夜叉ヶ池へ
山路は細く、深き森の中へと吸い込まれてゆく。
踏み入るごとに、空気は微かに変質した。
湿りを帯びている。
しかれども、雨は降らぬ。
(近いな)
雨音は、そう感じていた。
これは天の気まぐれではない。
もっと根に沈んだ、動かし難き何ものかの気配である。
鳥は鳴かず、風は息を潜め、
音という音が絶えている。
ただ、水の気配のみが、
かすかに、しかし確かに在る。
ふと、過去の記憶が脳裏をかすめた。
コンクリートの道。
信号。
そして、あの豪雨。
(あそこで、終わったのだったな)
足が止まる。
しかし次の瞬間、彼女は小さく笑った。
「まあ、今回は終わらせないけど」
独り言は、森に吸われて消えた。
登るにつれ、霧は濃さを増す。
視界は白に閉ざされ、
天地の境すら曖昧となる。
その只中で、
声がしたように思えた。
「……来たか」
(やっぱりいるな)
霧はやがて、ゆるやかにほどけていった。
閉ざされていた白が裂け、
静かに、視界が開く。
その先にあったのは、
息を呑むほどの静寂であった。
それは、池だった。
しかれども、それはただの水溜まりではない。
――夜叉ヶ池。
山の頂に抱かれるように、
円形の水面がぽっかりと開いている。
風はない。
しかるに水は、かすかに揺れている。
色は一見、翠。
だが近づくにつれ、
その色は深みを増し、変じてゆく。
縁は透き通る緑。
中央へ向かうほどに、
青は深まり、底知れぬ闇へと沈む。
まるで――
底に、空を沈めたかのようであった。
水面は鏡のごとく天を映す。
雲が流れれば、そのまま滑る。
だが、どこかが狂っている。
空の動きと、水の動きとが、
微かに合わぬ。
ほんのわずか、遅れている。
(……呼吸しているのか)
池そのものが、
緩やかに息づいているかのようであった。
静寂は、不自然であった。
鳥の声はなく、
虫の羽音もない。
風すら、木々を揺らさぬ。
ただ、水の音のみ。
「……ちゃぷん」
触れるものもないのに、
水面に波紋がひろがる。
湿りはある。
しかし腐りの匂いはない。
むしろ清冽であった。
雨上がりの森の香。
石と水と、
長き時の沈殿した匂い。
(懐かしい……)
なぜか、そのように感じられた。
池の縁は、柔らかな草に覆われている。
だが、その外。
一歩離れたところから、
古木が円を成して立ち並ぶ。
まるで結界のごとく。
幹は太く、ねじれ、
歳月の重みを語っている。
そのいずれもが、
池の方を見据えているようであった。
空は明るい。
しかれども、池の上のみ、光は鈍い。
いや――
吸われている。
水面に落ちた光は、
そのまま沈み、帰らぬ。
覗き込む。
底は見えぬ。
否、それだけではない。
「深い」という言葉が、ここでは意味をなさぬ。
距離ではない。
幾重にも重なる“層”。
その彼方に、
何かが在る。
一歩、近づく。
足元の土が変わる。
柔らかく、湿っている。
境が、はっきりと知れる。
(ここより先は――)
人の領分ではない。
風が止む。
音が絶える。
時が、わずかに鈍る。
それでも、水だけは動いている。
否――
見ている。
水面の奥。
ほんの一瞬。
影が動いた。
長く、大きく、
形を定めぬもの。
だが確かに、そこに
意思がある。
この池は、自然にあらず。
祈り。
恐れ。
積み重ねられた犠牲。
それらすべてが、ここに沈殿している。
そして――
何かが、待っている。
水の奥底より、声が響く。
低く。
静かに。
しかし抗い難く。
「なぜ来た」
常人ならば、震え伏すであろう問い。
だが――
雨音は、迷わなかった。




