その一歩を、止めて
生贄の日。
夜明け前。
空はまだ暗く、風もない。
不気味なほどの静寂が、村を覆っていた。
白装束に身を包み、雨音は立っている。
その背後に、村人たち。
そして――父、安八太夫。
「……行ってまいります」
小さく、頭を下げる。
誰も、引き止めない。
否――引き止められない。
そのとき。
足音が、背後から。
かすかに。
雨音は、止まる。
だが、振り向かない。
「……待って」
その一言で、時間が凍りつく。
早霧が、そこにいた。
息を切らし、髪は乱れ、
頬は涙に濡れている。
言葉が、出てこない。
多すぎて、形にならない。
「……行くの?」
わかっている。
それでも、問わずにはいられない。
雨音は、ほんの少しだけ笑う。
「うん」
「ダメだよ!!」
早霧が、一歩踏み出す。
「そんなの、ダメに決まってるじゃん!!」
押し殺していたものが、溢れる。
「なんであんたなの!?」
「なんで……っ」
そして――
「私が行くから!!」
言葉が、落ちる。
空気が、凍る。
雨音は、ゆっくりと振り返る。
その目は、優しい。
そして――すべてを理解している目。
「……無理でしょ」
静かに、返す。
「っ……!」
「お姉ちゃん、怖いでしょ」
やわらかな声。
「私も、怖いよ」
初めての、本音。
同じ。
同じなのに――
「でもね」
一歩、前へ。
「このままだと、もっと怖いことになる」
早霧は、強く首を振る。
「そんなの関係ない!」
「生きてればいいじゃん!!」
重い言葉。
雨音は、少しだけ寂しそうに笑う。
「……それ、誰の分?」
言葉が、詰まる。
「みんなが死ぬかもしれないのに」
「自分だけ生きるの?」
「それでもいいって言える?」
答えられない。
それが、答えだった。
早霧が、近づく。
震える手を伸ばす。
袖を、掴む。
「……行かないで」
かすれた声。
「お願い……」
雨音は、その手を見る。
そっと、自分の手を重ねる。
温かい。
生きている。
ぎゅっと、握る。
そして――
ゆっくりと、離す。
「大丈夫」
その一言に、意味はない。
それでも、すべてが込められている。
「すぐ終わるよ」
嘘である。
終わりではない。
変化の始まりである。
「……行ってくるね」
振り返らない。
足音が、遠ざかる。
一歩。
また一歩。
早霧は、立ち尽くす。
追えない。
追えない理由を、知っているから。
やがて、その場に崩れ落ちる。
「……なんで……」
「なんで止められなかったの……」
空が、わずかに白み始める。
新しい一日が、始まる。
だが――
何ひとつ、元には戻らない。




