第十五話 記憶
茹だるような熱気。
未だに太陽は燦々と頭上を照らしており、忌々しいことこの上ない。
「あっちぃ……」
希莉と共に近所の公園にやって来ていた吾郎は、ぼやいた。
「いやー、でも本当にあっついねー」
楽しそうに言ったゴキブリの精霊は、額の汗を拭いながら笑っている。
「で? こんなくそ暑い中、なんで公園に来たがったんだ?」
「え?」
「いや、そんな不思議そうな顔されるとは思わなかったわ」
吾郎は一体何を言っているの?
希莉は、そんな表情をしていた。
「えーっ!? だってほらっ!」
そう言って両手を広げた希莉だったが、吾郎には彼女が何を言っているのか、全然分からない。
彼女は胸を張って、真剣な表情で公園の広場に目を向けた。
「は?」
「いや! ほらほら!」
「いや何が?」
意味が分からない。
希莉の視線の先を追っても、噴水の周りではしゃぎ回る子供達の姿があるのみ。
(いやぁ、子供は元気だなぁ)
そんな感想しか出てこない吾郎である。
「こんな、その、なんていうか! 楽しそうな!」
目を輝かせ、興奮気味に語る彼女は、上手く言葉に出来ずにもどかしさを覚えていた。
「ほら! みんな笑ってるし! こう水は綺麗だし! 葉っぱも緑色で鮮やか!」
彼女は全身で風を感じながら、吾郎の瞳を真っすぐに見詰めた。
「吾郎はそうは思わない?」
眩しい……それは本当に眩しい笑顔だった。
「……」
直視することが恥ずかしいぐらいの純真さ。
「いやまぁ……言われてみれば、そうかもな」
その時、吾郎は空から聞こえてきた、ジャンボジェットの音に顔をしかめた。
ミンミンと喧しい蝉の声と合わさり、非常にうるさい。
だが。
「おおぉっ! でっかいなぁ! おっきい音!」
そんな騒音ですら希莉は楽しんで見せた。
まるで子供のような、はしゃぎようだ。
(なんというか……やっぱりこいつは幼いな)
そんなことを改めて思う吾郎。
いや、幼い、というよりは純粋なのだろう。
希莉が吾郎の前に現れてから、それなりに時が経つが、こいつは本当に色んなことを楽しんでいる、と常々感じる。
それは人間の苦悩をまだ知らないからかもしれないし、そもそも精霊というのは、そういう存在なのかもしれない。
あらゆる物事に好奇心の瞳を向け、世界を甘受する。
ある意味では……希莉はいつも一所懸命だった。
「……」
いつの日か……吾郎達が忘れてしまった『大切な何か』を、希莉はまだ持っているのかもしれない。
吾郎はふと、そんなことを思った。
「? どうしたの、吾郎? ぼーっとして」
「いや……」
吾郎にはなんだか突然希莉が、ひどく眩しく見えたのだ。
それは類希な美少女である、ということだけが理由では無い。
夏の暑さも。
どこにでもあるような噴水の水飛沫も。
木々の緑も。
空を横切る騒々しい飛行機の音も。
例えそれが普通の人達がつまらないと感じるような些事であっても。
彼女にとっては興味深く、そして愛すべきものであるのだろう。
そんな希莉の姿が、とても美しく、魅力的であるように吾郎は思った。
☆ ☆ ☆
その日の夜、吾郎は家の仏壇の前で、黙祷を捧げていた。
遺影には、若くしてこの世を去った吾郎の母親の笑顔がある。
(母さんが死んでから、もう8年、か)
今でも母のことはよく覚えている。
優しい声も。
美味しい手料理も。
ちょっとドジな所も。
瞳を閉じれば様々な思い出と共に、想起される美しい日々。
吾郎が瞑目していると、ふと隣に気配を感じた。
目を開いた吾郎の視界には、吾郎と同じように瞳を閉じた希莉の姿があった。
