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第29話 開業前夜

改装工事の十日間、迷宮には槌音と「ギャッ」が絶えなかった。

一層の天井では、ノロシが吊り足場の上で燐光苔を一房ずつ植えている。設計図は俺が引いた。前世で一度だけ見た、田舎の星空の記憶が元図だ。

百二十六日目の夜、試験点灯をやった。

「消灯。……点けろ」

闇の天井に、ひとつ、またひとつ、青白い光が灯っていく。連なって、流れて、川になる。天の川を中心に、でたらめな星座が広がった。でたらめでいい。この世界の星空は、俺はまだ見たことがないのだから。

「ギャー……」

足場の上のノロシが、自分で植えた星を見上げて、間の抜けた声を漏らした。気持ちはわかる。

ノアは、何も言わなかった。

ただ、いつまでも天井を見上げていた。硝子玉の瞳に星が映って、それ自体が星座の一部みたいだった。

「……感想は?」

「…………きれい、って言ったら、負けな気がする」

「何の勝負だ、何の」

「ちなみにこの星空、毎晩すこしずつ流れて配置が変わる。常連が来るたび、違う空になる仕掛けだ」

「……ほら、また勝った顔してる」

「だから何の勝負なんだ」

星空回廊、検収合格。

水鏡の間は、モチの独擅場だった。岩盤の床を、白い体が三日かけて舐めるように磨き上げ、仕上がったのは黒曜の鏡面だ。立てば天地が映り合い、燐光を一房灯すだけで、光の柱が上下に貫く。

「モチ、お前、左官と研磨の才能まであったのか」

ぷるり、と職人が謙遜した。

検収に立ったノアが、鏡の床をそっと覗き込んで、固まった。

「どうした」

「……わたし、ちゃんと映ってる」

「映るだろうよ、鏡なんだから」

「精霊は、普通の鏡には、ぼやけるの。これ、魔力ごと磨いてある。……モチ、すごい」

ぷるぷるり、と職人が照れた。

ものづくり横丁は、工房の壁を硝子板に差し替えた。ネジは最初「作業を見られるのは恥ずかしい」と渋ったが、試しに通したリーゼ党が硝子に張り付いて「すごい」を連呼した日から、まんざらでもない顔で槌を振っている。職人とはそういうものだ。


百二十七日目は、値付け会議だった。

議題は、ものづくり横丁で売る品の価格だ。ネジの工房は包丁から農具まで何でも作れてしまう。そして単価は、町の鍛冶屋の三分の一で済んでしまう。

「だからこそ、全部は売らない」

俺は品目表に、太い線を引いた。

「完成品の刃物と農具は、うちでは売らない。売るのは半製品――打ち延ばした地金と、研ぎ前の刃だ。仕上げと柄付けは、町の鍛冶屋バッソの店に卸す」

「ギャ?(安く全部売った方が、儲かるのでは)」

「目先はな。だが考えろ、ビス。うちが完成品を安売りすれば、バッソの店は半年で潰れる。鍛冶屋が潰れた町には、職人が残らない。職人のいない町は、いずれ人が残らない。人のいない町に、うちの客はいない」

