閑話.光秀、変身(変態)。
(天文22年 (1553年)7月4日夕刻)
ドドッ、ドドドッ、ドドッ、十数頭の馬が勢いよく掛けて清洲に戻って来た。
馬を荒ぶらせて帰って来たのは春日井郡の視察に行っていた信長の一団であった。
光秀来訪を聞いた瞬間に信長がすぐに戻りたい気持ちを抑えつけ、足早に視察を終えて戻って来た。
「帰蝶、十兵衛を呼び出せ!」
城に戻った瞬間、信長が大声で叫ぶ。
十兵衛は幸いまだ美濃に戻っていなかった。
戻れなかった。
美濃から手紙が届いて安藤が十兵衛に謀反の疑いありと告発をしたと、叔父の光安から連絡が来たのだ。
利政は光安に十兵衛を登城させるように命じた。
同時に、「しばらく戻って来るな」と密命を受けたらしい。
十兵衛は察した。
利政は嫡男の高政を切らずに魯坊丸を受け入れさせて、織田家の後押しで家督を譲らせる事に固執していると。
それを望むのであれば、今の十兵衛は不要だった。
むしろ稲葉家と明智家の対立を呼ぶ不穏要因でしかない。
十兵衛は出奔する旨を固め、利政に許しを貰う為に清洲で返事を待っていたのだ。
「明智十兵衛、お呼びにより参上致しました」
「帰蝶は巧く誑かしたようだが、儂は帰蝶のように甘くないぞ」
「承知しております」
「何故、お市の名を出した」
「織田の姫と言っただけです。お市様の名は出しておりません」
「たわけ」
すわっと立ち上がって、どかっと十兵衛を蹴り付けた。
十兵衛の体が後ろに倒れる。
倒れた十兵衛の横腹を更に蹴り付ける。
「お主程の者がこの策の危険性に気付かぬハズがあらぬだろう。もしも公方様がお市を浅井家に嫁がせろと言えば、儂は断れんではないか?」
「そうならぬように」
「たわけ」
「信長様」
「公方様の気まぐれにお市を撒き込むな」
信長がもう一度蹴り付けた。
ぐほぉっと十兵衛がくの字に曲がって咳き込んだ。
それで信長の怒りは収まらない。
「連れて行け!」
近習の者が十兵衛を抱えて地下の牢屋に連れ出した。
ねずみが這い出しそうな薄暗い地下牢は信長が魯坊丸に知恵を搾り出させて作らせた拷問部屋だ。
まさか信長自身で使う事になるとは思わなかった。
だが、信長も人の子である。
僅かばかりの温情を与えた。
「帰蝶やれ!」
ばしん、馬の鞭で十兵衛を叩く。
天井から両手を吊るされた鎖で拘束され、上半身を剥ぎ取られた十兵衛の胸に鞭が当たる。
ぐわぁっ、叫ぶのを堪えて痛みに耐えた。
「帰蝶、手を休めるな」
「はい」
ばしん、ばしん、ばしん、帰蝶が左右十字に鞭を振るい続ける。
その度に十兵衛がぐわぁっと苦痛に顔を歪める。
帰蝶にこのように痛め付ける趣味はない。
信長にもない。
周りの異様な拷問道具を見るだけで背筋が寒くなる。
だが、今日の信長は目の色が違った。
お市を貶めた男に復讐する事に燃えていた。
付き合わされる帰蝶も堪ったものじゃない。
早く終わらせようと鞭を振るう。
十兵衛の胸に赤い線がいくつも走り、そのいくつかが裂けて鮮血が飛び出した。
十兵衛が耐えて小さく藻掻く。
その声だけが拷問部屋に響いた。
はぁはぁはぁ、鞭を振る帰蝶の腕が重くなって来た。
十兵衛の息も荒い。
顔は真っ赤だ。
ふふふ、信長が低く笑う。
「どうだ、少しは懲りたか?」
信長の声が聞こえていないのか、えへへへと呟きながら十兵衛の目が怪しく開いた。
「帰蝶様、もっともっと下さいませ」
へぇ?
