第24話 台帳の人
百日目の午前、セラ・モンドは時刻ぴったりに現れた。
迷宮の入口前。リーゼ党を案内役に、旅装の上から書類鞄を斜めに掛け、髪はきっちり、袖口にはインクの染み。彼女は入口の闇を見据えると、まず一礼した。
「ラトナ冒険者ギルド支所、受付主任のセラ・モンドです。本日は協議の機会をいただき――」
「ようこそ。当迷宮の管理者だ」
スミが入口の岩に降り立って言った。
普通、ここで悲鳴が上がる。リーゼ党は四人とも上がった。
セラは、半歩だけ退がり、三秒沈黙し――鞄から台帳を出した。
「……記録します。『百日目、四九番迷宮、使い魔の鴉を介して発話を確認。知性、流暢。交渉の主体と認む』。続けてよろしいですか」
「……ノア。俺はいま、ちょっと感動してる」
『知ってる。声がうわずってる』
悲鳴より先に記録。疑うより先に確認。この世界に来て初めて出会う、完全な実務の人だった。
協議は、入口前に組んだ机で始まった。ネジが夜なべで作った、来賓用の机と椅子だ。脚の長さが寸分も狂っていない辺りに、工房長の緊張が出ていた。
「まず」とセラは言った。「御社の……と呼ばせていただきますが、決算書を拝見できますか」
「ノア、写しを」
百日分の日報から起こした収支計算書を、敷居越しに差し出す。セラは指を滑らせ、目を走らせ、頁をめくる手を一度も止めずに読み切った。
「先日の返書の件だが」と俺は切り出した。「冬場の輸送費、ご指摘の通りだった。当方の試算を四割増しに修正する。雪道の荷馬車の実費を、こちらは知らなかった」
「お認めになるんですね」
「検算で負けたら認める。それが帳簿の礼儀だ。――ただし、乾燥目減りの方は再反論がある」
「ほう」
「薬草の目減りは、産地から市場までの日数で決まる。王都産は採取から店頭まで十日、目減り三割。うちは違う。客が採って、その足で町に卸す。当日着だ。目減りは一割を切る。つまり同じ卸値でも、町の薬師が使える正味は、うちの品の方が多い」
セラの筆が止まり、すっと走り、また止まった。検算している。やがて彼女は顔を上げた。
「……再反論を認めます。正味換算の等級表を、別表で作りましょう」
「乗った」
リーゼ党が、机の脇で囁き合っていた。「ねえ、さっきから何の勝負?」「わかんないけど、すごい斬り合いに見える」。間違ってはいない。
「……収入の柱が四本。地脈、還元、感情採取、物販相当。支出は維持費と人件費と設備投資。健全です。むしろ、健全すぎて怖いくらい」
「怖い?」
「ええ。迷宮が帳簿をつけるという話自体、聞いたことがありませんから」
「うちでは、帳簿をつけない方が怖いと教育してる」
本題に入る。俺の提案は四本柱だ。
「第一に、薬草・鉄製品・魔石の安定供給。相場の一割安で、品質等級はそちらの鑑定基準に従う。第二に、月に一度、町の広場で『迷宮市』を開く。出品はうちの産品と、冒険者の戦利品。場所代は町に落とす。第三に、ギルド支店の格上げ誘致を共同で働きかける。冒険者が増えれば、うちも町も潤う。第四に――安全保証条項」
「安全保証?」
「うちの領域内で客に死者・重傷者が出た場合の、補償制度だ。原因がうち側にあれば、治療費と休業補償を迷宮が持つ」
セラの筆が、初めて止まった。
「……迷宮が、冒険者に、保険を?」
「客が安心して入れる迷宮は、客単価より客数で稼げる。慈善じゃなく、設計だ」
「『慈善じゃなく設計』……いただきます、その言葉。長老会で使えます」
筆が走る。この人は本当に、いちいち話が早い。
だが、台帳の人の本領は、ここからだった。
セラは書類を揃えると、まっすぐ俺を――スミを、見た。
