契約、そして夜叉姫へ
村に伝わる龍神はこうだ。
夜叉ヶ池に棲む存在、そして雨を司る神。
生贄を求める存在で典型的な“恐れられる神”
しかし、龍神は元々――
かつてこの地で生贄になった人間だ。
昔、同じように干ばつがあった。
そして一人の少女が池に捧げられた。
だが――死ななかった。
「我は龍神にあらず」
彼女は水に“溶けた”。
意識を保ったまま、
水そのものと同化した。
やがて
池 → 地下水 → 雲 → 雨
すべてに広がり、やがて“龍神”と呼ばれる存在になった。
「水循環そのものの意志」
雨として降り、川として流れ、海へ帰り
再び空へ昇る
その循環の中に、“龍神”が生まれた
「水の記憶の残滓に過ぎぬ」
なぜ生贄を求めるのか。
本当は生贄など“欲していない”
だが――完全な存在ではない“龍神”は、
水として広がるほど、“個”が薄れていく。
だから定期的に「核(=人間の意識)」を取り込まないと自我が消える。
「待っていた」
神代 天音は、水に適合する魂を持っていた。
無意識に雨を操り、すでに“半分向こう側”の存在だ。
同じ魂を持つ雨音は、決して龍神に取り込まれない。
むしろ、龍神を補完する存在だ。
水面は、完全に静まり返っていた。
先ほどまで存在していた波紋すら、
まるで最初からなかったかのように消えている。
龍神は、目の前にいた。
人の姿を取りながら、
その輪郭は揺らぎ続けている。
「……生贄にはならぬ、と言ったな」
雨音は、うなずく。
「なるつもりはない」
一歩、踏み出す。
水面に足を置く。
沈まない。
境界の上。
人と神の間。
「雨は、俺が降らせる」
「お前は――力を貸せ」
一瞬の沈黙。
「お前、消えかけてるだろ」
空気が凍る。
龍神の瞳が、わずかに揺らいだ。
「……なぜ、それを」
「わかる」
短く、それだけ。
「水、バラバラになってる」
「まとまれてない」
「だから、人を取り込んでる」
完全な沈黙。
そして――
「……面白い」
初めて、龍神が笑った。
「よかろう」
その瞬間。
池が、震えた。
ドン、と重い音が響く。
水面が、割れる。
上ではなく、下へ。
世界が、沈む。
雨音の身体が、水に引き込まれる。
だが、溺れない。
水が、拒まない。
むしろ――
迎えている。
光が消える。
音が消える。
だが、意識だけが鮮明になる。
無数の“水”が流れている。
雨。
川。
海。
霧。
涙。
すべてが、つながっている。
知らない景色が流れ込む。
知らない景色が流れ込む。
干ばつ。
祈り。
生贄。
沈む少女。
そして――
「受け入れよ」
声が、全方位から響く。
身体がほどける。
境界が消える。
自分が、水になる。
(……違う)
その中で、雨音は意識を保つ。
(飲まれるな)
流れる“核”を見つける。
龍神の中心。
意識の塊。
それを――
掴む。
「……なにを……!」
今度は逆。
雨音の意識が、流れ込む。
二つが、ぶつかる。
溶けるのではない。
重なる
光が、弾けた。
水が、空へ昇る。
池が、逆流する。
雲が、一瞬で集まる。
雷が走る。
「もはや人の名では足りぬ」
「汝は水を統べ、天を動かす者」
「――今日より“夜叉姫”と名乗るがよい」
視界に、文字が浮かぶ。
《個体名:雨音》
《再定義開始》
《龍神契約:成立》
《存在更新》
《名称変更》
雨音 → 夜叉姫
水面が爆ぜる。
雨音――いや、夜叉姫が現れる。
長い髪は、水のように揺れる。
瞳は、深い蒼。
足元には、水が従う。
ポツッ。
一滴。
次の瞬間――
豪雨。
天が割れたような雨が、
世界を叩く。
その隣に、龍神が立つ。
もう、揺らいでいない。
安定している。
「……成立だ」
夜叉姫は、空を見上げる。
「――これで、終わりじゃない」
「いくよ」
夜叉姫は、ゆっくりと手をかざした。
空はまだ、晴れている。
雲一つない、乾ききった青。
だが――
空気が変わる。
湿り気が、満ちる。
見えない水が、
世界中から引き寄せられていく。
静かに、呟く。
「……集え」
その一言で、空が歪んだ。
遠くの雲が、引き裂かれるように動く。
風が、逆巻く。
大地の水分が、蒸気となって昇る。
川の残り水が、震える。
空へ、引かれていく。
夜叉姫の瞳が、蒼く光る。
そして――
《大雨召喚》
ドン、と空が鳴る。
一瞬で、雲が完成する。
黒い雲。
重い雲。
天を覆い尽くす水の塊。
ポツッ。
静寂を切り裂く、一滴。
次の瞬間――
叩きつけるような豪雨。
視界が消える。
音が消える。
すべてが、水に飲まれる。
雨は、ただ降っているのではない。
従っている。
夜叉姫の意思に。
強くも、弱くも、
自由に変えられる。
雷が走る。
だが落ちない。
風が吹く。
だが荒れない。
すべてが制御されている。
夜叉姫は、小さく呟く。
「……これが、“雨”だ」
雨は、止まらない。
いや――
止めない。
数年ぶりの雨が、大地を叩く。
村人たちの歓声が遠くから聞こえた。




