龍神、登場
「村を救うために来ました。でも――死ぬ気はありません」
声音は静かであったが、その内に秘めるものは、決して柔らかではない。
自らに課した覚悟と、揺るがぬ確信が、そこにはあった。
(我ながら、強く出たものだ)
心中で、わずかに苦笑する。
だが退く気はない。
見えている。
己が内に宿るものが。
水の理。
流れの核。
常の人の器に収まるはずのない、それ。
(……向こうも、気づいているはずだ)
だからこそ、言う。
「話をしに来た」
水面に落ちた一滴は、
ただの雨粒に過ぎぬはずであった。
しかし――
波紋は消えない。
広がらず、
逃げず、
ただひたすらに、
池の中心へと吸い寄せられてゆく。
静寂。
音が、断たれる。
完全なる無音。
そして――
沈んだ。
その瞬間。
池の底が、動いた。
否。
底など、初めより存在していなかった。
深淵そのものが、
こちらへと向き直ったのである。
ごぽり、と。
低く、湿った音。
水面が、膨らむ。
内より押し上げられるかのごとく、
ゆるやかに、しかし抗い難く、隆起する。
本来ならば、波は外へ逃げる。
だが違う。
水は逃げぬ。
中心へ、集まる。
圧され、
凝り、
やがてそれは、ひとつの形を成した。
柱。
水の柱。
透明であるはずのそれは、
奥を見通すことを許さぬ。
その内部で、何かが蠢く。
長く。
うねり。
絡み合い。
やがて輪郭が、浮かび上がる。
龍。
しかし、完全ではない。
頭が現れ、
胴が続き、
尾が遅れて形を結ぶ。
まるで、忘れていた姿を、
思い出すかのように。
最後に、目が開いた。
深き青。
底なき色。
その視線が、
まっすぐに雨音を射抜く。
空気が、沈む。
呼吸が浅くなる。
重力が増したかのように、
足が地へ沈み込む。
それでも――
退きたいとは、思わぬ。
(……美しい)
その感覚が、先に立った。
声ではない。
されど、確かに響く。
水が震え、
空気がそれを運ぶ。
「……人の子よ」
低く、遠い声。
「なぜ、我を起こす」
龍の形が、ほどける。
水へと還り、
再び、別の姿を取る。
今度は――人。
長き髪は、水のごとく揺れ、
衣は流れに従うようにまとわりつく。
足は地に触れぬ。
その姿は、あまりに整い、
あまりに異質であった。
顔は定まらない。
見るたびに、変わる。
少女にも見え、
女にも見え、
老いた影すら重なる。
時に縛られぬ存在。
それが、雨音を見下ろす。
「……久しい」
「この“形”を取るのは」
一歩、近づく。
足音はない。
水が、それを運ぶ。
「お前は、違うな」
「他の者とは」
雨音は、一歩も退かぬ。
水面の上。
境の上。
人と神との、狭間に立つ。
龍神は、わずかに目を細めた。
「名を言え」
一瞬の逡巡。
だが、すぐに。
「……雨音」
空気が震える。
水面が、かすかに応じる。
「……やはりか」
応答は、あまりにも自然であった。
(思ったより、話が通じるな)
内心で、わずかに構えを緩める。
もっと無言のまま呑み込まれるものと、
そう思っていた。
だが違う。
ならば――
言うべきことは、一つ。
雨音は、まっすぐに告げた。
「生贄にはならない」
世界が、止まる。
一瞬。
確かに、止まった。
だが、視線は逸らさぬ。
続ける。
「その代わり――」
手を、かざす。
空気が、応じる。
湿りが集まり、
形を帯びる。
ぽつり。
水面に、一滴。
波紋が、広がる。
「雨を、降らせる」
短く。
断言。
沈黙。
やがて――
「……なるほど」
低く、深い声。
「ようやく、来たか」




