前夜
その夜、家の中は重く沈んでいた。
囲炉裏の火が、かすかに揺れる。
その赤い光だけが、沈黙の輪郭を照らしていた。
やがて、堪えきれぬように、早霧が口を開く。
「……なんで私なのよ」
吐き捨てるような声。
「死ぬくらいなら逃げるわよ、当たり前でしょ」
それは、正直であるがゆえに、鋭かった。
続いて、清乃。
「冗談じゃない。死ぬなんて無理」
「生贄なんて非効率よ。他の方法を探すべき」
「他の家から出せばいいじゃない」
冷静な言葉。
だが、その内にあるのは、やはり拒絶であった。
部屋は、再び沈黙する。
誰ひとりとして、「やる」とは言わない。
安八太夫は、ただ黙っていた。
言えなかった。
村を救うためには、誰かが差し出されねばならぬこと。
そして、その「誰か」が、自らの娘であり得るということを。
父が娘を差し出すなど――
本来あってはならぬ。
だが現実は、すでにそこにあった。
そのとき。
「……わたしが行くよ」
声が、静かに落ちた。
二人が、振り向く。
「は?」
「ちょっと、何言って――」
雨音だった。
その顔には、不思議な落ち着きがあった。
(……まあ、そうなるよな)
心の奥で、もう一つの声が呟く。
この世界の理不尽。
この村の限界。
そして――自分が、普通ではないという事実。
記憶は、途切れていない。
雨とともにあった日々。
意識すれば、空気が湿る。
祈れば、雲が寄る。
感情が揺れれば――雨になる。
(たぶん、これが原因だ)
干ばつは、偶然ではない。
呼ばぬから、来ない。
ただ、それだけのこと。
(なら――)
小さく、息を吐く。
「どうせなら、有効活用しないとな」
それは諦めではなかった。
生贄でもない。
――交渉。
その一語が、静かに形を取る。
安八太夫が、ようやく口を開いた。
「……本当に、いいのか」
その声は、震えていた。
初めて、父としての声であった。
雨音は、頷く。
「うん」
そして、一歩、近づく。
微笑む。
「でもね、お父さん」
「ちゃんと帰ってくるから」
それは、根拠のない言葉であった。
だが、不思議と、嘘には聞こえなかった。
早霧は、視線を逸らした。
何も言えない。
清乃は、唇を噛みしめ、拳を握る。
止める言葉は、出てこない。
否。
出せない。
その選択が、あまりにも“正しすぎた”から。
夜は、更ける。
やがて眠りが訪れる。
だが――
夢の中で、声が響いた。
「よくぞ、決意した」
それは、水の奥底から響くような声であった。
続いて、見えぬ文字が流れる。
《水属性魔法 Lv.∞ を獲得しました》
《龍神の加護を取得しました》
――は?
思考が、止まる。
(ちょっと待て)
(いきなり、何だこれは)
荘厳さも、緊張も、その一瞬で吹き飛ぶ。
(いや、待て待て待て)
(チート来たんだが?)
静寂の中に、ただ一人。
困惑だけが、妙に現実的に残っていた。