「数字は、結構です。検算して、穴は見つかりませんでした。ですから最後に、数字にならない質問を二つ、させてください」
「どうぞ」
「一つ。ラトナは、鉱山に頼って生きて、鉱山に死なれて、いま死にかけている町です。その町に、今度は迷宮に頼れと仰る。……依存先が変わるだけでは、ありませんか? あなたが『夜逃げ』をしたら、町は二度目の死を死にます」
前任者の夜逃げを、知っているのか。いや、知らずとも、迷宮の主など信用ならんというのが世間の相場だろう。
誤魔化す価値のない、いい質問だった。
「依存と取引の違いは二つある。相手の数と、紙の有無だ」
「と、言いますと」
「鉱山が死んで町が死んだのは、販路も雇用も鉱山一本に束ねたからだ。だから契約書には『町は迷宮以外の産業を育て、迷宮はそれを妨げない』と入れる。市で町の農産品も売れ。街道の宿場機能も育てろ。うちはあくまで複数ある柱の一本に収まる。それと、約束は全部書面にする。慣習は破られるが、書面は破ると高くつく。……うちが潰れても町が生き残る構造にしておくのが、この契約の本体だ」
セラは、長いこと俺を見ていた。
「……自分が潰れた後の話を、自分からする経営者を、初めて見ました」
「潰れた工場を、一つ知ってるんでな」
「二つ目の質問です」
彼女は台帳を閉じて、聞いた。
「あなたは、何のために町を助けるんですか」
「助けない。取引だ。うちの商圏に、死なれちゃ困る」
「……商圏」
セラは小さく繰り返し、台帳の隅に何かを書き付けた。スミの目はいいので、読めてしまった。
『本音は別にありそう。要観察』
おい、帝国と同じ分類をするな。
「町の側の手続きは、どうなる」
「長老会の承認と、町長の署名が要ります」
「町長は、手強いか」
「ええ、それはもう。頑固で、慎重で、新しいものが嫌いで――私の父です」
さらりと言われて、スミの首が傾いた。
「父は反対するでしょう。迷宮と契約など正気か、と。ですから父には、賛成させる資料を作ります。父が断れない形の数字を。……ご心配なく、十八年やってますから、攻略法は」
「親を攻略対象と言い切る娘で、町は安泰だな」
「誰に似たんでしょうね」
台帳の人は、涼しい顔で書類を揃えた。
「条件を、一つだけ付けさせてください」
帰り支度をしながら、セラは言った。
「調印の前に、迷宮の中を、私自身の目で検分させてください。産地を見ていない商品を、私は台帳に載せられません」
「危険は保証しかねる、と言ったら?」
「保証できないと正直に言う相手の方が、信用できます。それに」
彼女は、ちらりとリーゼ党を見た。
「護衛なら、お宅の上客がいますから」
「えっ、わたしたち!?」
「指名料は出します。銅級の正規依頼として」
リーゼが直立し、ロイがむせ、ミナが眼鏡を直し、ドガが盾を抱きしめた。
「……いいだろう。三日後、検分を受ける。道中の安全と、見学順路はこちらで設計する」
「では、百三日目に」
セラ・モンドは一礼し、来た時と同じ歩幅で帰っていった。
『……マスター、ずっとにやにやしてる』
「してない。……してるか。いやな、ノア。九十日かけて作った帳簿を、初めて他人に検算してもらえたんだ。経理の喜びってのは、そういうもんだ」
【迷宮経営日報 百日目】
残高:23,551.0DP
特記:対町協議、実質合意。四本柱(供給・市・支店誘致・安全保証)。先方主任、当方の本音を「要観察」と記録(理不尽である)。検分の受け入れ準備を開始。ネジ、来賓用の椅子をもう二脚作り始める――誰が来る想定だ。
検分まで、あと三日。
(第24話・了)




