32.光秀は世を乱す者が大嫌い。
(時間は少し遡り、天文22年(1553年)6月12日)
草木は茂り、木々は風になびいてがさがさと揺れる。
馬が気持ちよく、ぱっかぱっかと蹄の音を鳴らしていた。
十兵衛(明智-光秀)は馬に任せて体を揺らした。
見慣れた風景に肩の力を抜いていた。
偶には皆の様子も見たい。
そう思って、末森城に寄った後に東美濃を通って城に一度戻ることにした。
緑深い山々を抜けて峠を越えると、少し広い平原に出る。
十兵衛の眼下には見慣れた可児川が見え、その先に木曽川が並んで流れていた。
そこから美しい山々の景色が十兵衛を迎えてくれる。
戻ってきた。
やっと顔を綻ばせた。
「十兵衛様、お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
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水田で雑草取りをしていた女達が十兵衛を見つけると挨拶をした。
一人が挨拶をすると、次々に我も我もと声を上げる。
遠くの者は手を振って叫んでいる。
「仕事の邪魔をしては悪い。作業を続けよ」
「はい」
「いつもお気遣いありがとうございます」
「当然のことだ」
苗と苗の間を掃くように草取り束子(デッキブラシ)を持って女達が歩いてゆく。
それだけで雑草が取れてゆく。
均等に植えるだけでこんな事ができる。
目からウロコだ。
草取り束子は熱田で普通に売られており、石や床の掃除でも使われている。
水田の奇妙な光景を見て、十兵衛が百姓に聞いてみた。
特に秘密と言う訳でもないらしい。
川から水路を引き、水門も作り、水田を綺麗に整える。
簡単なようで難しい。
色々と聞いてきたが、全てをやるのは難しい。
出来る所から領民にやって貰った。
「どうだ、水田に均等に苗を植え直してみた感じは?」
「大変にすくすくと育っております」
「草取りで腰が痛くならないので楽です」
「水の管理もちゃんとやっております」
「この子、朝が辛いで嘆いていました」
「ここで言うな」
ははは、仲間から笑いが出るのは良い事だ。
「日々、水を抜くのは大変か?」
「はい、石をどけても簡単に水が田んぼから抜けてくれません。中干しでしたか? 巧くできているのか判りません」
「そうか」
やはり水の管理は難しいか。
一度、熱田に習いに行かせた方がいいかもしれない。
十兵衛はそんな事を考えながら、女子達と話す。
十兵衛の叔父、明智-光安の居城である明智城は可児郡明智庄にあり、すぐ見える瀬田山に建っていた。
明智の所領はこの可児川の両岸に広がる田畑だ。
と言って、雨が降れば、川の近くはいつ氾濫するか判らない。
やはり田畑は少し高くなった所に作ってある。
この明智庄では山からちょろちょろと流れてくる小川から水を引いて水田を作っていた。
水田は何も魯坊丸の専売特許ではない。
弥生の時代から水田はある。
足利(室町)の時代になって新しい工法が生まれ、水田が見直された。
勿論、デメリットも多い。
種を蒔けば、収穫までほとんど手を入れない田(陸稲)に比べ、川が氾濫すると一緒に流されてしまう。
だから、水田を避ける者は多い。
熱田ではそれを水路と水門で解決していた。
十兵衛は川の氾濫の被害に遭わないように、それでいて水田にする為に小さな小川から水を引くことした。
それで収穫量が少し増えた。
(斎藤)利政の『蝮土』(肥料)を入れることで更に増えた。
そんな十兵衛の自負を吹き飛ばした。
水田はそれらの問題を全て解決し、収穫量も比較にならない。
熱田は10年先を行っていた。
脱帽だった。
悔しかった。
だが、他の国の視察団は『蝮土』(肥料)に気を取られ、水田(乾田と水路と水門)を気に掛ける者はいなかった。
十兵衛は六角家と北条家の家臣を見下すことで溜飲を下げた。
「十兵衛様!」
後ろから馬を引きながら走ってくる者がいた。
懐かしい顔だった。
「おぉ、内蔵助(斎藤-利三)か、よう戻って来てくれた」
「京より戻ってきました」
「待っておった」
利三は利政に斎藤家の本家を乗っ取られた分家筋であり、本家と共に利政と敵対した。
殺されても仕方ない。
しかし、利三の父である利賢は母に稲葉通以の娘を持ち、前妻に本家室町幕府政所代を務めた蜷川親順の娘を嫁にしており、後妻に明智-光継の娘を嫁にした事で許され、明智家の家老となった。
幼かった利三は親族の稲葉-良通に軍学を学ぶと、京に赴いて勉学に励んでいた。
京で世話になっていた場所は、母の後の嫁ぎ先である幕府奉公衆の石谷-光政の家であった。
十兵衛にとって6歳下の利三は子分のような存在であり、幕府とのパイプとなる貴重な戦力と考えていた。
