100門もあれば、最早敵いますまい。しかし、良くて10門、もしかすると4門かもしれません。兵を集中せずに分散し、包囲して各個撃破で殲滅すれば、数で勝る我らの勝利は間違いございません」
「よう申した」
「その通りでございます。我らが負ける筈もございません」
「如何にも、如何にも」
「次で勝ちましょうぞ」
場違いなほどに龍造寺家の家臣らは大いに沸いた。
裏切るのを隠す為の芝居だ。
口々に必ず勝てると皆が豪語する。
これほど楽観的な軍議もなかった。
「殿、このまま村中城に引き返さず、側近を連れて平戸にお逃げ下さい」
「直茂、お主も感じたか」
「家老らの心が折れてしまいました。最早、裏切るのは時間の問題かと思われます」
「俺が村中城に入った後で取り囲み、俺の首を差し出して幕府に命乞いをするつもりか」
「我らはこれから時間を稼ぐ為に幕府軍を攻めます。殿を味方する者が居なくなった所で寝返るでしょう」
「口惜しいのぉ」
「筑後にお逃げした時の頃を覚えておられますか?」
「忘れるものか」
大寧寺の変で大内義隆が家臣の陶隆房に討たれると、庇護を失った隆信は土橋-栄益らの裏切りで肥前を追われて筑後に逃れた。
汚辱にまみれて再起の時を待った。
「殿、フランシスコ・カブラル司祭を動かし、確実にイスパニアの艦隊を連れて戻って来て下さいませ」
「俺に日の本も捨てよと申すか?」
「筑後に退くのと同じでございます。今度はイスパニアの艦隊を連れて幕府軍を討ち。その船から降りるのが重要でございます」
「俺の背後にイスパニアがいると思わせるのだな」
「そうなれば、再び肥前を再統一するのも容易いでしょう」
「そなたはどうする?」
直茂は首を横に振った。
直茂らまで居なくなれば、龍造寺軍はすぐに崩壊する。
気付かれるのは遅いほど良い。
「殿のお帰りをお待ち致します」
「できるのか?」
「それこそ汚物に顔を付けてでも懇願してでも生き残り、殿が帰ってくるのをお待ちします」
「直茂!?」
「殿が再起した時と同じでございます。ただ、待つのはそれほど長くありません。1月先か、長くとも三月先には再会できましょう」
「死ぬな」
「殿が九州を統一するまで死ねません」
村中城に戻ると思われた軍から隆信は側近27人のみを連れて列から抜け出すと平戸を目指した。
鍋島-直茂は最前線の峰山へ、成松-信勝は松尾城へ、江里口-信常は鏡山へ入った。
隆信の兵が村中城に入ると、各城や砦から謀反の火の手が上がり、幕府軍へ寝返る使者が走る。
そして、隆信がすでに逃げていたのを知って落胆した。
城に戻る事もできなくなった直茂らは逃げた隆信を見限ったと言わんばかりに幕府軍に投降して命乞いをした。
元将軍は名護屋に戻り、指揮は秀吉が取っていた。
秀吉はすべての投降や寝返りを許さず、まず城に戻ってキリシタンの処分を命じた。
家臣同士の殺し合いは回避されたように思えたが熱狂的なキリシタンが多い佐嘉郡周辺で仏教徒に帰宗するなど言えば暴動が起きた。
結局、キリシタンの処分派と擁護派で戦いが起き、隆信を追って平戸に逃げる分には追撃しないと幕府からお達しが来た。
首を捻りながら直茂は積極的に平戸へキリシタンを送り出した。
そうこうしている内に筑前、筑後、豊前、豊後、肥後の鎮静を図った大友軍が結集し、博多に向かった幕府軍と合流して東肥前に押し寄せた。
直茂らも合流を命じられ、藤津郡の後藤-貴明を攻めた。
有馬-義貞と大村-純忠の内戦に気を取られ、降伏の時期を完全に見逃した後藤-貴明の降伏などを秀吉は認めない。
平戸に逃げる事は許すが、キリシタンに至っては町人、村人も根切りにすると通告されると交戦しかない。
しかし、籠城など無意味なこととすぐに知らされる。
幕府軍の迫撃砲が門を壊し、城に兵が雪崩れ込んだ。
城はただの墓へと変わった。
改めて白旗を振り、平戸への逃亡が始まった。
そこで軍議が開かれる。
「有馬-義貞は幕府に従っているが、キリシタンに与する家臣、及び、キリシタンは同じだ。大村-純忠においては言うまでもないだ」
すべてのキリシタンを平戸に追い詰めて、佐世保と伊万里に防衛拠点を造ると言う。
幕府の徹底ぶりに直茂は背中から冷たいモノを感じた。
織田の大砲は分解すると3人で持ち運びできる。
この戦だけで30門も投じた。
直茂には織田家がどれだけの大砲 (迫撃砲)を所持しているか想像が付かない。
海戦でイスパニアの艦隊が勝っても上陸は難しい。
なぜならば、毛利軍がやっていた戦術に織田の大砲が加われば、海岸を制圧するのも難しくなる。
九州に拠点を造らなければ、イスパニアの艦隊の補給は琉球より遠い場所になり、長期の戦闘が困難になる。
直茂の思惑が完全に外された。
高来郡 (島原)に進軍していると、フランシスコ・カブラル司祭と龍造寺-隆信を乗せたキャラック船が出航したと聞こえてきた。
幕府軍は隆信が日の本を捨てて逃亡したと喧伝していた。
「殿、どうかご無事で」
直茂は南の空を見上げて祈った。




