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5. 剣胼胝の手

 ユージーン様が屋敷へ来たのは、その週の終わりである。


 侯爵家の馬車が門前に停まったとき、屋敷が静かにざわめいた。婚約者様のご訪問である。誰も、その言葉の座りの悪さを口にしない。


 私は鏡の前で襟元を直した。十七歳の部屋の姿見は、二十九歳を映すには、すこし小さい。


 応接間の掛け時計が、こつ、こつ、と時間を積んでいく。茶が冷めていく速度で、彼の勇気も冷めていくのが見えた。だから彼は、冷め切る前に言ったのだと思う。


「質問に、答えてもらう。全部合っていたら――考えてもいい」


 考えてもいい、の主語も目的語も曖昧だったが、私は頷いた。十二年ぶりの、婚約者とのお茶である。


「僕らが初めて会った庭で、君が落としたものは?」


「扇です。池に。あなたが拾おうとして、先に落ちました」


 あの日の彼は袖どころか膝まで濡れて、周りが笑うより先に、自分で笑ったのだ。優しい子だった。優しいまま、十七歳のところにいる。


「っ……最初の、贈り物は?」


「青い硝子のペンです。インクが漏れて、手袋を一組だめにしました。あなたに言えなくて、同じ手袋を三軒探して回りました」


「別れ際に、君がいつも言った言葉は?」


「『次の茶会まで、ごきげんよう』。それから、あなたの馬車が見えなくなるまで手を振りました。あなたが、窓から振り返すので」


 全部、正解のはずである。


 だから彼は、泣きそうな顔になった。


「そんなの……そんなの、使用人にでも聞けば分かる!」


 分かっている。彼が確かめたいのは、記憶の正誤ではない。十七歳のイレーネが――春の光の中で笑っていたあの子が、この日灼けた傷だらけの女のどこかに残っているかどうかだ。


 それは、質問では出てこない。


「ユージーン様」


 私は、できるだけ静かに言った。


「あなたは、何も間違っていません」


「……え?」


「十二分では、人は大人になれない。あなたの時計は正しいのです。私の時計が、十二年、進んでいるだけで」


 彼の顔が歪む。慰めは、時々、刃と同じ形をしている。分かっていて、ほかの形を持っていなかった。


 私は手袋を、指先から外す。


 剣を十二年握った手である。剣胼胝(けんだこ)が並び、手の甲に古い火傷、小指は一度折れて、少し曲がったまま治っている。


「これが、私の十二年です」


 彼は手を見て、私の顔を見て、逃げるように立ち上がった。扉の前で一度だけ振り返る。


「……その手は、嫌いだ」


 扉が閉まる。冷めた茶が二つ、手つかずのまま残った。給仕が下げようとするのを、なぜだか少しだけ、待ってもらう。


 素直な子である。


 この手を最後に「いい手だ」と言ったのは、ナジャである。働き者の手。あたしの傑作を任せていい手。――そう言って、自分の腕はもう持ち上がらないくせに、私の指を一本ずつ、折って数えたのだ。


 私も、この手を好きになるまで、ずいぶんかかった。


 夕方、私は返された靴を、初めて試した。焦げた繻子の、十七歳の足のための靴である。


 ――入らなかった。


 踵が、指の付け根が、十二年の行軍の形になっている。繻子の内側には、うっすらと足の形が残っていた。十七歳の、今夜踊るはずだった足の形が。


 足まで、十二年ぶんである。


 笑い話にしようとして、少しだけ、失敗した。靴は、棚の上へ。捨てる、という選択肢は、最初からなかった。


   ◇


 夜会の招待状の束から、フォルスター家の名が静かに抜かれていく。呪いの令嬢ですって。近衛を侍らせて、まあ。扇の陰の声は、いつの時代も、同じ角度で笑う。


   ◇


 夜、庭で小さな残響が来た。


 左肩の古傷が、疼く。傷を貰った夜の寒さごと、あちらの冬が肩に帰ってくる。灰も咆哮もない、静かな残響である。静かなぶん、深い。


 静かな残響は、たちが悪い。派手な咆哮なら、敵の形をしている。古傷の疼きは私の形をしているので、どこまでが残響で、どこからが私なのか、境目が探せないのだ。


 音も光もない残響は、外からは見えない。ただの、夜のベンチに座る女である。それを彼は、気配だけで見つけて、庭へ下りてきた。


「残響ですか?」


「……小さいのが」


「では、隣に座ります」


 職務です、とは、今夜は言わなかった。


 夜気は薔薇の残り香と、遠い厨房の匂いがする。彼は何も聞かず、王都の夜の音をひとつずつ挙げはじめる。


「酔漢の歌。荷馬車。犬が二匹。風見鶏。……以上です。戦場の音は、ひとつもありません」


 指印。息を三つ。肩から、冬が抜けていく。


「おかえりなさい、イレーネ様」


 目の縁が、また熱を持つ。今日は誰かに手を嫌いだと言われた日で、こういう日の熱は、いつもより出口に近い。


 私は立ち上がり、手袋を外したままの右手を、彼へ差し出した。


「監視官殿。改めて――イレーネ・フォルスターです。二十九歳。剣を十二年。……この手と、よろしくお願いします」


 彼は一瞬だけ手を見て、それから、ためらいなく握った。剣胼胝の上から、まっすぐに。


「存じ上げています。――いい手です」


 いい手。


 ナジャと同じことを言う。この世界で、二人目である。


 熱が、目の縁を越えそうになった。


「……泣いていません」


「夜露です。今夜は、夜露が多い」


 彼が先に、言い訳のほうを差し出してくる。私は借りることにした。


「ええ。……夜露です」


 酔漢の歌だけが、まだ遠くで続いている。


「……歌が、下手ですね」


「酔漢ですので」


 肩の力が抜けた。笑ったのだと、一拍遅れて気づく。


 翌朝――軍務省の使者が門前に立った。慇懃(いんぎん)な一礼と、書面がひとつ。


「先日の……灰を、回収させていただきたく」


 灰を。掃除ではない。徴発である。


 使者は完璧な礼をして帰っていった。完璧な礼は、時々、完璧な無礼である。


 書面の文字は慇懃で、意味は簡潔だった。あなたの傷は、国家の資源である、と。


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