もう一度、名前を呼ぶために
雨は、やんでいた。
あれほど執拗に降り続いた空が、
今は、何事もなかったように静まり返っている。
地は潤い、
川は再び流れを取り戻した。
村は、生き返ったと言ってよい。
だが――
「行くのね」
清乃は言った。
早霧は、うなずいた。
「……このままでは、終われない」
それだけで、十分だった。
二人は、山へ向かった。
誰にも告げずに。
止められることを、知っていたからである。
山道は、ぬかるんでいた。
足を取られる。
何度も、体が傾ぐ。
それでも、歩みは止まらない。
やがて、清乃が口を開いた。
「……怖い?」
早霧は、しばらく考えた。
「怖い」
簡潔な答えである。
「でも、それ以上に――会わなきゃいけない」
拳が、固く結ばれていた。
やがて、空気が変わる。
湿り気を帯び、
重く、沈む。
二人は、同時にそれを知った。
霧が、切れる。
現れたのは、
かつてと変わらぬ静寂。
――夜叉ヶ池。
「……来たか」
声がした。
振り向く。
そこに、いた。
水面の上に、立っている。
揺れる髪。
深い蒼の瞳。
人の形をしていながら、
人ではない。
沈黙。
距離は、数歩。
しかし、その間には、測れぬ隔たりがある。
早霧が、前へ出た。
足は、震えている。
それでも、止まらない。
口を開く。
声が、出ない。
名を呼ぶことが、ためらわれる。
夜叉姫か。
それとも――
一瞬、目を閉じる。
「……雨音」
その瞬間、
空気が、わずかに揺らいだ。
少女の瞳に、
かすかな変化が生じる。
「……久しぶり」
声は、変わらない。
それだけが、かろうじて人であった。
早霧の頬を、涙が伝う。
「……ごめん」
それ以上の言葉は、なかった。
「私、逃げた」
「怖くて……あんたに押し付けた」
声が、崩れる。
「最低だよね」
沈黙。
それを破ったのは、清乃であった。
「……生贄は、合理的ではない」
視線が、向けられる。
「一人を失って、結果が保証されるわけではない」
「再現性もない。検証もできない」
言葉は、理路整然としている。
だが、その声は、わずかに揺れていた。
「怖かったの」
短い告白である。
「すべてが失われることが」
目を閉じる。
「だから、選んだ」
「だが――誤りだった」
夜叉姫は、黙して聞いている。
何も言わない。
ただ、見ている。
やがて、一歩、近づいた。
水は、乱れない。
「……いい」
それだけを言った。
声は、穏やかである。
だが、遠い。
「わかっていた」
短く、続ける。
「二人とも、“普通”だ」
責めも、赦しもない。
ただ、断定だけがある。
早霧が、手を伸ばす。
指が、震えている。
触れてよいかどうか、
その判断すら、曖昧である。
やがて――触れる。
水面が揺れる。
静かな波紋が、三人の足元へ届く。
早霧の指は、まだ触れたまま。
離せない。
離したら、また遠くなる気がして。
「……あったかい」
小さく、呟く。
でもそれは――
昔の温もりとは、少し違っていた。
清乃も、手を伸ばす。
一瞬だけ迷い、
それでも触れる。
確かに、そこに“いる”。
だが同時に、理解する。
(全部は、戻らない)
夜叉姫は、何も言わない。
ただ、二人を見ている。
その目は、優しい。
だが――
もう“同じ時間”には立っていない目だ。
「……ねえ」
早霧が、震える声で言う。
「また、一緒に……」
そこまで言って、止まる。
“何を?”
言葉が続かない。
遊ぶ?
笑う?
雨を待つ?
どれも、もう同じ意味では成り立たない。
沈黙。
夜叉姫は、ゆっくりと視線を空へ向ける。
雲が流れる。
「……できるよ」
その言葉に、二人の顔が上がる。
だが、続きがある。
「でも――前と同じじゃない」
はっきりと、言う。
優しく。
逃げずに。
その一言で、
二人は理解する。
取り戻したものと、
もう戻らないもの。
両方が、ここにある。
早霧は、泣きながら笑う。
「……そっか」
清乃は、目を閉じて、うなずく。
「……それでいい」
それしか、ないから。
夜叉姫は、ほんの少しだけ微笑む。
その瞬間だけ――
昔の“雨音”に、戻る。
風が、吹く。
水面が、静かに広がる。
三人の影が、
揺れて、重なって、
そして――
少しだけ、ずれたまま、並んでいた。