商圏というのは、絨毯と同じだ。自分の足元だけ強く引っ張れば、全体がたわんで、最後は自分が転ぶ。

「うちは素材で稼ぐ。バッソの店は加工で稼ぐ。客は安くていい物を買う。三方の帳尻が合う取引だけが、長持ちするんだ」

この案は、セラを通じてバッソ本人にも諮った。返事は伝聞で来た。曰く――『迷宮に商売の仁義を説かれる日が来るとはな。乗った、と伝えてくれ』。

炉に火が入るのは、何十年ぶりだそうだ。


百二十八日目、セラが最終打ち合わせに来た。

「広場の屋台は十六。出店は迷宮産品が四、町の店が七、近郊の村から五。問題は――」

「客足、だろう」

「ええ。正直、町の人間だけでは数が知れています。お祭りは、人がいて初めてお祭りなので」

「仕掛けは打ってある。ギルドの臨時依頼だ」

スミに運ばせた依頼書の写しを、セラに渡す。

『依頼:第一回迷宮市の警備および賑わい確認。報酬:銀貨+市での買い物割引券。等級不問』

「警備依頼に、買い物割引券……?」

「冒険者ってのは、現金で雇うと仕事だけして帰る。だが割引券で雇うと、財布を持って市を歩く。歩けば買う。買えば屋台が潤う。潤った屋台は来月も出る」

「……報酬で、客を作るんですか」

「人件費と販促費を一枚にまとめただけだ。ついでに言えば、冒険者が大勢いる市は治安がいい。警備依頼としても本物だ」

セラは割引券の見本を矯めつ眇めつし、台帳に書いた。

『この迷宮、銭の使い方が高度に意地悪い(褒め言葉)』

褒め言葉なら顔に出してほしい。

「それと」と、彼女は帰り際に付け足した。「明日は父も来ます。文句をつけに、ですが」

「文句は上等だ。来もしない無関心より、文句の方がずっと商売になる」

「……その台詞も、長老会用にいただきます」


百二十九日目の夕方、リーゼ党が「はじめての迷宮」コースの最終確認を歩いた。

危険のない別動線。仕掛けは、軽い謎解きと、宝箱(中身は薬草の種と飴)と、モチのお辞儀と、締めの星空回廊だ。

仕掛けの目玉は、三つの謎解きだ。一つ目の「光る飛び石」をリーゼが三秒で渡り、二つ目の「音の合う壺」をドガが偶然解き、三つ目の「星座合わせ」で、ミナが止まった。

「……これ、答えが二つありますよ」

「ほう?」

「設問の星座は『北の鎌』ですけど、鏡の床に映る反転でも筋が通ります。どっちが正解ですか」

「両方だ。よく気づいた。裏解にはおまけが出る」

壁の隠し棚が開き、飴が一粒多く転がり出る。ミナは眼鏡の奥の目を輝かせ、台帳……ではなく手帳に何かを書き付けた。あの几帳面さは、どこかの受付嬢に通じるものがある。

「……いやこれ、ほんとにすごいですよ。あたしが初心者のとき、これがあったら」

「あったら?」

「冒険者、辞めてないやつ、もっといっぱいいたと思う」

リーゼの声は、少しだけ静かだった。駆け出しの頃に何を見て、誰が辞めていったのか。聞かなかったが、割引券を一枚多く握らせた。

ドガは星空回廊で今日も泣いた。もはや検収の一部である。


その夜。開業前夜の見回りで、スミが妙なものを見つけた。

迷宮の外周、北側の岩場。柔らかい土の上に、小さな足跡が点々と続いていた。子供のものほどの、軽い足跡。

それは迷宮の入口の十歩手前まで真っ直ぐ近づき――そこで、くるりと一回転して、消えていた。

跡形もなく、だ。飛んだのでも、引き返したのでもなく、回転の途中で足跡だけが途切れている。

「……ノア」

「うん。……普通じゃ、ない」

足跡の主の見当は、ついていた。花の絵の手紙の主。隣の、罠の魔女。

下見か、挨拶か、それとも罠の設置か。外周の検査を二周やらせたが、何も出なかった。何も出ないのが、一番気味が悪かった。

「警戒等級を一つ上げる。……だが、開業は予定通りだ」

ガロは夜間巡回を二倍に組み直し、ネジは入口の周りに自作の「防犯からくり」を一晩で三つ仕掛けた。鳴子の改良型で、踏むと音が出る代わりに、踏んだ者の足裏の寸法を粘土に写し取るという、妙に執念深い造りだった。罠の魔女への、工房長なりの対抗心らしい。

明日は、町の命運と、うちの新装の初日が懸かっている。

魔女の相手は、客を捌いてからだ。


【迷宮経営日報 百二十九日目】

残高:12,966.3DP(改装費−3,800/屋台・割引券関連−210)

特記:星空回廊・水鏡の間・ものづくり横丁・初心者コース、全て検収済み。半製品卸しで鍛冶屋バッソと協業成立。外周に正体不明の足跡(消失型)。警戒等級引き上げ。

新装開業まで、あと一日。


(第29話・了)


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