雨を降らせる
空は、どこまでも青かった。
三年。
雲は一度として、そこに現れなかった。
田は裂け、
土は白く乾き、
川は石をさらしたまま、動かない。
人は、やがて空を見なくなる。
見ても意味がないと、知るからだ。
その日も、同じであるはずだった。
「……もう、終わりだな」
誰かの声が、乾いた空気に溶けた。
安八太夫は、何も言わない。
言葉にすれば、形になる。
形になれば――崩れる。
家の中。
囲炉裏の火は弱く、
沈黙だけが、場を満たしている。
長女・早霧は、外を見ない。
次女・清乃は、帳面を閉じた。
計算は、すでに意味を失っている。
誰も、口にしない。
その名を。
――雨音。
そのとき。
ふいに、何かが“途切れた”。
風が止んだのではない。
最初から存在しなかったものが、
さらに消えた。
空気が、重くなる。
誰かが、顔を上げた。
土の匂いが変わる。
乾ききったそれに、
わずかな異物が混じる。
湿り気。
「……まさか」
一滴。
ぽつり。
誰かの頬に、落ちた。
動きが、止まる。
「……え?」
視線が、空へ向く。
そこには、相変わらず青だけがある。
雲はない。
それでも――
二滴。
三滴。
ぽつ。
ぽつり。
増える。
誰も、動けない。
理解が、追いつかない。
「……雨だ」
その一言で、世界が動いた。
次の瞬間。
叩きつけるような雨。
地を打つ音。
屋根を叩く音。
すべてを覆い尽くす、水の轟き。
「う、おおおおお……!」
誰かの叫びが、合図になった。
笑う者。
泣く者。
その場に膝をつく者。
子供が、泥を蹴って走る。
老人が、空を仰ぐ。
三年ぶりの雨が、
人の顔を、感情を、洗い流していく。
安八太夫は、立ち尽くしていた。
濡れるのも構わず、
ただ空を見ている。
手が、震える。
「……本当に、降った」
声は、ほとんど音にならなかった。
その背後で、戸が開く。
早霧と清乃が、外へ出る。
早霧は、呆然と空を見上げる。
清乃は、理解の外にあるものを見る顔をしている。
「なんで……」
言葉は、続かない。
そのとき。
二人の中で、同時に蘇るものがあった。
あの朝。
あの笑み。
――「ちゃんと帰ってくるから」
早霧の膝が、崩れる。
「……うそでしょ」
清乃の手から、帳面が落ちた。
「まさか……」
誰かが、呟く。
「雨音……」
雨は、止まない。
むしろ、強さを増していく。
まるで三年分の空白を、
一度に埋めるかのように。
村人たちは、手を合わせる。
誰に向けてかも、わからぬまま。
だがその中には、確かにあった。
ひとつの、名もなき祈りが。
――遠く。
山の頂。
誰にも見えぬ場所で、
一人の少女が立っている。
雨の中に。
夜叉姫。
その瞳は、深い蒼。
もはや人のそれではない。
それでも――
かすかに、笑った。
「……間に合ったな」
その声は、雨に紛れて消える。
雨は降り続ける。
大地を潤し、
命を呼び戻し、
そして――
ひとりの少女の存在を、
世界に刻みつけるかのように。




