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第6話 名前

行き倒れのコボルトは、領域の縁ぎりぎり、入口の敷居の内側に倒れていた。

「ノア、見解は」

「野良の魔物。主を失った配下の、成れの果て」

「主を失う、というと」

「マスターが死ぬと、コアは百日で自壊する。配下との契約も切れて、散り散り。魔力の供給を断たれた魔物は、外の世界では、ゆっくり弱って死ぬ」

つまり、こいつの古巣の迷宮は、もうこの世にない。倒産で職を失い、飢えて行き倒れた同業他社の従業員、というわけだ。

「班長、運んでやれ」

「ギャ」

歩哨を続けていた班長が、自分より一回り大きいコボルトを背負って、よたよたと運び込んだ。


水を飲ませ、飼料を与えると、コボルトは目を覚ました。

フードの下から覗いたのは、痩せた犬の顔。俺の姿を認めた瞬間、跳ねるように後ずさり、抱えていた道具箱を背中に庇った。命より道具箱が先、の動きだった。

「取らないし、追わない。食え」

飼料を押しやる。コボルトは長いことこちらを窺い、やがて、震える手で齧りつき――途中から、ぼろぼろ泣きながらかっ込んだ。よほど飢えていたらしい。

食い終わったコボルトは、所在なげに辺りを見回し――ふと、壁際に転がっていた壊れた鳴子に目を留めた。先日の戦闘でひしゃげたやつだ。

そこからの行動は、見ものだった。

道具箱を開け、布を敷き、使い込まれた工具を順番に並べ、鳴子を分解し、部品を一列に整頓し、歪みを叩き出し、組み直す。一連の動きに、一切の迷いがない。気づけば鳴子は、買ったときよりいい音で鳴っていた。

「……ノア。見たか、今の」

「見た。部品を、並べてた」

「整頓の才だ。それも筋金入りの」

試しに、鹵獲した弩を渡してみた。機構に泥を噛んで、引き金の渋い個体だ。

コボルトの目の色が、変わった。

分解、清掃、組み直し。そこで終わらず、引き金の支点を削って調整までしてみせた。試し撃ちをすると、引きは軽く、狙いはぶれない。元の状態より、明らかに良くなっている。

