契約の種
空は、焼けていた。
雲ひとつなく、風もまた、どこかへ去っていた。
田は裂け、
水は底をさらし、
大地はただ、沈黙している。
村は、すでに限界であった。
安八太夫は、ひとり畦道に立つ。
為すべき術はなく、ただ空を仰ぐほかない。
「……もう、持たん」
その言葉は、誰にも届かぬまま、乾いた空気に溶けた。
そのときである。
「困っているようだな」
背後より、声。
振り返る。
そこに立っていたのは、見知らぬ男であった。
若い。
しかし、その眼差しには、年経た静けさが宿っている。
旅装束。
腰には刀。
どこにでもいそうで――どこにも属さぬ気配。
風は、なお動かぬ。
草も揺れぬ。
それにもかかわらず、その男の周囲だけ、空気が“在る”。
「……誰だ」
警戒を隠さず問う。
男は、わずかに笑った。
「通りすがりだ」
即座に、それが偽りであると知れる。
「このままでは、村は終わる」
断言。
それは、事実であった。
ゆえに、反駁する言葉はない。
男が、一歩、近づく。
足音は、しない。
「雨が欲しいか」
その一言で、空気が変わる。
喉が鳴る。
欲しいに決まっている。
だが――
「……代わりに、何を差し出す」
ようやく、声を絞り出す。
男は、目を細めた。
楽しむように。
「話が早い」
そして、あまりにも軽く言う。
「娘を一人」
時間が、止まる。
「ふざけるな」
即座に吐き出される拒絶。
怒り。
当然であった。
男は、揺らがない。
「一人で、すべてが救われる」
「安いものだ」
“安い”
その言葉が、胸に突き刺さる。
本当に――そうなのか。
「三人いるのだろう?」
心臓が、大きく跳ねた。
なぜ、知っている。
「長女は気が強い」
「次女は頭が回る」
淡々と、言い当てていく。
「三女は――優しい」
わずかな間。
「最も、適している」
「やめろ!!」
叫びは、空に吸われる。
しかし、その瞬間。
脳裏に、映像が流れ込む。
干からびた田。
倒れる子供。
泣き叫ぶ村人。
一人か。
全員か。
膝が、揺れる。
「……そんなもの……」
選べるはずがない。
男が、さらに顔を近づける。
その瞳が――
一瞬、揺らいだ。
水のように。
「選ばぬのも、また選択だ」
静かに告げる。
「決めろ」
「時は、残っていない」
気づいたとき、
男の姿は消えていた。
風が戻る。
音が戻る。
現実が、再び動き出す。
その場に残されたのは、安八太夫ひとり。
肩に、何かが乗る。
否。
それは最初から在ったもの。
ただ、今ようやく、形を得ただけ。
(俺は……)
(何を、守る)
空は、なお晴れている。
一滴の雨も落ちない。
だが――
確かに、何かが始まっていた。




