その後
雨は、なお降り続いていた。
だがその勢いは、もはや荒々しくない。
大地へと染み入る、静かな雨。
山道を、ひとりの少女が下りてくる。
白装束は、水にほどけるように揺れ、
その足は、泥に触れても汚れない。
――夜叉姫。
かつて、雨音と呼ばれていた存在。
最初に気づいたのは、子供だった。
「……だれ?」
雨の向こうに、立つ影。
人の形。
だが――どこかが、違う。
やがて村人たちが、振り向く。
ひとり、またひとり。
そして、言葉を失う。
「あれは……」
名は、知っている。
だが、口にできない。
夜叉姫は、歩く。
一歩。
水たまりが、自然に退く。
二歩。
雨粒が、触れる寸前で逸れる。
三歩。
風が、道をひらく。
――人ではない。
それが、誰の目にも明らかだった。
前へ出たのは、安八太夫だった。
震える足で、雨の中へ。
ただ、見つめる。
「……お前は」
言葉が、続かない。
沈黙。
夜叉姫は、足を止める。
ほんの一瞬。
(……何と名乗る)
雨音か。
夜叉姫か。
小さく、息を吸う。
そして――
「……ただいま」
その一言で、すべてが崩れた。
安八太夫の膝が落ちる。
「……あまね……」
やっと、名が零れる。
背後から、駆ける足音。
早霧。
清乃。
だが――途中で止まる。
近づけない。
嬉しさと、恐れと、
理解できぬ何かが、絡み合う。
夜叉姫が、視線を向ける。
深い蒼の瞳。
見慣れた色ではない。
それでも――
「……遅くなって、ごめん」
声だけは、変わらない。
早霧が、泣き崩れる。
「なんで……なんであんたが……」
清乃は、言葉を持たない。
ただ、震えている。
夜叉姫は、一歩近づく。
二人は、わずかに退く。
その距離が、すべてを語っていた。
(ああ……)
理解する。
もう、同じ場所には戻れない。
それでも――
微笑む。
「ちゃんと、帰ってきたよ」
雨が、わずかに強まる。
感情に応じるかのように。
誰も近づけない。
だが、誰も目を逸らさない。
そこにあるのは――
畏れ。
そして、感謝。
誰かが、呟く。
「……夜叉姫」
その名が、静かに広がる。
「夜叉姫様……」
その中で、ただ一人。
父だけが、別の名を呼ぶ。
「……雨音」
夜叉姫の瞳が、かすかに揺れた。
雨は、優しく降り続く。
もはや奪う雨ではない。
与える雨。
(これで――)
(終わりではない)
彼女は、生きる。
池の主として。
人でもなく、龍でもないものとして。
だが――
それでいい。
夜叉姫は、ふと空を見上げた。
「……次は、川も整えないとな」
その呟きは、あまりにも日常的で、
あまりにも遠かった。
雨は降り続く。
大地を潤し、
命を満たし、
そして――
ひとりの少女の名を、
静かに刻み続けていた。




