父であること
夜。
誰もいない土間。
火はすでに落ち、闇だけが満ちている。
安八太夫は、ひとり座していた。
動かない。
何も、していない。
両の手は膝の上で固く組まれ、
指は食い込み、爪は皮を破り、わずかに血が滲む。
それでも、ほどこうとはしない。
頭の内で、同じ言葉が巡る。
娘を一人。
(違う)
(そんなこと、できるわけがない)
否定は、幾度も繰り返される。
だが――
(では、どうする)
別の声が、必ず現れる。
水はない。
田は死にかけている。
村も、家族も、
もはや猶予はない。
思考は、勝手に並び始める。
三人の娘。
村の人数。
残された水。
秤にかけている。
「……やめろ」
かすかな声が、闇に沈む。
(俺は今、何をしている)
娘を、数として見た。
そんなことをする人間ではなかった。
そう、思っていた。
記憶が、浮かぶ。
幼い手。
笑う顔。
「父ちゃん」と呼ぶ声。
あの日々。
目を開ける。
そこには、何もない。
今、その声の主を――
選ぼうとしている。
「……違う」
声が震える。
「俺は、選んでいない」
だが、心の奥で知っている。
選ばなかっただけだ。
決めなければ、決めたことにはならない。
そう思い込もうとする。
だが現実は、容赦がない。
誰かが決める。
流れが決める。
空気が決める。
そして――
最も選ばれやすい者が、選ばれる。
(止められた)
声を上げればよかった。
否定すればよかった。
壊してでも、止めるべきだった。
だが、しなかった。
怖かった。
村を敵に回すことが。
すべてを失うことが。
(俺は――)
(娘より、村を選んだ)
その事実が、静かに胸へ落ちる。
音が、消える。
風が、ひとすじ吹いた。
足音がする。
戸口で、止まる。
雨音が、立っていた。
静かに。
視線が合う。
何か言わねばならない。
だが――
言葉が、出ない。
言えぬ時点で、すでに終わっている。
雨音が、小さく笑う。
「……大丈夫だよ」
その一言で、すべてが崩れる。
それは、本来、父が告げるべき言葉であった。
安八太夫は、何も言えない。
雨音が、一歩、内へ入る。
「ちゃんと、終わらせてくる」
意味は、理解している。
安八太夫の手が、わずかに動く。
止めようとする。
だが――止まる。
最後の機会であった。
ここで言えば、変えられたかもしれない。
しかし、言わない。
これで、決まった。
雨音は振り返らない。
そのまま、外へ出る。
残されたのは、安八太夫ひとり。
その場に、崩れ落ちる。
「……すまん」
声は、どこにも届かない。
「……すまん……」
繰り返す。
何度も。
外では、まだ雨は降っていない。
だが――
やがて、降る。
その雨は、村を救う。
そして同時に――
ひとりの父を、
生涯、赦さぬ。