心の繋がりがあるからか。
希莉が軽い気持ちで手を合わせている訳ではないことを感じた。
彼女は吾郎の気持ちを、多少なりに理解することが、感じることが、出来る。
吾郎の悲しみや憂いを感じ取った希莉も、吾郎の母親を親身に悼んでくれていた。
「ねぇ、吾郎?」
「……なんだ」
「……お母さんの話、聞かせてよ」
吾郎の瞳を上目づかいで覗き込む希莉。
彼女は真剣だった。
「そう、だな」
たまには昔を思い出すのも悪くないだろう。
――時々。
今日みたいに、ふと母親が恋しくなることがある。
唐突に寂しさに苛まれ、行き場のない思いを抱えたまま眠れぬ夜を過ごす。
どうしようもない気持ちを吐き出す術もなく、一人で孤独に耐えていた。
だけど――今日は一人じゃなかった。
心のどこかで誰かに母の話を聞いてもらいたい、と。
吾郎は自覚のないままに、願っていたのかもしれない。
「いいぞ」
「ありがとう」
ありがとう、か。
(こっちこそ、な)
吾郎は希莉に母の話をして――気づけば、ぐっすりと。
心地よい気持ちで眠りについていた。
☆ ☆ ☆
それは吾郎にとっては遠い昔の記憶。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
俯き、唇を噛みしめる姉の姿を見上げながら、幼い吾郎はゆっくりと尋ねた。
「お母さんはどこに行っちゃったの?」
「……」
だが沙耶は何も答えてはくれない。
普段は明るく、活発なはずの姉の苦しそうな表情だけが吾郎に対する唯一の回答だった。
姉のそんな姿を見ているだけで吾郎は胸が苦しくなり、際限の無い不安が頭の中を埋め尽くす。
大好きな姉の悲壮な姿を見ている内に、次第に吾郎の瞳は虚空を彷徨うのみになった。
そんな自分の娘と息子を眺めていた幸宏が静かに呟いた。
「吾郎……お母さんは遠くに行ってしまったんだよ」
自身の悲しみを押し殺し、努めて優しく幸宏は息子に言い聞かせた。
「いつ帰ってくるの?」
無垢な少年の質問に答える度に、妻がこの世には存在しない、という現実を確認しながら。
胸が裂けそうになるほどの痛みを堪え、埋められない喪失感に押しつぶされそうになりながら。
それでも涙一つ見せずに幸弘は言った。
「もう……帰ってこないんだ」
歪な笑顔を顔に張り付けた幸弘。
そんな父親を茫然と吾郎は見上げていた。
「…………なんで……だって……」
死。
それをまだしっかりと理解出来ない少年は困惑の表情で口を開く。
「お姉ちゃん……まだ結婚してないのに」
「……っ!」
「結婚?」
吾郎の言葉に肩を震わせる娘の姿を横目に、首を傾げた幸宏が尋ねた。
「お母さん、お姉ちゃんの花嫁姿が楽しみだって。前に言ってたもん。お姉ちゃんの花嫁姿と、孫の姿を見るまで生きるんだ、って」
幸弘は静かに顔を伏せた。
「そうか」
「もうスピーチも考えてあるって」
「はは……自分の妻ながら気の早い話だな」
「言ってた……言ってたんだもん……っ」
「……そう、か」
突如郷田家を襲った不幸な出来事。
吾郎はまだまだお母さんに言いたいことが沢山あった。
もっともっと話したいことがいっぱいあったのだ。
だけどもう、それを伝える相手はこの世にはいなくて。
残ったのは未練と悲しみ。
それはきっと吾郎だけじゃない。
お姉ちゃんだって。
お父さんだって。
「……ひっぐ」
吾郎の瞳からはゆっくりと、しかしとめどなく涙が溢れ出してくる。
底知れぬ悲しみの中、
「お母さん……」
少年の小さな呟きだけが暗い病院の廊下に寂しく響いていた。