帰蝶と信長の目が点になった。
十兵衛は苦しみもがいていたのではなく、喜びもがいていたのだ。
口がだらんと横に開き、涎もだらしなく流れている。
「もっとご褒美を下さい」
「ご、ご褒美?」
「平手打ちでも、蹴り付けても構いません。信長様でも結構です。あぁ~幸せでございます」
え~~~~~~~っ!?
十兵衛が幸せとか言う。
いや、いや、いや、ないないないと帰蝶が首を振る。
信長は固まったままだ。
「いくら虐めても仕返し下さらないので詰まらなかった。今、長年の夢が叶いました」
私を虐めていたのって、仕返しをしてほしかったの?
帰蝶はパニックだ。
どういう事?
異常体質など知らない。
妻の煕子の頬に残る疱瘡の跡など気にしない。
むしろ、それがいい。
美しい煕子が醜くなっている事に喜びを感じ、不満を激しい罵倒や頬を叩いてくれる妻を愛していた。
そして、美しい帰蝶が顔を歪めて十兵衛を打つ。
最高の幸せであった。
「帰蝶様、もっと、もっと、もっとご褒美を!」
ふるふると帰蝶が首を横に振った。
「殿、もう無理でございます。代わって下さい」
「おぉ、次は信長様でございますか。ありがとうございます」
「お前を喜ばすつもりない」
「先程の蹴りも痛うございました」
嬉しそうに言われても信長も困った。
帰蝶と信長が目を合わせる。
「流石に斎藤家の者を殺すのは拙うございます」
「では、どうすれば罰する事になるのだ」
「知りませんよ」
十兵衛は途轍もなく厄介な奴だと思った。
もう放置しかない。
「次はじらしでございますか」
「…………」
「…………」
単に引いただけだ。
だが、何をしても喜ばせてしまうらしい。
責めていた信長と帰蝶の方がぐったりとしていた。
怒る気力も失せた。
信長は「髪を剃っておけ」と言いつけると帰蝶を伴って部屋を出た。
もう変態と関わりたくなかったのである。
翌日、長門守が部屋を開けて十兵衛は解放された。
「信長様からお達しだ。十日以内に尾張から立ち去るように。また、お市様に近付く事を禁止する。近付けば、その場で首を刎ねるように命じてある」
「判りました」
「達者で暮らせ」
清洲城を出た先には果心-居士が待っていた。
加藤-三郎左衛門(三雲-三郎左衛門)らの尋問がまだ残っているらしい。
羽城に連れて来られると、十兵衛と利三は自白剤入りのキツい酒を呑まされて、洗いざらい吐かされた。
すぐに、がはははと大声で笑いながら十兵衛と利三が出来上がっていた。
「魯坊丸様が天下に号令する日を見たいのでございます」
「日ノ本の夜明けは近い」
「そうだ! 天下を知るのは魯坊丸様お一人だ」
「付いて行きますぞ。十兵衛様」
十兵衛は具体的に魯坊丸の将来を語る。
加藤らも大喜びだ。
昼間から飲み始めた宴会は一晩中続いた。
「魯坊丸様」
「加藤、どうかしたか?」
「十兵衛を調べました」
「そうか」
「良からぬ事を考えているようならば、密かに処分しろとのご命令でございましたが」
「何か?」
「できますれば、仲間に引き入れたく存じ上げます」
魯坊丸の目が点になった。
普段は新しい仲間を入れるのに許可など貰わない加藤であったが、『処分しろ』と言われた者を勝手に仲間にできないと思ったらしい。
「悪いがそれは断る。あいつだけは性に合わん」
「残念でございます。魯坊丸様に熱狂した中々に面白き御仁とお見受けしました」
「加藤に好かれるのは嬉しいが、十兵衛に好かれるのは背筋が寒くなる」
「ははは、魯坊丸様でも苦手がございましたか」
「俺も人の子だ」
「承知致しました。諦めて放逐しておきます」
加藤も変態を側に置きたくないという魯坊丸の願いを承知してくれた。
没案を復活。




