78.島原じゃなく、平戸の乱?
(永禄5年 (1562年)2月下旬)
俺が名護屋に到着すると、龍造寺-隆信との戦いは斜め上を行く終結を迎えていた。
輝ノ介とお市がヤリ過ぎたのだ。
「わらわの所為じゃないのじゃ」
「…………」(輝ノ介)
「自分の行動がどういう結果を招くか考えて動けと言っているだろう」
「わらわは敵の大将を追っただけで逃げ道を塞いでおらんのじゃ」
「…………」
「大将と大事な姫が先に行けば、追わぬ家臣はいない。それでは手心を加えて敵を逃がす事もできない。自分達がどれだけ危険で迷惑な行為をしたのか、本当に判っているのか?」
「わらわは大丈夫なのじゃ」
「…………」
「大丈夫かの問題ではない。輝ノ介とお市の方に敵を逃がす事ができない残された兵の気持ちを考えて動けと言っている。百武-賢兼を逃がすのがそれほど問題か。総大将の首に釣られて付いていっただけじゃないか?」
「罠など、駆逐してやったのじゃ」
「…………」
「馬鹿か。罠に掛かった時点で戦略的に負けている。毛利で使った地雷を真似て来なかった事に感謝しろ。向こうに諸葛-亮-孔明が居なくて助かったのだ」
「魯兄者の為に頑張ったのに、褒めてくれない魯兄者なんて嫌いじゃ」
「…………」
お市は我慢していた涙が溢れ出し、立ち上がって逃げてしまった。
今回は俺の為に頑張った。
信勝兄ぃと違って褒めて貰えると思っていたらしい。
大したモノだと褒めてあげたいが、ここで褒めて調子に乗って貰っては困る。
叱られてふくれっ面になっていたお市に厳しい言葉を重ねて泣かせてしまった。
本当に嫌われたかもしれない。
輝ノ介は終始無言だった。
ヤリ過ぎた為の肝心の龍造寺-隆信との決着が流れてしまったからだ。
輝ノ介なりに思う事があったようだ。
もちろん、原因はある。
例えば、山内二十六衆の神代-勝利らの奮闘を予想できなかった事だ。
他に『肥前の熊』の異名に騙されて、龍造寺-隆信を勇猛な武将と勘違いした事だろう。
輝ノ介には上がってくる情報をきめ細やかに整理する能力が欠けていた。
◇◇◇
大猪に乗った摩利支天の加護を受けて『剣豪将軍、足利-義輝』は兵を殺して蹂躙し、逃げた百武-賢兼を地の果てまで追い駆けて突き刺した。
噂では、龍造寺軍の先鋒8,000人を輝ノ介一人で皆殺しにした事になっていた。
この偉業は戦の初代尊氏に勝るとも劣らない。
噂には尾鰭が付いて大きくなってゆく。
尊氏の生まれ代わり。
百鬼の剣豪将軍。
矢当たらずの人食い鬼。
キリシタン喰いの大天狗。
不死の酒天童子。
地獄より蘇らせた信照前鬼。
地獄の番人、閻魔様などだ。
矢切り公方や鉄武者などという普通な噂もあったが、矢を貫いても刀で二つに引き裂いても死なずに蘇ってくるとか。
キリシタンを大きな口で一飲みにしたとか。
山から山を一飛びしたとか。
奇想天外なモノもあった。
どこの化け物だよ?
