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第19話 三十六本

跳躍した女王が大空洞の中央に着地した瞬間、世界が揺れた。

土煙の中を、黒曜の山がこちらへ突進してくる。一歩で五体分。速い。あの巨体の、どこにあんな脚力が残っていたのか。

正面に立つと、よくわかった。質量が迫るというのは、音でも視覚でもなく、圧だ。皮膚の全部が、早く逃げろと喚いている。

だが、その足が踏んでいるのは、九十日かけて整えた、俺の盤面のド真ん中だ。

俺は走らなかった。逃げる芝居は、もう要らない。

ただ、目測した。

工場の在庫を一瞥で数えた、あの要領で。突進の歩幅、加速、残り距離。頭の中で目盛りが振られ、数字が立つ。世界が、奇妙なほどゆっくりと流れる。

早すぎれば、奴は崩落の縁で止まり、二度と罠を踏まない。

遅すぎれば、奴の顎が、俺とコアに届く。

正解は、一点しかない。三十六本の支保が支える天井の、その中心に奴の重心が達する――まさにその瞬間だけだ。

あと、四歩。

『死ねェッ、新入りィィ!!』

三歩。

顎が開く。琥珀色の光が喉の奥で煮える。

二歩。

「――今だ」

左手の起動索を、引き抜いた。

モチが九十日かけて食い細らせた三十六本の柱が、同時に、折れた。

音は、聞こえなかった。

音と呼べる上限を超えた何かが、世界を白く塗り潰した。大空洞の天井――岩盤数万の質量が、丸ごと落ちた。

退避壕では、ガロがチビとのっぽをまとめて抱え込み、岩屋の床に伏せていた。ネジは咄嗟に、自分の体で一番弩の機関部に覆い被さった。身を守る順番が、揃いも揃って自分が最後だ。教育を間違えた覚えはないんだがな。

衝撃波が扉から雪崩れ込み、俺の体は紙切れみたいに浮いて、コアの間の壁に叩きつけられた。

「マスター!!」

ノアの声が、初めて、悲鳴の形をしていた。

青白い光が視界に飛び込んでくる。小さな手が、俺の頬の埃を払う。精霊の手は、ひやりと冷たくて、それから、微かに震えていた。

「……生きてる」

肋のあたりで、嫌な音がした。息を吸うと脇腹に火が走る。一本か二本、いったらしい。

「動かないで。回復薬――」

「後だ。……表示を、見せろ」

「後じゃない! あなたは自分の体だけ、いつも勘定から外す!」

怒鳴られた。この九十日で、初めてだった。

俺は素直に、押し付けられた硝子瓶を呷った。肋の火が、じわりと退いていく。

「……悪かった。経費で落としておく」

「当たり前」

土煙の向こう、大空洞だった場所には、岩の山脈ができていた。落ちた天井そのものが、女王の墓標になっている。

鴉を飛ばした。土煙の上を旋回する黒い目が、山脈の全景を映す。動くものは、ない。聞こえるのは、小石が転がり落ちる音だけ。

誰も、声を上げなかった。ガロも、ネジも、退避壕の中で息を殺して、視界の表示を待っている。

十を数えた。二十を数えた。

チビが、おそるおそる岩陰から顔を出す。のっぽが、隣で唾を呑む。観戦窓の光点まで、明滅を止めて静止していた。壁一面が、固唾を呑んでいた。

三十を数えたとき、誰かが――たぶん若い番号持ちが、小さく「ギャ」と歓声を漏らした。

それが伝染しかけた、その瞬間。

系統の文字が、灯った。

【敵性大型反応:――継続】

「………」

継続。

生きている。あの下で、まだ生きている。

岩の山脈が、内側から軋んだ。

ごり、ごり、と岩塊が押しのけられ、隆起し、崩れ――黒曜の頭部が、土煙を破って這い出してきた。

だが、その姿は、もう山ではなかった。

脚は三本。残りは自分で食い千切って捨てたらしい。背の装甲は半分が剥げ落ち、露わになった体節から、体液が滝のように流れている。王冠の甲殻は砕け、複眼の半分は光を失っていた。

