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6. 灰は、埃ではありません

 軍務省の役人は、九の鐘とともに門をくぐった。白手袋に、封蝋つきの委任状。慇懃の見本のような男である。


 あれから、報告書なら一行で済む小さな軋みが二度あった。残ったのは、部屋の隅の、匙に二杯ぶんの灰。侍女が箒を持ってくるより先に、役人はそれを制した。


「お掃除にしては、丁寧ですね」


「資源ですので」


 銀の匙から硝子の小瓶へ、一粒もこぼさない手つきで、灰が移されていく。瓶に封蝋。台帳に番号。


 朝の光が瓶の腹で折れて、灰の粒がひとつずつ、金の粉のように浮かんで見える。きれいだ、と思ってしまった自分に、少し驚いた。


 あれは、あちらの土である。誰かの畑の土、誰かの家の壁、――もしかしたら、誰かの。私はあの灰の下に、名前を知っている人間を、何人も埋めてきた。それが番号で呼ばれ、資源と呼ばれ、革鞄に仕舞われていく。


 番号で呼ばれるのは、私ひとりで足りる。


「全量、お持ちください」


 役人が、少し驚いた顔をした。


「掃いて捨てるものが減って、助かります」


 嘘である。本当は、庭の隅に埋めてやりたかった。花の種でも一緒に落として、土に返してやりたかった。けれどそれを言えば、この男は灰ではなく私を台帳に書き足すだろう。――対象は、灰に情緒的な執着を示す。危険性の項に、そう一行。


 諦めは、慣れている。慣れているつもりで、爪が掌に食い込んでいた。


 持ち出しは、けれど門前で止まった。紫の外套の使いが立っていて、宮廷魔導師の印章を掲げたのである。曰く――検分なき徴発は、略奪と申しますわ。


 文面から、声が聞こえる気がした。


      ◇


 ドロテア様の研究室は、宮廷の古い塔の中程にある。


 螺旋階段を上がった先、扉を開けると、書物の壁と、硝子器の森である。高い窓から差す光が硝子器を抜けて、床に色のついた影を撒いていた。何かを煮る釜がことこと鳴って、部屋じゅうが、焦げた砂糖の匂いをしている。


 この部屋には、鉄と血の匂いがない。それだけで、肩の力が一段落ちた。


「ようこそ。おかけなさい。菓子がありますわ」


 勧められた長椅子の上に、書物が三冊。どかしてよいものか迷っていると、床でよろしい、と許可が出た。書物に、である。


 役人の瓶は、天秤と、色の変わる紙と、覗き硝子の上を順繰りに巡った。ドロテア様は覗き込んだまま、こともなげに言う。


「軍務省は、これを兵器の種とお呼びだそうですわね」


「……あなたは、何と?」


「まだ何も申しません。ですから、わたくしが先に書きます」


 羽根ペンが走る。読み上げる声は、歌うようだった。


「――当該の灰は、門より漏れ出でし燃え残りにして、いかなる術式の種にも非ず。門は兵器に非ず、傷痕である。国家が傷痕を徴発した例は、建国以来ございません。前例なきことは、なさらぬが行政の華、と」


「……それで、通りますか?」


「通らなければ、二度書きます。三度目からは、太字で」


 この人は、防波堤なのだ。石造りではなく、砂糖と皮肉でできた防波堤である。


 私の傷痕を、傷痕と呼んでくれる人が、この宮廷にひとりいた。それだけのことに、喉の奥が少し熱くなる。灰の粒を金の粉に見せた朝の光が、まだ目の底に残っている。


 検分の間、私には菓子が出た。上品な、薄茶色の円盤である。


 齧って、確信する。石である。


「……配給の岩パンより硬い菓子が、こちらにはあるのですね」


「歯は大事になさい。歯は貴族の財産ですわ」


「財産を賭けさせる菓子を、お焼きになるのですね」


「三日目が、いちばん美味しいのです。本日は二日目ですわ」


 割ると、断面から、蜂蜜と焦げた砂糖の匂いが立った。


 向こうでは、砂糖は薬棚のものである。傷病兵の気付けに、匙一杯。甘味は嗜好ではなく、投薬だった。最後の冬、私はナジャの口へ、震える指で匙を運んだ。あの子は、苦い、と言って笑った。砂糖なのに。


 石の菓子は、噛むほどに甘い。奥歯の下で、じわりと蜜が広がっていく。


 ――甘いと感じる舌が、まだ生きている。


 それを確かめられただけで、この石には値打ちがある。私は二枚目に手を伸ばした。


「お持ちなさい。あと六枚ありますわ」


「歯と相談します」


 帰りの馬車で、私は窓の外を見ていた。夕方の光が、屋根瓦の縁を橙に縁取っている。


 訊くつもりのなかったことが、口をついて出た。


「監視官殿。私の門は、そんなに欲しいものですか?」


 彼はすぐには答えない。膝の上の報告書の角を、指で一度だけ揃える。


 私は続けた。


「欲しがる側の言い分も、分かるのです。北の国境は、今年も雪が早い。備えの要る者には、あれは――」


 そこで彼は首を振った。


「いえ。……私が欲しいのは」


 言いかけて、飲み込んだ。彼の喉が、確かに一度、上下する。


 往来の音だけが、しばらく馬車を満たした。車輪。呼び売り。犬。私はそれを、数えるともなく数えている。


「――報告書を、書きます」


「……ええ。職務ですので」


 飲み込まれた言葉の行方を、それから夜まで、私は捨てそこねている。灰なら、掃けば済むのだけれど。


   ◇


 宮廷魔導師の検分試料は、封をして塔の書庫へ納められる。納品の台帳には、瓶がひとつ、確かにそう記されていた。


 その台帳の頁と頁の間で、数字がひとつ、静かに書き換わる。――検分に要する量は、瓶の半分で足りましたゆえ。


 残り半分が、魔導院の奥の一室へ運ばれた。


 坩堝(るつぼ)。触媒油。三晩、とろ火であぶる。掌に一摘みの、鈍く光る粉が採れた。


 試しの剣の刃に、粉が塗られる。刃が、月の裏側のような色で、底光りをはじめる。


 斬れ味は、三日、落ちなかった。


 四日目に、光は鈍った。――報告書は、三日目の晩に綴じられている。


「……使える」


 報告を受けた肩章の男は、そう呟いて、書面の端に印を押した。


 その夜、屋敷の庭の土が、匂いを変えた。


 空が、水の重さを溜めはじめている。


 ――あちらでは、雨は、夜襲の衣だった。


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