実際に幕府軍が斬殺する姿を城から見ていた梶山城と池田城の兵の方も震え上がった。
その話を聞いた東松浦党波多-親と家老も肝を冷やした。
幕府に逆らうとどうなるかを悟った。
有無を言わせず領内のキリシタンを強引に閉じ込め、「逆らう者は手討ちにしろ」と命じて、急ぎ参陣するように各領主に命じた。
応じない者は叩き潰す。
そんな気迫が伝わったのか、それとも惨状を聞いて震え上がったのか、波多-親の家臣でも属国でもないと意地を張っていた鶴田-前らも応じてきた。
この幕府はヤバいと思われたようだ。
翌日、東松浦党は5,000人の兵を引き連れて進軍して来た平戸・伊万里松浦党と対峙した。
東松浦党は波多城付近に集結し、幕府軍はその後ろに控えた。
鉄砲隊を除くと幕府軍はかなり疲弊していたのだ。
負傷者も多く、まともに戦えるのは半数の1,000人くらいだった。
さて、平戸・伊万里松浦党だが伊万里を出発し、波多城から2里 (8km)ほどの椎ノ峰 (南波多町府招)辺りで滞陣して夜明けを待った。
しかし、夜が明けても寄せて来ない。
なんと日が昇る前に戦わずに撤退していた。
多久から伊万里往還を通って龍造寺軍の敗退が伝わったのだろう。
輝ノ介は重橋本城、法行城、波多城、田中城の四城に東松浦党の2,000人を残して、唐津往還を下って多久に兵を向けたが、多久に入ると龍造寺-長信を筆頭に領主達が雁首を揃えて降伏してきた。
前日の夕刻に龍造寺-隆信の本隊が多久郡に入って来なかったからだ。
龍造寺軍は多久郡の手前まで来ていたのだが、小河-信安の訃報を聞いて、千葉城まで戻ってしまったのだ。
後詰めを任された小河-信安は東肥前の武将らを連れて蓮池城から出発すると、肥前国府を通り過ぎた辺りで春日山城が襲われたのを聞いた。
春日山城は肥前国府の北にある與止日女神社の北東の山の中にある山城であり、小河-信安の居城である。
この決戦の為に春日山城からも手勢を送った事が仇となった。
手薄になったと思った山内二十六衆の神代-勝利らが夜明けに奇襲を掛けた。
攻められると思っていなかったのか、春日山勢は完全な不意打ちに対応できず、小河-信安の一族の首がすべて狩られた。
城の強襲を知った小河-信安は軍を反転して、春日山城の救援に向かった。
最後方の本陣が先頭を走るという歪な陣形になり、小河-信安は気が急っていたのか、自らが先陣を切ったような形で狭い山道を進んだ。
春日山城を落とした神代-勝利も自ら斥候に出るという暴挙をすると、小河-信安と神代-勝利が狭い山道で鉢合わせた。
ここで小河-信安も豪の者であった事が不幸を招いた。
神代-勝利は剣術指南役から出世した達人だ。
二人は決闘に至った。
狭い山道では家臣も援護できず、ほとんど一騎打ちだったと言う。
そして、小河-信安は神代-勝利の槍に突かれ、槍持ちとして同行していた河浪駿河守に首を打ち取られた。
後詰めの大将が討ち取られた。
後詰めは甘南備城に引き返した。
こうなると北から山内二十六衆にいつ襲われるか判らない。
東肥前の領主達は神代-勝利を警戒し、甘南備城辺りに兵2,000人余りを残すと、自領を守る為に引き上げてしまった。
先駆け8,000兵が全滅し、後詰めの5,000兵は崩壊して、残る2,000兵も動けない。
龍造寺軍は1万5,000人余りへと目減りしたのだ。
しかも、後ろで暴れる神代-勝利の動向を気に掛けねばならない。
龍造寺-隆信は千葉城に入って、周辺の村々から兵をかき集める事にした。
「殿、多久に入らねば、長信を見捨てる事になります」
「武将達が動揺しておる。戦の最中に裏切られては一溜りもない」
「なぁ、なるほど。そういう意味でございましたか」
「直茂、何か策はないか?」
「幕府軍はキリシタンを皆殺しに致しました。幕府軍が来れば、キリシタンは皆殺しにされると噂を流せば、多くのキリシタンが参陣してくれるでしょう」
「おぉ、2万か、3万は集まりそうだな」
「おそらく、それ以上かと」
そんな密議があったと言う。
