報告
山の奥。
人の気配は絶え、風さえも、ここへは届きにくい。
音は遠く、世界そのものが一歩退いたかのような場所であった。
水面は静かである。
揺らぎはなく、完全な静止。
それは、ただの水ではない。
時すら、そこでは息を潜めているようであった。
その縁に、白蛇が現れる。
音もなく、影のごとく。
動かない。
ただ――待つ。
やがて、水面がわずかに歪む。
かすかな波紋が、円を描いて広がる。
“在る”。
姿はない。
しかし確かに、そこに存在している。
龍神は、水そのものとして在った。
形を持たず、境界を持たず、ただ満ちている。
白蛇の目が、微かに光を帯びる。
言葉はない。
しかし、伝達はなされる。
乾いた大地。
ひび割れた田。
安八太夫の姿。
そして――
「誰か一人で済むなら……」
その言葉。
そのときの、わずかな逡巡。
迷いの陰影。
すべてが、歪みなく再現される。
沈黙。
だが、それで十分であった。
「……成立」
水が、ほんのわずかに揺れる。
条件は整っている。
外から与える必要はない。
すでに内に芽生え、形を取りつつある。
人は、
己が願ったものからは逃れ得ぬ。
白蛇は動かない。
ただ、次を待つ。
龍神が、わずかに意識を巡らせる。
「広げろ」
一人では足りぬ。
村という器そのものに、同じ可能性を浸す。
白蛇は理解する。
ためらいはない。
音もなく、水際を離れる。
運ぶのは、命ではない。
ただ、気配と――選択肢。
龍神は、その場に残る。
再び、深い静止へと沈みながら。
無関心ではない。
だが、干渉もしない。
あの男の言葉。
そこに含まれていた揺らぎ。
さらに――
その家に宿る、三つの気配。
とりわけ、ひとつ。
まだ名も定まらぬ、小さき存在。
水との距離が、あまりにも近い。
「……面白い」
それは、声というよりも、波紋に近い。
やがて水面は、再び完全な静寂へと帰る。
何ひとつ変わっていないように見える。
だが――
すでに流れは変わっていた。
誰ひとり、気づかぬままに。




