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第20話 女王の晩餐

『この餌は、毒だな』

女王は、死骸の山を前にして、動かなかった。

三本残った脚の一本が、山のいちばん上の死骸を、ことりと突いた。検品だ。あの瀕死の体で、なお検品を忘れない。配給網を焼かれた獣は、二度と無検品では食わない。

『私の補給を焼いた、あの手口。同じ皿を、二度並べたか。新入り』

「ご明察」

隠す段階は、もう過ぎた。だから俺は、ありのままを言った。

「あんたが崩落を生き延びる確率は、五分と見ていた。生き延びた場合、あんたは必ず『食って治す』。なら、手の届く場所に食い物を用意しておくのが、もてなしというものだろう」

『毒の膳をか』

「毒の膳を、だ」

俺は、痛む脇腹を無視して、まっすぐに女王を見た。

「選べ、グルム卿。選択肢は二つある。一つ、食って治して、毒と戦いながら俺を殺しに来る。二つ、食わずにその傷のまま、残り三時間を、うちの槍と弩に削られながら待つ」

『……どちらを選んでも、か』

「ああ。どっちでも、うちの勘定は合う」

『時間切れの没収は、考えんのか。私を仕留め損ねれば、お前も共に消えるのだぞ』

「考えてるとも。だからこの詰みは、あんた一人の詰みじゃない。俺の分も入ってる」

俺は、ありったけの本音で言った。

「あんたが食わずに座り込めば、俺は残り時間、虎の子の槍を四十一本投げ続けて、たぶん削りきれずに、あんたと仲良く没収されて終わる。……だから頼むから、食ってくれ。こっちはあんたと違って、まだ死ぬわけにいかない事情が、入口の外に山ほど待ってるんだ」

『……正直なことだ』

「交渉の最終局面ではな、正直が一番安くつく」

食えば毒が回り、食わねば傷が殺す。時間はどちらの味方でもなく、ただ両者の死だけを運んでくる。

盤面のすべての枡目が、詰みに繋がっている。

これが、九十日かけて組んだ機械の、最後の歯車だった。

言い切った口の中が、ひどく乾いていた。

誇る気分には、なれなかった。俺がいまやっているのは、傷ついて飢えた生き物の眼前で、毒の皿を指して「選べ」と言う仕事だ。前世のどんな査定面談より、悪辣な交渉だった。