龍造寺-隆信は生まれた時から主君や同輩の武将や家臣らに裏切られて猜疑心の塊になっている。
味方の家臣は有利と思っている内は裏切らないが、戦況が不利になると味方も信じられないようだ。
戦況は圧倒的に幕府軍が有利になり、兵力も互角になれば戦えない。
龍造寺-隆信が千葉城に引き返し、隆信は弟の長信を見捨てた。
だがしかし、見捨てられた龍造寺-長信ら多久郡の領主達も生き延びる策を考えねばならない。
龍造寺家を残すには、幕府に降伏するしかないと考えたようだ。
降ってきた長信を見て、輝ノ介は詰まらなそうに「大義である」と言ったのみだった。
三好-長慶と対峙している時、輝ノ介も自分を見限って去ってゆく武将を多く見て来た。
潮の流れを感じ取った。
肥前の熊という異名を持つ隆信が勝つには、多久郡に入って決戦に挑むしか勝機はない。
輝ノ介は一騎打ちを挑んで勝つくらいの気概を見せて欲しかったのだろう。
このまま押し進め、千葉城を取り囲んでも輝ノ介が望む戦いはないと悟ったのだ。
あっさりと指揮権を秀吉に返した。
また、長信らは幕府に降る際にキリシタンを隔離などやっている暇もないのでキリシタンを仏教徒に帰宗を命じた。
寺も大喜びで十字架を降ろして燃やし、燃やしたハズの御本尊を蔵から取り出して改宗などなかった事にしたのだ。
そして、村人らに「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」、「観自在菩薩」などと唱えさせて帰宗を許した。
唱えられない者は村から追放である。
唐津往還には、佐嘉村中城を目指して追放民となったキリシタンの長い列が生まれた。
秀吉は幕府軍の本隊を多久郡の梶峰城の多久-宗利の旧館跡に置いた。
丁度、北東1里 (3.9km)に晴気城が見えた。
晴気城は晴気山の山頂にある山城であり、松尾山を挟んで千葉城から1里余りの位置にある。
鎌倉時代に初代千葉-宗胤が下向して最初に築いたのが晴気城とされ、後に千葉城を築城したと言う。
千葉城からも晴気城がよく見えるのだ。
攻め手は波多-親らの東松浦党と寝返った龍造寺-長信ら多久勢で行った。
但し、隣の山から迫撃砲20丁が援護射撃をする。
標高は同じくらいだ。
東松浦党と多久勢で隣山の敵を蹴散らさせて、迫撃砲部隊は悠々と夜中の内に山頂に登った。
十分に日が昇ってから晴気城に砲撃を開始した。
主に門や櫓を狙い、最後に山城を狙った。
東松浦党は北の笠頭山方面から攻め、多久勢は南の麓から攻め上った。
防戦する拠点を空からの砲撃で壊されると抵抗らしい抵抗もできない。
ほとんどの時間が白兵戦の時間に費やされた。
最後に城が砲撃で壊されてゆくと抵抗する気を失って降伏した。
一刻 (2時間)ほどで陥落した。
俺が名護屋に到着したのは、その日の夕方であった。
龍造寺家の家老らの心が折られたと知った隆信は千葉城から側近27人を連れて逃げ出して平戸方面に逃亡した。
残された者らはこぞって降伏したが秀吉は認めず、領内のキリシタンをどうにかした後に話し合いに応じると断った。
筑前などの処理も終わり、九州連合が迫ってくる。
東肥前の領主達が龍造寺-長信を真似て、キリシタン追放を行った。
5万人を超えるキリシタンが平戸へ向けて避難を開始して騒然となっていた。
「官兵衛、どうしてお前はそんな派手な策が好きなのだ」
「拙かったですか?」
「拙くはないが終わった後にどう処理するつもりだ?」
「従えば助け、逆らうならば、根絶やしで構わないのではございませんか」
黒田-官兵衛が“どうしてそんな事を聞くのか”と首を捻った。
播磨人は“知恵があって、しかも義理は知らない。親は子をだまし、子は親を欺く”と言われるように打算的な癖に気性が荒い。
裏切る事や騙す事に悪意がなく、立場を変える事にこだわりがない。
臨機応変とも言う。
だから、報復にも余念がなく、手荒な事を平気でする。
これは土地特有の『文化違い』という奴だ。
特に黒田家は目薬を売って財を貯めた家であり、商人の気質もある。
その為だろうか?
