第18話 撤退芝居
酸の奔流は、薙ぎ払うというより、塗り潰すと言うべきものだった。
琥珀色の帯が大空洞を横一文字に走り、触れたものすべてを煮溶かしていく。土嚢が、坑木が、積み上げた矢箱が、形を失って崩れ落ちる。伏せろの号令が半秒遅れていたら、溶けたのは陣地だけでは済まなかった。
「被害報告!」
「全員無事。でも、三番陣地と五番陣地が……あと、一番弩の台座、半分」
ネジが悲鳴のような音を立てて愛機に駆け寄った。滑車が一段、台座の右半分ごと琥珀色の泥に沈んでいる。工房長は泥を蹴り、袖をまくり、無言で修理を始めた。直す気らしい。あの状態から。
「マスター。次の酸が来たら、最終ラインは保たない」
「ああ、知ってる」
俺は戦況板を見た。見るまでもなかった。
弩は効かない。槍も効かない。一番弩は学習されて当たらず、台座も半壊。崩落は残り――自爆区画の三十六本だけ。
そして女王は、賢い。
さっきから奴は、大空洞の中央へ踏み込もうとしない。壁沿いを、ゆっくりと回り込むように動いている。崩落という手品を二度見た獣は、三度目の舞台に上がってくれないのだ。
「ノア。奴をあの三十六本の真下に立たせる方法は、一つしかない」
「……どんな?」
「奴がどうしても欲しいものを、真下の先に置く」
「欲しいものって」
俺は、背後を親指で指した。
コアの間の、扉を。
ノアの顔から、表情が消えた。元から薄いやつが、完全に消えた。
「正気?」
「勝利条件はコアの破壊だ。コアへの道が開けば、奴は必ず最短距離を踏む。最短距離は自爆区画のド真ん中を通る。地形は九十日前から、そういうふうに掘ってある」
「コアの扉を開けるってことは、賭けに負けたら、即、全部終わるってこと」
「だから賭けに見せない。……敗走に見せる」
「却下」
ノアは、即答した。
「起動索は物の索。コアの間からじゃ、引けない。つまりあなたは、扉の前――女王の突進の正面に、立つことになる」
「九十日計画の最終頁に、最初から書いてあるだろう。『最後の崩落は、俺の判断で落とす』。判断ってのはな、見える場所でしか下せないんだ」
「マスターが死んだら、即、敗北。全部終わる。あなたが一番よく知ってるルール」
「ああ。だからこそだ」
俺は、戦況板の数字を叩いた。
「考えてもみろ。うちで一番安くて、一番効く囮はなんだ? 槍でも宝でもない。マスター本人だ。仕入れ値ゼロ、効果は絶大。こんな優良物件を倉庫で寝かせる経営者がいるか」
「……命を、物件って言わない」
言い合いの途中で、のしりと影が差した。ガロだ。欠け耳の隊長は、灰板の図面と俺を見比べて、太い指で自分の胸を二度、叩いた。
――俺が、囮をやる。
「駄目だ」
即答した。
「お前じゃ役者が足りない。奴が百年で学んだ価値の序列で、ホブゴブリン一体とマスター本人じゃ、餌の桁が違う。……それにな、ガロ」
俺は、隊長の目を見た。
「お前が槍で前に出るとき、俺は止めないだろう。それがお前の持ち場だからだ。なら、これは俺の持ち場だ。同じ理屈だ。呑め」
ガロは長いこと俺を睨み――やがて、誰よりも深く、頭を下げた。
ノアはまだ何か言いたげだったが、最後には小さく息を吐いた。
「……起動索が引かれるまで、わたしもコアの間を出ない。あなたの隣にいる。これは交渉じゃなくて、決定」
「精霊は領域と一心同体だろうが。好きにしろ」
好きにしろ、は了承の意味だ。九十日も一緒にいれば、それくらいは通じる。
俺は鐘を借りて、全班に下げ札を回した。作戦名は、書かなかった。書くとすれば、こうなる。
撤退芝居。一幕物。主演、俺。
準備の間に、一つだけ妙な指示を出した。