それでも、声は揺らさない。揺らせば、九十日が無駄になる。

女王は、長いこと、沈黙していた。

半分になった複眼が、死骸の山と、俺と、岩に塞がれた回廊の方角を、順に見た。百年の知性が、盤面の全部の枡目を、俺と同じように数えている時間だった。

観戦窓の光点は、一つも瞬かなかった。五十一の視線が、王の選択を待っていた。

やがて。

『……見事だ』

女王は、言った。

怒りでも、呪いでもなく――ただ、静かに。

『百年で、最も見事な膳だ。新入りよ。ならば礼儀として、残さず食ろうてやろう』

女王が、食い始めた。

毒と知って、貪った。三本の脚で死骸の山を崩し、顎で掬い、噛み砕き、呑み込む。一山、二山。咀嚼の音が、静まり返った大空洞に響き続ける。

誰も、何も言わなかった。ガロは槍を握ったまま、ネジは滑車に手をかけたまま、ただ見ていた。ノアも、目を逸らさなかった。

敵の最期の食事から目を逸らさないことが、せめてもの礼儀だと、誰に言われずとも全員わかっていた。

剥げた装甲の下で体節が蠕動し、流れていた体液が止まり、千切れた脚の断面が泡立って盛り上がっていく。同時に、足元がふらつき始める。複眼の光が、明滅の間隔を乱す。

治りながら、毒が回る。

回る毒を、治る力でねじ伏せる。

命の帳簿の上で、収入と支出が殴り合っていた。

『壺の底ではな、新入り』

食いながら、女王は言った。

『最後の一匹になるまで食らうのが、掟だ。毒だろうが、同胞だろうが、己の脚だろうが――食らって、残った者だけが、正しい』

そして百年、私は正しかった――。

そう言い終えるより早く、女王は跳んだ。

治りかけの四本目の脚が地を蹴り、半壊の巨体が、信じられない速度でコアの間へ突っ込んでくる。

「散開ッ!!」

ガロの鐘が鳴る。槍班が左右に割れて穂先の垣根を作り、女王の突進を斜めに受け流す。一撃離脱。深追いなし。手順書の通り、手順書の限界まで。

「弩班、複眼!」

退避壕の上から、ひと際澄んだ射撃音がした。

チビだ。のっぽの弩を構えた小さな射手が、岩の上に腹這いになって、生き残った複眼の一つを正確に射抜いた。

夜行の隘路で初めての一射を放った、あの震える手は、もうどこにもなかった。

『オオォッ!?』

よろめいた女王の脚に、今度は、ばつん、と空気の千切れる音が突き立つ。

一番弩。射界を塞がれたはずの。

見れば、ネジが半壊の台座を岩山の斜面に担ぎ上げ、巻き上げ機構の壊れた滑車に、自分の全体重をぶら下げて――手動で、撃っていた。

五射が限界、と自分の木札に刻んだ台座の、これが六射目だった。工房長において、限界というのは、超えるために計っておくものらしい。

治りかけの四本目の脚が、規格槍に縫われて止まる。

「いまだ、モチ!」

白い影が、転がった。

死骸の山の陰から一直線、女王の脇腹――装甲の剥げ落ちた、あの裂け目へ。

モチは裂け目に取り付くと、食い始めた。

甲殻を。体節を。百年の鎧を、内側へ、内側へ。

『おのれ、虫けらがァッ!』

女王の体液は、強酸だった。

工兵蟲の酸で腹を壊した、あのときの比ではない。モチの白い体が、見る間に濁っていく。縁が煮え、体積が縮み、ぷるぷるという健気な震えが、苦悶の痙攣に変わっていく。

それでも、食うのをやめない。

「モチ、離れろ! それ以上は体が保たない! 聞こえてるのか、モチ!!」

ぷるり。

聞こえている。聞こえた上で、離れない。

九十日前の夜が、頭をよぎった。残高2の暗闇で、最安値の1DPと引き換えに生まれてきた、白い丸。掃除くらいはする、とノアが言った。掃除どころか、こいつは地脈を見つけ、毒ガスを呑み、坑道を掘り、戦場の経済を回し――今、この迷宮の誰にも破れない鎧を、たった一人で食い破ろうとしている。

スライム百匹に一匹の当たりだと?

冗談を言うな。

百万匹に一匹だって、こんなのはいない。

「……頼む、モチ。開けたら、すぐ離れろ」

ぷる。

最安値1DPの、うちの最初の従業員は、百年の女王の鎧に、ついに――風穴を開けた。

役目を果たした白い体が、裂け目から剥がれ落ち、岩の陰に転がり込む。縮んで、濁って、湯気を上げて。それでも、確かに生きて。

「マスター!!」

ノアが叫んだ。

「裂け目の奥! 胸郭の中に――光! コアがある! あいつ、迷宮核を呑んで、一体化してる!」

巣を空にして全軍で来られた理由。本体の出撃などという博打を打てた理由。最後の答え合わせが、そこにあった。

グルムの核は、最初からずっと、グルムの中にある。

つまり、あの裂け目の奥の光を砕けば――終わる。

「ガロ!」

ホブゴブリンは、もう走り出していた。

折れ残りの槍を握り、岩塊を蹴り、女王の懐へ。その軌道の先で、女王の前脚が、最後の力を振りかぶるのが見えた。

槍の間合いの、外から来る薙ぎ払い。届く前に、潰される。

「ガロォッ!!」


【戦況記録 経過七〇時間】

残高:10.0(回復薬六本・一番弩緊急部材で底)/敵性残存:女王体(中毒進行中・コア露出)

特記:女王、毒と知って完食。敵ながら、見事な経営者だった。モチ、重度の酸損傷――それでも穴を開けた。決着まで、あと一手。

制限時間まで、残り二時間。


(第20話・了)

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