官兵衛は長信のキリシタン追放を見て、平戸にキリシタンを追い詰める策を秀吉に進言した。
小一郎も効果があると思ったのか、反対しなかった。
間違いなく効果は絶大だ。
キリシタンが追い詰められる。
そして、予定通りにフランシスコ・カブラル司祭はイスパニアの艦隊に助けを求めるに違いない。
えっ、何故追い詰められているかって?
東肥前でキリシタンを擁護する領主らは龍造寺-隆信を追って平戸へ移動している。
佐嘉郡から平戸への通り道に当たる藤津郡の後藤-貴明がどう動くかは判っていないが、賛同する者は付いて行くだろう。
その数は延べ5万人を超えている。
また、彼杵郡(長崎)の大村-純忠は有馬-義貞を相手に勇戦していたが、幕府軍が勝ったあたりから押し返されている。
敗北すれば、平戸に逃げるかもしれない。
さらに増えるかもしれない。
30万石程度と言われる肥前だが、実際には50万人くらいが暮らしており、10人に一人が平戸を目指している。
数だけ見れば、大軍のように思えるかもしれない。
そもそも武器はあるのか?
それだけの数を食わせる食糧の備蓄はあるのか?
当然ない。
大軍を抱えて10日と待たずに食糧の底が見えるに違いない。
飢えた民が暴徒と化して押し戻してくるかもしれないが、国見岳などがある向霧立山地(1,600m~1,700mの山地)が邪魔をする。
実際に通れるのは東と南に延びる海沿いの平戸街道のみであり、こちらの街道周辺を九州連合の兵に守らせるだけでキリシタンは逃げられない。
後は勝手に飢えて死ぬ。
幕府の水軍で海上からちょっと手伝って上げればいい。
リスクが少なく、ハイリターンな策だ。
キリシタンに最も過酷な策を官兵衛は進言した。
少ない食糧を分け合ったとしても、心が折れるのに3ヶ月を越えない。
救援を求められてイスパニアの艦隊が来るのが遅くとも1ヶ月後だ。
短期決戦を望む俺の心情を理解している。
小一郎も賛同した。
だが、無闇に殺したくないと思う温情はまったく理解してくれない。
5万人を大虐殺したという汚名を背負うのは俺だぞ。
キリスト教の敵国としてツケを払わされるのは子孫らだぞ。
「信照様。宣教師らが逃げ出さない為に、また食糧の調達を困難にする為にも、ポルトガル船が出航の後に平戸の舟を攻撃するご許可を」
「徹底するつもりか?」
「舟があれば、漁ができます。密脱走、密交易も可能です」
「春の茶交易船が来たらどうする?」
「先にイスパニア艦隊を叩けるのが上策ですが、交易の船にどれだけの食糧が乗っているでしょうか。また、ポルトガル船やジャンク船の大砲は脅威ではございません。名護屋に誘導致します。逆らうならば、拿捕して我が物にしても良いのではございませんか」
「判った。従うならば、茶の交易を許してやる」
「おぉ。流石。信照様はお優しい上に巧妙でございますな。そこまで思い付きませんでした」
「特に宣教師と商人を裂くつもりではないぞ」
「そうでございますな」
判っております。
そんな顔で官兵衛が頷く。
まだ、若い癖に嫌な笑いをする。
どこまでも勝ちを目指し、宣教師に講和か徹底抗戦かを選択させるつもりなのだ。
まぁ、いいか。
南蛮船は拿捕した後に解放すれば問題ない。
フランシスコ・カブラル司祭がキリシタンを唆して叛乱を起こし、こちらは振り掛かる火の粉を払った事にしよう。
交易はこのまま続けたいと説き、こちらは被害者としてポルトガルの商人らに接しよう。
イスパニア艦隊を叩いた後でポルトガルの商船が茶を持って帰れば、ローマ教会と商人との間で争って面白い事になるかもしれない。
裂くつもりはないが、裂けてくれるとありがたい。
む~むむむ、無理だろうな。
皇帝ですら教皇に頭を下げる世界だ。
一介の商人らが対抗できる訳がない。
ただ、秀吉の時代にはオランダ商人が来ていた。
絶対に日の本との対立はイスパニアの大きな負担になっているハズだ。
イスパニアの太陽は沈む。
そして、宗教対立は起こる。
ほんの少しだけ対立が早まれば、ズル賢い欧州の商人はそれを利用する。
どうなる事やら?