「モチ。殺し間に残ってる死骸――毒で死んだやつを、還元せずに運べ。自爆区画の縁に、山にして積んでおけ」
「ぷる?」
「食うなよ。運ぶだけだ」
ノアが眉をひそめた。
「回収しないの? 死骸はうちの収入なのに」
「いいんだ。あれも指示のうちだ」
理由は言わなかった。言えば芝居の台本が増える。今は、配役の頭数だけで手一杯だ。
モチは不思議そうに震えてから、ころころと転がっていき、言われた通り、毒の死骸を一体ずつ押し運び始めた。白い体が死骸の山を築いていく様は、戦場の墓守のようだった。
言いつけ通り、モチは一度も「つまみ食い」をしなかった。山を運ぶ白い背中は、自分の仕事の意味を問いもしない。問わないことが、これほど頼もしい夜も、そうはない。
開幕は、ガロの「潰走」からだった。
鐘が乱れ打ちに鳴る。教練で一度も使ったことのない、でたらめな拍子で。
槍班が崩れた。弩班が散った。隊列はばらばらに割れ、悲鳴じみた鳴き声を上げて、コアの間の方向へ雪崩を打つ。
――ように、見える。
実際には、全員の足は決められた経路の上にあり、捨てていく装備は溶け残りの屑だけで、転ぶ位置すら下げ札で指定済みだ。
下げ札には、こうある。『七番、岩の手前で転ぶ。槍は左に投げ捨てる。拾いに戻らない』『チビ、二回転ぶ。二回目で鳴く』。
チビの転びっぷりは、本番に強いというのか、稽古の十倍下手だった。手足をばたつかせ、裏返った声で鳴き、味方の屑槍につまずいてもう一回転んだ。台本にない三回目だ。あまりの本物っぽさに、観戦窓の光点までざわついた。
九十日仕込んだ練度を、潰走の演技に全部注ぎ込む。世界一手間のかかった、世界一見苦しい退却だった。
『……ほう?』
女王の複眼が、明滅した。
疑っている。当然だ。ここまでの俺の手口を見てきた獣が、都合のいい崩壊を信じるはずがない。
だから、最後の一押しは、俺だ。
俺はコアの間の扉を、内側から、開け放った。
ひび割れた水晶の淡い光が、大空洞へ漏れ出す。そして、その光を背にして――マスター本人が、敵の視界に、立つ。
『………』
女王の動きが、止まった。
「ノアは下がってろ。ここから先は、俺の囮代の領分だ」
「……起動索」
「握ってる」
左手に、起動索。背中に、コア。正面に、百年の女王。
怖くないと言えば、嘘になる。
膝は正直なもので、さっきから小さく笑っている。九十日前、コアの間で初めて立ち上がったときと、同じ膝だ。それでも立っていられるのは、度胸の問題じゃない。背中のコアの向こうに、明日も点呼の声がそろう朝礼があるからだ。守るものの目方が、膝の震えを上から押さえつけてくれている。
わかっている。これが釣りである可能性くらい、奴は百も承知だ。承知の上で、それでも踏み込むしかない理由が、奴にはある。
残り時間だ。
時間切れは、両者死。手詰まりのまま五時間を溶かせば、勝者なき没収が待つだけ。なら、罠の可能性込みでも、開いた扉に賭ける方が「合理的」だ。
俺はお前の合理を信じてるよ、グルム卿。
九十日前から、ずっとだ。
『――愚かな新入りよ』
女王が、身を低くした。六本の……いや、五本になった脚に、力が溜まる。
『それとも、誘っているのか? どちらでもいい。確かめる方法は、一つしかない』
来る。
「ようこそ」
俺は、囁いた。
「いらっしゃいませ、だ」
女王が、跳んだ。
【戦況記録 経過六八時間】
残高:196.4(陣地修繕・一番弩応急修理)/敵性残存:女王体+護衛約二六〇
特記:撤退芝居、開演。コアの間の扉、開放。モチに毒死骸の集積を指示(理由は当日まで伏す)。起動索は俺の左手に。
制限時間まで、残り四時間。
(第18話・了)