百年の女王が、初めて、小さく見えた。

『……ォ……オオ……』

それでも、生きている。三本の脚で岩を掴み、自分の墓の中から、体を引きずり出してくる。

「嘘、だろ……」

誰かの声が、退避壕から漏れた。咎める者はいなかった。全員の本音だった。

岩盤数万の質量を正面から受けて、脚を三本失って、装甲の半分を剥がされて――それでもあの生き物は、自分の墓から、自分の力で這い出してくる。百年というのは、そういう重さなのだ。淘汰戦十二回分の死線が、あの甲殻の一枚一枚に焼き付いている。

「……マスター。あれでも、まだ」

「息の根は止まってない。だが、見ろ。歩き方が違う」

這い出した女王は、もう「戦える体」じゃなかった。あれは「死んでいない体」だ。その差は、帳簿の上では天と地ほどある。

「ガロ、一番弩は!?」

「ガッ……!」

退避壕から首を出したネジが、泣きそうな顔で首を振った。一番弩の射界は、崩落の岩山が完全に塞いでいた。撃てたとしても、台座は応急修理の半壊のままだ。

弩は効かない。槍も届かない。崩落は、もうない。

そして向こうも、満身創痍。

「ノア、棚卸しだ。残ってる手札を全部言え」

「規格槍、四十一本。ボルト、六十三。回復薬、残り六本。一番弩は射界封鎖。崩落、ゼロ。全員の体力――半分以下。残高」

「残高は」

「……八八・三。あなたの回復薬と、退避壕の補強で、ほとんど出た」

互いに、手札が尽きた。

こちらに残ったのは、削るだけの遠戦支度と、疲れ切った従業員と、二時間半の時間。向こうに残ったのは、半壊してなお殺しきれない巨体と、百年の執念。

あとは、どちらが先に立て直すかの勝負だ。

そして立て直しの速さなら、確実に向こうが上だ。

あの自己修復がある限り、時間は再び女王の味方になる。半刻も放置すれば、脚が生え、装甲が埋まり、こちらの残り四十一本の槍では二度と削りきれない化け物が、完成する。

つまりこの詰め将棋の持ち時間は、制限時間の二時間半ではない。奴の傷が塞がりきるまでの、ほんのわずかな間だけだ。

そして女王には、立て直す手段がある。あの忌々しい、百年の特技が。

『……喰わねば』

女王の声が、譫言のように漏れた。

『喰って、治す。それが、壺の掟……』

半分残った複眼が、ぎょろりと周囲を見回す。

護衛の蟲は、崩落でほぼ全滅した。岩の下から漏れ出る体液の匂いだけが、戦場に満ちている。食えるものを探して、女王の視線が、岩山の縁をなぞり――

止まった。

そこに、山があった。

岩の山ではない。死骸の山だ。毒で死んだ蟲たちの死骸を、モチがこつこつと押し運んで積み上げた、いくつもの黒い山が、自爆区画の縁に沿って、整然と並んでいた。

崩落の射程の、ぎりぎり外側に。

つまり――潰れも、埋まりもせずに。今の女王の、ちょうど手の届く場所に。

『………』

女王の複眼が、死骸の山を見た。

それから、ゆっくりと、コアの間の前に立つ俺を見た。

半分になった複眼の奥で、百年の知性が、すべてを理解する光り方をした。

『……ほう』

低い、低い声だった。

『そういう、ことか。新入り』

背筋を、冷たいものが伝った。

気づかれた。だが――気づかれたところで、盤面は変わらない。そういう詰みを組んだつもりだ。つもりだが。

百年の王が次に何を言うか、俺は柄にもなく、祈るような気分で待った。


【戦況記録 経過六九時間】

残高:88.3/敵性残存:女王体(重損・脚三・装甲半壊)、護衛ほぼ全滅

特記:自爆崩落三十六本、起動。女王、撃破に至らず――ただし「飢えた」。マスター、肋骨二本にひび(経費)。モチの積んだ死骸の山、無傷で女王の眼前に。ここからが、本当の詰め将棋だ。

制限時間まで、残り三時間。


(第19話・了)

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