そこで俺の手は届かない事を考えるのを止めた。
問題は平戸の宣教師だ。
妥協してくれれば、交易も続けられる可能性は高い。
たぶん、大丈夫だ。
しかし、5万人のキリシタンを大虐殺となれば、これは心証が悪すぎる。
あぁ、間違っても殉教を選ばないでくれよ。
◇◇◇
小河-信安の話には、春日山城を留守にしていた弟の左近大輔が神代-勝利の奇襲を受けて討たれた。
信安はこれを恨んで弔い合戦を挑んだが、自ら敵情視察の為に赴くと、勝利も自ら斥候に出ており、二人は狭い山道で遭遇して一騎打ちになったと言う。
弘治三年十月とも永禄元年8月16日ともある。
小説では、龍造寺-隆信は天文22年 (1553年)11月に『天下静謐』が発布されましたが、隆信は肥前で幕府を無視して暴れています。
しかし、神代-勝利を支援していた原田-隆種は、大内氏方の有力な国人領主の一人でしたが、史実では弘治3年(1557年)3月に大内義長が毛利元就に攻められて翌月自害すると、筑前の大内領は大友氏に組み入れられ、大友家の配下となります。
しかし、小説では『厳島の戦い』は弘治2年(1555年)10月1日に起こり、すぐに長門、石見、周防の三ヶ国が尼子の手に渡ります。
原田-隆種は一年早く大友家の配下となったのです。
この一年の違いで隆信と勝利の和睦が一度行われますが隆信が暗殺を企み、和睦が潰れました。
行け行けの隆信は大人しくできる訳もありません。
しかし、もう一方の勝利は原田-隆種からの支援を受けられないので大々的な攻勢に出られず、勝利は山に籠って防戦一方です。
春日山城を攻める余裕はない事になっております。
また、隆信もローマ教皇が信照を邪教徒と認定し、宣教師が態度を変える弘治4年(1557年)初頭まで東肥前の有力者に過ぎません。
永禄2年(1559年)10月に起こった『永禄の変』までの2年間が隆信が躍進した年になります。
史実では永禄の後半から天正までを掛けて隆信は肥前を手に入れますが、宣教師の思惑で短縮された事になっております。
尚、小河-信安の春日山城は金敷城山城の南、與止日女神社の北東にあり、春日山の石碑には、肥前唯一の霊山であり、元々は高木氏の城であり、弘治3年 (1557年)〔小説と史実では弘治の年数が違います〕に神代勢の攻勢で北方1500メートルに金敷峠にかけて屍山血河の山岳戦が展開されたと書かれてあります。
霊山と言うならば、中々に険しい山のような気がしますが、見ていないので何ともいえません。
可能ならば、一度訪れたいと思うばかりです。
(名古屋までなら一泊。無理をすれば日帰りもできますが、九州は遠いです)
◇◇◇
・多久郡?
戦国時代に多久郡は存在しなかったと思われます。
小城郡かもしれませんが、それでは有明海まで広がります。
内陸地に思えません。
唐津往還(唐津街道)の1つというイメージが欲しかったのです。
また、平安時代は高来郷(多久)と呼ばれていたので、高来郷の方が良かったかもしれませんが、高来郷にすると島原(高来郡)と間違えそうなので多久郡としております。
尚、多久宗直によって建久年間 (1190〜1199年)に多久氏館を築城しており、多久氏が住む土地として、『多久』と呼ばれていました。
しかし、郡にはなっておりません。