「兄上の頼辰殿の婿入り、めでたいな」
「はい、幕府奉公衆の石谷家として、公方様を支えると意気込んでおります」
「頼りにする。そして、同時にお前は明智家家老の斎藤家の次期当主だ。当てにするぞ」
「お任せ下さい」
「まずは叔父上に帰国の挨拶だ」
十兵衛も馬を降りて歩き始めた。
左手の木曽川の方に目を向けると、兼山の方に烏峰城(金山城)が見える。
斎藤道三の猶子で元関白近衛稙家の庶子であった(斎藤)正義の居城であった。
正義は武勇に優れ、近衛家という血統の良さから大納言まで昇進し、一時は守護土岐-頼芸を勝る権威を持った。
しかし、それが気にいらなかったのか、(土岐)頼芸は正義の家臣であった久々利-頼興と謀って正義を酒宴に呼んで毒殺したのだ。
守護は国を守るべき者なのに脅威と感じれば、家臣筋であっても始末する。
守護とは思えない悪行だ。
(近衛)稙家からすれば、子供を殺され、朝廷からすれば、大納言を亡き者にされた。
これで頼芸の評判は最悪だ。
紆余曲折の後、頼芸が利政に美濃を追放されても、朝廷が冷たい態度を取り続けるのも仕方ない。
「利政様は正義様が討たれるのを黙認したのも、いずれは再び頼芸を追放する布石だったのかしれん」
「まず、守護様の信用を落とさないと、他家が頼芸を担いで攻めてくる訳ですね」
「利政様は、それを一度目の追放で学んだのだ」
「なるほど」
「次は断絶した一色義貫流の血脈を深芳野が引いていることから喜平次様に名門の一色家の名を継がせるように画策している」
「それはどういう意味ですか?」
「判らん。もしかすると六角家と若狭武田家の力を借りて丹後の一色家を乗っ取るつもりかもしれん」
「まさか?」
十兵衛も真の意図は判らなかった。
次男の孫四郎に一色家を名乗らせるのならば、家督を次男に譲ると言う意味だろう。
しかし、三男の喜平次となると別だ。
もしかすると、守護土岐家に変わって、一色家となった喜平次を守護に据えようと考えていたのかもしれない。
腹の底が全く見えない利政であった。
「私では利政様の深謀遠慮に遠く及ばん」
「二月前は利政様では美濃が持たんと息を荒くされておりましたが、随分と変わられましたな」
「私が愚かだったのだ」
清洲騒動の時のみ、十兵衛は美濃斎藤家が織田家に勝てる唯一のチャンスであったことは今でも疑っていない。
だが、それを理解していない斎藤家の家臣らでは勝ちきれない。
それを知った。
織田家は強敵だ。
対する美濃斎藤家は弱者であり、乾坤一擲の思いで攻めなければ勝ちを拾えない。
織田家の火薬玉や飛び魚の前に醜態を晒すだけだっただろう。
勝てないと踏んで利政は戦いを避けた。
あれが正解だ。
十兵衛は自分が愚かだったことを悟った。
「十兵衛様が愚かならば、美濃に優秀な者がいないことになってしまいます」
「私など大した事はない。尾張に行けば、私より優秀な者がごろごろといた。天下を語れる者があれほど多くいる国は他にない。織田家から学ぶことが多かった」
「なんとなくですが、判るような気が致します」
「ほぉ、何が判る?」
「二条鴨川の河原で、織田魯坊丸様の行列を三好軍が襲った時の事です。大地から火の手が上がり、三好の兵が薙ぎ倒されるのを見ました」
「ほぉ、それは羨ましいな。私も見てみたかった」
「越後長尾家の家臣は魯坊丸様を不動明王になぞらえ、『一刀萬殺』の剣と呼び、吉田-兼右様は『神々は仏様が姿を変えて我々のもとに現れているなどと嘘を捏造する糞坊主どもを滅する為に、神が使わせた神子である』と叫んでおりました。私は時代の変革を感じた気が致しました。今の美濃では織田家に勝てません」
「織田に勝てないか?」
「初戦の戦いも見ましたが見事でした。三好家を最初から最後まで振り回しておりました。千に満たない少数で万を超える大軍をものともしない。魯坊丸様は天が遣わした神子様です。間違いございません。いずれは糞坊主共々、この世の腐った奴らを共々に薙ぎ倒すに違いありません」
「この世の腐った者か?」
「そうでございます」
「確かにそうだな。この長きに渡る戦の世を終わらせるのは魯坊丸様かもしれん」
「そう思われますか?」
「思う。思うぞ。利三」
「では、十兵衛様は糞坊主どもをどうなさるべきとお考えですか?」
「滅せよと言わんが、世を乱す原因の1つである。一度は滅ぼしておくのがよかろう」
「そう言って頂き嬉しゅうございます。十兵衛様に尽くさせて頂きます」
「随分と唯一神道(吉田神道)にかぶれたな」
「かぶれもうした」
「ふふふ、まぁよい。とにかく、手を貸せ」
「良き、日の本を作りましょう」
