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第21話 壺の底

女王の前脚が、振りかぶられる。

槍の間合いの外から来る、薙ぎ払い。あれが届く瞬間、ガロはまだ間合いの外だ。届かない槍と、届く脚。突進を続ければ、結果は計算するまでもない。

「ガロ、止ま――」

言いかけた声を、俺は呑み込んだ。

ガロは、止まらなかった。代わりに、跳んだ。前へではなく、横へ。薙ぎ払いの弧の外へ跳び退きながら、着地点はまっすぐ、俺の立つコアの間の扉前。

土煙を裂いて、欠け耳のホブゴブリンが俺の前に降り立つ。

振り向いた目が、何かを要求していた。言葉はない。だが九十日も一緒に働けば、現場責任者の顔くらい読める。

――得物をくれ。一番いいやつを。

俺はカタログを開いた。最後の頁。ネジが打った渾身の一本を解析した、銘入りの槍。量産規格槍の二十倍以上の業物で、生成単価、8.0。

視界の隅で、残高が鳴った。

【残高:10.0】

笑える。九十日経営して、最後に残ったのが、槍一本と小銭か。

いや――違うな。

最後に残ったのが、槍一本と小銭と、こいつらだ。なら、安い買い物だ。

「――生成」

【生成:銘槍『工房長の一番』/−8.0DP】

【DP残高:2】

着任の夜と、同じ数字が、視界に灯った。

床から生まれた槍は、燐光の下で、ほとんど鳴いているように見えた。柄の手元に、たどたどしい刻み文字。ネジが自分の銘の代わりに刻んだ、小さな螺子の印。

岩山の上で、滑車にぶら下がったままの工房長が、それに気づいて、大きく目を見開くのが見えた。

床から生まれた槍を掴み取り、ガロの手に叩きつける。

「全財産だ。外すなよ、現場責任者」

「ガロッ!」

欠け耳のホブゴブリンは、銘槍を一度だけ高く掲げ――岩山の上のネジに、それを見せた。

お前の槍で行くぞ、という意味だった。

滑車にぶら下がったままの工房長が、千切れるほど頷いた。

ホブゴブリンが、再び駆けた。

女王の前脚が、二度目の弧を描く。今度こそ捉える軌道。間合いの外からの、必殺の薙ぎ払い。

だから、ガロは。

間合いの外から、投げた。

「ガロォォォォッ!!」

教えていない。手順書のどこにも、投擲の頁はない。手順の外のことは何もするなと、九十日言い続けてきた。その九十日の最後の一手で、うちの現場責任者は、初めて手順書を破り捨てた。

誰の指示でもなく、自分の判断で。

間合いの外から来る攻撃を、間合いの外から届く一撃で返す。正解だ。満点だ。俺が三十秒かけて辿り着く答えに、こいつは半歩で辿り着いた。

世界が、また、ゆっくりになった。

回転しながら飛ぶ銘槍。振り抜かれていく女王の前脚。観戦窓の五十一の光点が、瞬きすら忘れて静止している。ノアの手が、俺の袖を掴んでいる。

銘槍は薙ぎ払いの上を越え、土煙を貫き、モチがこじ開けた装甲の裂け目へ――吸い込まれた。

裂け目の奥で、硬質な、澄んだ音がした。

ぴし、と。

百年もの間、女王の胸郭の中で守られ続けた迷宮核に、罅が走る音だった。

数の暴力は、数字の暴力で殺す。

九十日かけた証明が――いま、終わった。

大空洞は、静まり返っていた。

遅れて、ガロの構えがゆっくりと解かれ、ネジが滑車から滑り落ち、退避壕から従業員たちが一体、また一体と這い出してくる。まだ、誰も声を上げない。目の前の光景と九十日の重さの、帳尻が合うのを待っている時間だった。