「採用だ」

即決だった。系統のメニューを開く。

【野良個体の雇用契約:2.0DP】

コボルトは差し出されたコアの光を長いこと見つめ、それから、おそるおそる手のひらを重ねた。


二層の脇に岩室を空け、工房とした。作業台は坑木の余りで、班長班が組んだ。

道具箱の中身は、手入れされ尽くした、しかし摩耗しきった工具ばかりだった。コボルトはその中から一本、折れたヤスリを取り出し、震える手で、俺に差し出した。

「……これを、捧げろと?」

こくり、と頷く。解析の仕組みは、もう理解しているらしい。一番大事な一本を型にして、工房のみんなの工具を作れ、ということだ。

「いい型を、起こそう」

【解析完了:鍛冶ヤスリ/生成単価1.8→0.2DP】

新品の工具一式を出力して渡すと、コボルトは道具を一本ずつ頬ずりして、また泣いた。よく泣く職人だ。

さて、困ったことが一つ。呼び名がない。「おい」では工房長に失礼だろう。

俺は作業台の上の、小さな螺子(ねじ)を摘み上げた。回せば締まり、緩めば外れる。機械の基本にして、規格化の象徴。

「ネジ。お前、今日からネジな」

軽い気持ちだった。モチのときと、同じくらい。

――瞬間、コボルトの体が、淡く発光した。

【名付けが成立しました】

【固有個体『ネジ』:コボルト → コボルトマイスターへ進化します】

光が収まると、そこにいたのは一回り背筋の伸びたコボルトだった。毛並みに艶が戻り、目には職人の落ち着いた光。手にしたヤスリを一振りして、本人が一番驚いている。

「……ノア。今の、なんだ」

「名付け。名を与えられた個体は、『個』に目覚めて、進化する」

「そんな重要機能、なんで黙ってた」

「聞かれなかった。それに――普通、マスターは名付けをしない。『損』だから」

「損?」

「名付きは、唯一無二になる。カタログから消える。再購入も、再生成も、できない。死んだら――二度と、戻らない」

ノアは硝子玉の瞳で、じっと俺を見た。

「量産個体なら、死んでも明日また買い直せる。名付きは、買い直せない。替えの利かない財産は、帳簿の上では、ただのリスク。……あなたなら、わかるでしょ」

ああ、わかるとも。減価償却もできない、保険も掛けられない、一点物の資産。効率の教科書なら、確かに「損」と書くだろう。

「……解せないな」

それでも、口をついたのはそっちだった。

「個の練度が上がるなら、長期では得だ。職人も、班長も、育てた一人は買った十人に勝る。そんなもの、前の世界じゃ常識――」

言いかけて、気づいた。

「待て。モチはどうなる。初日に名前をつけたぞ、俺は」

ノアが、モチを振り返った。隅でガラクタを食っていた白い丸が、ぷるりと震える。

「……とっくに、固有化してる。着任初日から」

「日報の『誤差』か!」

還元効率が、じわじわ上がり続けていた、あれ。誤差じゃなかった。成長だった。最安値の量産品は、名前ひとつで、とっくに一点物になっていたのだ。

ノアはモチのそばに浮かび、その魔力を透かし見るように、目を細めた。

そして、ひどく不思議そうに言った。

「……この魔力、変な色。白……ううん、虹? こんな色、系統の見本帳にない」

「色?」

「魔力には、本当は色がない。ないはず、なのに。それに――回収、できない」

「回収できない?」

「核に還そうとしても、系統が、受け取らない。はじかれる。……こんなの、初めて見る」

系統が、はじく魔力。

バグか、仕様か。例の1.7%欠損といい、この世界の根っこの仕様書は、どうにも穴だらけだ。俺は頭の中の帳簿の、調査案件の欄に一行書き足した。


夕礼で、俺は班長を前に呼んだ。

「班長。お前の働きは、もう役職じゃ足りない」

「ギャ?」

「名前をやる。――ただし、聞いてからだ。名付きは替えが利かない。死んだら終わりだ。それでも受けるか」

班長は、欠けた左耳をぴんと立てた。それから、胸を叩いて吠えた。

「ガッ、ガロッ!」

「……お前がいつも言う、それ。気合を入れるときの」

「ガロッ!」

「よし。それを名前にしよう。――ガロ。お前はガロだ」

光の柱が立った。

小鬼の輪郭が伸び上がり、肩が張り、人の少年ほどの背丈になる。灰緑の肌は引き締まり、目には確かな知性の灯。ホブゴブリン――進化を遂げてなお、左耳の欠けだけは、そのまま残っていた。

それでいい。その欠けは、チビを庇った勲章だ。

「ガロ……!」

低くなった声で、ガロは自分の名を呼び、握った拳を見つめた。チビとのっぽが、わあわあと飛び跳ねて囃し立てる。

ノアが、ガロの魔力を透かして、呟いた。

「これも、色がある。……赤銅色。きれい」

チビとのっぽが、期待の目で俺を見上げた。

「お前らはまだだ。名付けは人事の最終決裁でな、安売りはしない」

「ギャー……」

しょんぼりする二体に、大盛りを積んでやる。死なれたくないからだ、とは言わなかった。


その夜、ふと気になって、聞いた。

「そういえば、お前の『ノア』って名前は、誰がつけた」

ノアは、ぴたりと止まった。

「…………覚えて、ない」

「そうか」

「……うん」

「いい名前だと思うぞ」

ノアは答えなかった。ただ、自分の小さな手のひらを、しばらく見下ろしていた。


【迷宮経営日報 十一日目】

残高:44.0DP(前日比+1.6)

収入:自己奉納+2.0/モチ還元+3.0/地脈+4.8

支出:雇用契約−2.0/工房開設−3.2/工具型起こし・弩試作−1.6/維持費−1.0/飼料−0.4

特記:工房長ネジ着任(コボルトマイスター)。ガロ進化(ホブゴブリン)。モチの「誤差」は誤差ではなく成長だった。名付きは再購入不可、つまり替えが利かない。……名前というのは、思ったより重い買い物らしい。

淘汰戦まで、あと七九日。


(第6話・了)

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