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4. 花の名前を、まだ覚えています

 外出には、書類が要る。名目は「経過観察のための市中随行」。監視官殿の几帳面な字で申請され、翌日には王女殿下の印が返ってきた。


 監視官殿は、朝の鐘と同時に門前へ現れる。時間に正確な男である。


「本日の予定は、市場です」


「偵察ですか?」


「買い物です」


 買い物。良い響きである。偵察よりずっといい。


 朝市の大通りは、光で溢れていた。


 日除け布の下に林檎が積まれ、角のパン屋から焼きたての匂いが流れ、呼び売りの声が重なり、子供が笑い、荷車が軋む。


 ――平和は、こんなにうるさかっただろうか。


 あちらの市場は、いつも静かだった。売る物と、買う金と、その両方を持っている者が、足りなかったので。


 そして、視線。


 例の。ほら、あの。偽物だって。呪われてるって。近衛を連れて。――ささやきは、扇がなくても届く。帽子屋の女主人が、こちらを見て隣の客に何かささやいた。知っている店である。十七の私が、春の帽子を誂えた店だ。


 視線は矢に似ている。数はあっても、当たらなければ死なない。私は歩幅を変えずに歩いた。隣の監視官殿も、歩幅を変えない。それだけのことが、存外、盾になる。


 春の風が、露店の日除け布をはためかせる。焼き菓子の匂い。量り売りの豆が、桝の中で鳴る。私は音のひとつひとつに、名前を付け直しながら歩く。荷車。呼び売り。子供の靴。……敵影なし。


 ――敵影なし、を数えるのをやめる日が、たぶん、一番遠い。


 昼の鐘が鳴ったのは、市場の真ん中でだった。


 こちらの鐘は、四つ数えて終わる。


 あちらの鐘は、鳴り止まないのが開戦の合図だった。


 ――鳴り止まない。いや、鳴り止んでいる。どちらだ。鐘の音の底に、あちらの戦鐘の唸りが重なって、境目が溶けていく。石畳の色が、荒野の色に近づいていく。足が、止まった。鐘楼を見上げたまま動けない私を、人波がよけていく。


 隣で、彼も立ち止まった。騒がない。彼はただ、同じ鐘楼を見上げて、声に出して数えはじめた。


「ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。――以上です」


 以上。


「昼の四の鐘です。今日の、王都の鐘です。それ以上は、鳴りません」


 指印。息を三つ。世界から、唸りが引いていく。鐘は、とうに鳴り終わっていた。石畳は、石畳の色をしている。


「おかえりなさい」


 往来の真ん中である。泣くわけにはいかない。目尻の熱は、日差しのせいにする。


 歩き出しながら、彼が付け足した。


「鳴り止まないときは、私が申告します。監視官ですので」


「……頼りにします」


 頼りにします、が、こんなに簡単に言える言葉だったとは。あちらでは、この言葉を口にするたび、誰かの命の残りを数えた。


 花市場は、大通りの外れにある。


 立ち尽くした。


 色が、洪水である。赤。黄。桃色。青紫。橙。


 色に酔う、という言い回しは知っていたが、身体で知ったのは初めてである。


 向こうで、花といえば白である。弔いの白花なら、数え切れないほど束ねた。誰の墓に、いくつ。それだけが、あちらでの私の、花の記憶である。


 名前が、喉の奥から勝手に浮かんでくる。矢車菊。金盞花(きんせんか)。すずらん。教わった覚えを思い出すより先に、口が知っている。十七歳が、口の中に生きていた。


「この赤いのは?」


「アネモネだよ、嬢ちゃん」


 女将の答えに、目の奥が熱くなる。……知っていた。


「アネモネ。……まだ、こちらの花の名前を、覚えていました」


 十二年、名前を呼ぶこともなかった花たちの名を、私は忘れていなかった。目の奥が熱いのは、日差しのせいにしておく。


 女将は怪訝な顔をしたが、商売の顔がすぐに勝った。監視官様もご一緒に、束でどうだい、と来る。私は籠の値札を三つ見比べて、口を開いた。


「三束で銅貨十二なら、十束で三十五が相場です。水揚げの手間が一度で済みますので」


「……あんた、素人じゃないね?」


「兵站を、四年ほど」


「へいたん? どこの卸だい、それは?」


 どこか遠くの卸です、と答えておいた。嘘は言っていない。


 結局、両手に花を抱えて帰ることになった。玄関へ。食堂へ。それから、黄色の花束をひとつ――母の居間へ。黄色は母の好きな色である。……好きな色だった、が正しいのだろうか。十二年前の情報を、私はまだ、この家の誰にも確かめられずにいる。


 それでも一輪、赤いアネモネが余っている。


 私はそれを、隣を歩く監視官殿の胸元へ挿した。


「報告書の、装飾です」


「近衛の制服に、花は規定外ですが」


「では、証拠品で」


「……押収します」


 押収された花は、彼の胸元で、屋敷の門まで揺れていた。耳が赤いのは、夕日のせいだと思うことにする。私の頬が熱いのも、同じ理由である。


   ◇


 ハウエル侯爵家の温室で、ユージーン・ハウエルは肖像画を見上げていた。十七歳の、婚約者の絵。春の光の中で、微笑んでいる。


 温室は白薔薇で溢れている。彼女が好きだと言った花である。つい先日の言葉である。彼は白薔薇に鼻を近づけ、甘い香りに目をつむった。


「僕の婚約者は、十七歳のはずだ」


 誰も、返事をしなかった。

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