『………ああ』

女王の振りかぶった前脚が、力を失って、落ちた。

巨体が、ゆっくりと崩れる。岩山にもたれ、三本の脚を折り、黒曜の山は、ただの疲れた老獣の形になった。

『届いたか。……届くものだな、九十日でも』

「グルム卿」

『敗者に、卿は要らん』

複眼の残りの光が、明滅しながら、俺を探した。

『名を……聞いておこう。私を喰った、膳の名を』

「相馬計。……計算の、計だ」

『計算の計、か。……フ。生まれながらの、同業だったわけだ』

『ケイ……』

女王は、その音を、噛みしめるように繰り返した。

『良い名だ。……私にも、あった気がする。名が。壺に入る前……まだ、考える新入りだった頃に……』

「思い出せないのか」

『食ったのだ。……いつかの戦いで、邪魔になった。迷いも、痛みも、名も。食えば、強くなれた。……お前が呑んだ、十二の新入りたちもな。皆、いい目をしていた。顔は、もう、一つも思い出せんが』

百年。

壺の底で、勝つたびに何かを食ってきたのだろう。敵を、配下を、迷いを、名を。そうして最後に残ったのが、数えることだけだった。

ぞっとするのは、その道筋に、一箇所も「間違い」がないことだ。

一手一手は、全部正しい。効率的で、合理的で、勝つための最適手。その最適手を百年積むと、これになる。名前を食った、数えるだけの王に。

これは他人事の帳簿じゃない。俺の帳簿の、百年後の頁かもしれないのだ。

『計よ』

声が、薄れていく。

『壺の底で……考え続けろ。喰って、勝って、それでも……考えることを、やめるな。私の、ように……なるな……』

「………ああ」

それ以上の返事を、俺は持っていなかった。

複眼の光が、消えた。

裂け目の奥で、罅の入った核が、静かに砕け落ちる音がした。


【淘汰戦 終了】

【勝者:四九号】

【敗者(三一号)の全資産――コア、DP残高、領域、契約、記録――の吸収を開始します】


系統の通知が、夜明けの鐘みたいに、視界に並んだ。

【制限時間 残り:一時間二十二分】

ぎりぎりだった。七十二時間の戦争を、一時間半残しての決着。系統の没収まで、あと紙一重のところだった。

大空洞の岩山の向こうから、光が流れ込んでくる。回廊を逆流して、敗者のすべてが、勝者の核へ。ひび割れたうちの水晶が、浴びるその光で、九十日間で一番強く輝いていた。

観戦窓の光点が、一つ、また一つと消えていく。祭りの終わった観客席だ。拍手の音は、もちろん聞こえない。だが最後まで残った幾つかの窓は、長いこと、こちらを見つめてから消えた。

「……終わった、の?」

ノアの声に、俺は表示を指差した。

【DP残高:2】

「……残高、最初と同じ」

「ああ。――中身が、まるで違うけどな」

俺は、深く息を吸った。肋が痛んだ。構うものか。

「終礼だ! 総員、点呼!」

「ガロッ!」

こきり!

「ギャッ!」「ギャウ!」

「「「ギャッ!!」」」

「……ぷ、る」

モチの返事は、聞いたことがないほど弱々しかった。だが、返事だった。生きている。縮んで、濁って、それでも丸い。

「ノア」

「ここに、いる」

「四番」

返事は、ない。

「十一番」

返事は、ない。

代わりに、ガロが一歩前に出て、岩山の方角へ向き直り、低く、長く――「ガッ」と応えた。隊長が、二人ぶんの返事を背負った。

「……全員、いるな」

誰も、訂正しなかった。それでいい。うちの点呼は、今日からそういう規則だ。

「第六三期淘汰戦、当迷宮の勝利をもって終了。──決算は、明日だ」

言い終えた途端、膝から力が抜けた。

壁にもたれて、ずるずると座り込む。誰も笑わなかった。ガロが黙って隣に座り、ネジが反対側に座り、チビとのっぽが足元に転がり、縮んだモチがその真ん中に収まって、最後にノアが、定位置みたいに俺の肩口に浮いた。

誰も、何も言わなかった。

敗者のすべてが核へ流れ込んでいく金色の光を、うちの全員で、いつまでも眺めていた。


(第21話・了)

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