夜叉ヶ池へ
生贄の日。
夜明け前。
空はまだ暗く、風もない。
不気味なほど、静かな朝だった。
白装束に身を包み、雨音は立っていた。
その背後には、村人たち。
そして――父、安八太夫。
「……行ってまいります」
小さく頭を下げる。
誰も、引き止めない。
引き止められない。
山道は細く、深い森に飲まれていく。
一歩進むたび、空気が変わる。
湿っている。
でも、雨は降らない。
(近いな)
雨音は感じていた。
これは“天気”じゃない。
もっと根の深いもの。
鳥がいない。
風もない。
音がない。
ただ――
水の気配だけがある。
ふと、前世の記憶がよぎる。
コンクリートの道。
信号。
豪雨。
そして――
(ここで終わったんだよな)
足を止める。
でも、すぐに笑った。
「まあ、今回は終わらせないけど」
登るほどに、霧が濃くなる。
視界が白に染まる。
その中で、声がした気がした。
「……来たか」
(やっぱりいるな)
霧が、ゆっくりとほどけていく。
白く閉ざされていた視界が、静かに開けた。
その先に――
息を呑むほどの“静寂”があった。
それは、池だった。
だが、ただの水たまりではない。
――夜叉ヶ池
山の頂に抱かれるように、ぽっかりと開いた円形の水面。
風はない。
それなのに、水は“生きている”ように微かに揺れている。
色は、ひとことで言えばエメラルド。
だが近づくほどに、その色は変わる。
浅い縁は透き通る緑。
中央に向かうにつれ、深い青へと沈んでいく。
まるで――
底に“空”があるようだった。
水面は鏡のように空を映す。
雲が流れれば、そのまま滑る。
だが、違和感がある。
空の動きと、水の動きが“合っていない”。
わずかに、遅れている。
(……呼吸してる?)
まるで池そのものが、
ゆっくりと息をしているようだった。
不自然なほど、静かだ。
鳥の声がない。
虫の羽音もない。
風も、木々を揺らさない。
あるのは――
ごく微かな、水の音。
「……ちゃぷん」
誰も触れていないのに、
水面に波紋が広がる。
湿っている。
だが、腐臭はない。
むしろ澄んでいる。
雨上がりの森の匂い。
石と水と、古い時間の匂い。
(懐かしい……?)
なぜか、そう感じる。
池の縁は、柔らかな草に覆われている。
だが、その外側。
一歩離れた場所からは、
古い木々が円を描くように取り囲んでいる。
まるで――
結界
幹は太く、ねじれ、
長い年月を生きたことを語っている。
どの木も、
“池の方を見ている”ように立っていた。
空は明るい。
だが、池の上だけは違う。
光が、薄い。
いや――
吸われている。
水面に落ちた光が、
そのまま沈んでいく。
覗き込む。
底が、見えない。
それだけじゃない。
「深い」という感覚が通じない。
距離ではなく――
“層”がある。
何重にも重なった水の向こうに、
何かがいる。
一歩近づく。
足元の土が変わる。
柔らかい。
湿っている。
境目が、はっきりとわかる。
(ここから先は――)
人の場所ではない。
風が止まる。
音が消える。
時間が、遅くなる。
それでも、水だけは動いている。
いや――
見ている
水面の奥。
ほんの一瞬。
“影”が動いた。
長い。
大きい。
形は定まらない。
だが、確かに――
そこに、“意思”がある。
この池は、ただの自然ではない。
祈りと、恐れと、
長い年月の“犠牲”が積み重なった場所。
そして――
何かが、ここで待っている。
水の奥から、響く。
低く、静かで、確かな声。
「なぜ来た」
普通なら震える場面。
でも、雨音は迷わない。