十兵衛は利三という家臣を連れて城に戻り、翌日には稲葉山城へ戻っていった。
吉田神道では『神々は唯一の存在であり、仏様の化身ではない』と言っております。
光秀は加持祈祷で何度も吉田兼見を頼んでいることから、かなり親しい間柄であったことは疑いようもありません。
つまり、光秀は廃仏派だったのです。
そう考えると、丹波攻略で帝の元に寺が潰されるので助けて欲しいという手紙が届き、帝から信長に光秀を何とかして欲しいという書状が届いた理由も頷けます。
信長は寺を壊す光秀を止めたようですが、それを止めた気配はありません。
むしろ、舐められております。
信長を恐れてひれ伏していたのは後世の想像でしょう。
また、比叡山延暦寺を勧めたのは光秀であってもおかしくありません。
反対するなんてあり得ません。
実際に率先して殺しておりました。
一方、秀吉はこっそりと逃がしていたくらいです。
光秀は領民に優しい領主ですが、やる時はやる怖い一面もあったのです。
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【水田】
稲作は縄文時代から行われており、弥生時代には入って水田稲作に代わった。
主に深田・泥田が多かったのでないだろうか。
水が冷たい冷水では稲の生育が遅くなる。
そこで稗なども一緒に水田で生育されていたと思われる。
弥生時代では淡水湖の湖畔でもっとも盛んに作られた。
奈良時代は開墾が進んだ。
律令制度の土地公有の原則を破る法ができた為に、有力な貴族や寺社は先を争って開墾を奨めた。
ここで広がったのが陸稲であった。
収穫量と味が落ちるが、水田を作らずに畑に作付けできることから育成が容易であった。
草取りくらいしか手入れの必要ない。
しかも苗の育成や田植えなどの手間のかかる作業を省けるという利点があった。
平安時代になると、再び水田が見直される。
治水が進み、水稲が見直されたようだ。
この頃の水田はほとんどが湿田であり、ずっと水に付けたままになる。
現代でも棚田は湿田が多い。
乾田に比べて、生産性は落ちるがきれいで栄養たっぷりの水で、稲が根をしっかり張れる深い土のおかげで、美味しくて上質な米ができる。
(乾田とは耕す時や稲刈りの時などに水を抜いて乾かすことの出来る水田だ)
平安時代の貴族達は美食に目覚めたのだろうか?
(まさかね?)
鎌倉時代になると武士の時代になり、より多くの米が生産された。
牛や馬の力を利用して土地を耕す傾向が見られるようになる。
鎌、鍬、鋤なども登場し、農機具の発展が著しい。
室町時代になると、四角形に近い水田も現れるようになります。
さらに、東日本を中心に夏は水田で水稲を栽培し、冬は水を落として畑として麦を栽培する。
米麦二毛作が行われるようになったようです。
水田にすると連作障害がなくなることに気付いていたのでしょうか?
この頃になると、陸稲、湿田、乾田が乱立する。
どれもメリットとデメリットがあり、どれが優れているかは比較できない。
陸稲は種を蒔けば、収穫まで草取りくらいしか手入れの必要がない。
大変楽だ。
しかも水害を受けない。
しかし、収穫量が水田の半分にも減る。
しかも毎年植えると収穫がさらに減っていく。
湿田は水を抜くことが出来ない水田でいわば沼地に種をばら蒔いているだけである。
ちょっと雨が多いと水害を受けて全滅する。
お米が美味しくなるメリットがあるが、この時代に美食を気に掛ける方がどれほどいただろうか?
乾田は収穫量が多い。
これに尽きる。
水を入れる事で陸生の草を窒息死させ、水を抜く事で水棲の草を枯らす事が出来る。
しかし、時期の見定めと水管理が上手くない上に、川の近くだと氾濫などで全滅してしまう。
治水と水路の整備が整ってはじめて実現できるようになってゆく。
江戸時代も埋め立てによる開拓が盛んになるが、どの耕作方法を使うかは藩によって違った。
江戸時代の農耕の発展は鉄を使った農機具が使われるようになったことだ。
これによって生産性が向上した。
鉄は平安時代から普通にあったハズなのに、どうしてここまで遅かったのかと思う。
(鉄が貴重だったのは判るが、これほど時間が掛かったのは不思議だ))
そして、明治になって正条植が始まった。
間隔を空けて植えて行くだけの簡単なことであったが、活気的だった。
様々な機械で草取りが楽になり、重労働から解放された。
そして、昭和。
コンバインの登場で農作業は1つの完成形を迎えた。
(注)感想や訂正でアイデアを頂いてありがとうございます。
作中では、簡潔に書くのが難しいので、こちらに書かせて頂きました。
水田だけでも奥が深いです。
いつもアドバイスをありがとうございます。




