第16話 百年の女王
足音の主が現れるまでの猶予を、俺は一秒も無駄にしなかった。
「第二絞り、放棄。全班、最終ラインへ後退」
「いいの? 九十日かけた絞りを」
「絞りの仕事は物量を捌くことだ。物量戦は、もう終わった」
ここから始まるのは、別の戦争だ。
最終ライン――コアの間の手前に広がる大空洞。九十日計画の最後の頁、予備計画第三系統。空洞の天井と壁には、モチが食い細らせた支保が三十六本。全部まとめて落とせば、空洞そのものが消える「自爆崩落区画」だ。起動索は一本だけ。握るのは、俺。
負傷者と飼料と工房の資材を、コア奥へ後送する。のっぽが包帯のまま手伝いに駆け回り、チビが弩班の新しい持ち場に矢箱を積み上げていく。
後送品の列の最後尾には、薬草床から株分けした苗の箱を付けた。ノアが「それも?」という顔をしたが、当然だ。あれは迷宮再建の元手であり、リーゼたちが通ってくる理由であり、要するに戦後の事業計画そのものだ。
負けた時のことは、考えない。だが勝った後のことは、常に考える。それが経営だ。
その混雑の中、ネジが妙なものを運ばせていた。
布を被せた、何か。大きい。荷車二台分はある。戦いの合間、工房に籠もっていると思ったら、三日間ずっとこれを組んでいたらしい。
「工房長。それは?」
ネジは布の端を押さえ、ぶんぶんと首を振った。まだ見せられない、ということらしい。それから指を一本立てる。あと一刻、か。
「……間に合わせろよ、工房長」
こきり、と頷いて、ネジは布の塊と一緒に陣地の奥へ消えた。手の内を明かさない職人を、俺は信用することにしている。自分がそういう性格だからだ。
ず……ん。ず……ん。
足音は、一歩ごとに重くなった。
湧き水の水面が震え、灰板の上で灰棒が踊り、コアの間の水晶までもが、共振してかすかに鳴いた。音ではなく、質量が歩いてくる。地面越しに、そう分かる足音だった。
弩班の列で、若い番号持ちが一体、槍の柄を握り直した。隣の番号持ちが、無言でその肩に自分の肩をぶつける。誰も持ち場を離れない。誰も、目を逸らさない。
怯えはある。だが浮き足立ちが、ない。
九十日前にカタログから生まれ落ちて、びくびくと辺りを見回していた連中の、これが今の顔だった。
足音が、回廊の出口で止まった。
そして――出口が、軋んだ。
黒い回廊の口は、兵隊蟲なら二十が横隊で通れる広さがある。その口を、向こうから来た「それ」は、通れなかった。
通れないなら、どうするか。
広げるのだ。体で。
めき、めきり、と系統の構造物が悲鳴を上げ、回廊の口が内側から押し拡げられていく。やがて、薄明かりの中に、それは姿を現した。
山だった。
黒曜石を積み上げた山が、六本の脚で歩いていた。体高は大空洞の天井に届くかという巨躯。頭部には王冠のように隆起した甲殻が連なり、その下で、無数の複眼が静かに明滅している。
一歩ごとに床が鳴り、積んだ矢箱の蓋が跳ねた。
よく見れば、甲殻のそこかしこに、古い武器が刺さったまま呑み込まれている。剣。槍。折れた斧。砕けた杖。百年分の敗者の遺品を、抜きもせず、鎧として着て歩く生き物だった。
【敵性大型個体:解析不能/推定:葬甲蟲・女王体】
『……窮屈な巣だ』
声は、もう伝声蟲を介していなかった。
山そのものが、喋っていた。
「ノア」
「……間違いない。あれが、グルム本体。蟲毒の穴のマスターは、人間じゃない。蟲そのもの」
マスター本人の出撃。戦死すれば、即敗北。その規則を、百年選手は百も承知のはずだ。承知の上で、出てきた。
俺に補給を焼かれて、時間切れの没収が見え始めて、それでもなお勝つ気で。
「光栄に思っておくよ、グルム卿。あんたの百年の決まり手を、俺ごときに切らせたわけだ」
『減らず口も、あと半日だ』
女王が、一歩を踏み出した。
その足元に、よろよろと兵隊蟲が一匹、縋るように近寄った。飢えた配下だ。補給を断たれ、毒の海の上で三日目を迎えた、奴の手駒の一匹。
女王は、それを一瞥もしなかった。
ただ、通りすがりに――食った。
六本脚の一本が無造作に配下を貫き、口元へ運び、噛み砕く。咀嚼は二度。それきりだった。歩みは、止まりもしなかった。
「……ッ」
ノアが息を呑む。
見れば、女王の肩口にあった古傷――回廊をこじ開けたときの裂け目が、見る間に泡立ち、塞がっていった。
食って、治った。
「ノア。蟲毒って名前の由来、知ってるか」
「……壺に、蟲をたくさん入れて。共食いさせて。最後に残った一匹を、毒にする呪い」
「そうだ。あれは比喩でも看板でもない。――あいつが、最後の一匹だ」
共食いの壺の底で百年勝ち残った、生きた呪い。配下の三千は軍隊であると同時に、奴の歩く食糧庫だったわけだ。
俺は手元の戦況板に、淡々と一行を書き加えた。
『女王体:摂食による自己修復を確認。装甲:崩落罠――』
書きかけた手が止まる。落ち着け。震えるな。数字は嘘をつかない。なら俺は、数字を書き続けるだけだ。
『装甲:崩落・弩・槍の有効性、要実測』
その実測は、すぐに済んだ。
女王の進路に、残してあった崩落トラップの一つがあった。支保はとうに食い細らせてある。三千の軍勢相手に使うはずだった、虎の子の一基。
女王は、それを避けなかった。
天井ごと、踏み抜かせてやった。轟音。土煙。岩塊数百が、まともに直撃する。
土煙が晴れたとき、女王はそこに、立っていた。
甲殻に、白い擦り傷が、数本。
それだけだった。
『……今のは、数に入れてやろう。残りの小細工は、あと幾つだ?』
観戦窓の光点が、また増えた。四十七。五十一。壁一面の沈黙が、こちらの胃に重い。
「ねえ、マスター。一つだけ、聞いていい」
ノアが、俺の隣で囁いた。
「勝率。いま、いくつ」
「さっき計算し直したところだ」
「……いくつ」
「教えない。知りたければ、終礼まで生き残ることだ」
ノアはしばらく俺を見上げて、それから、ふいと戦場へ向き直った。
「……じゃあ、生き残る」
上出来な返事だった。
「ガロ、弩は関節と複眼以外撃つな。槍班は接敵禁止、誘導のみ。モチは私語……はいいから所定位置。ネジ――」
工房の方角から、こきり、と頷く気配だけが返った。
最後に、点呼を取った。
「ガロ」
「ガロッ」
「ネジ」
こきり。
「モチ」
ぷる。
「チビ、のっぽ」
「ギャッ!」「ギャウ!」
「番号持ち、全員」
「「「ギャッ!!」」」
「ノア」
「……ここにいる」
「よし。全員いるな」
それを確かめる作業に、戦術上の意味はない。ないが、九十日前からずっと、うちの一日はこれで始まってきた。だから今日も、これで始める。
俺は息を吸って、吐いた。
脳内の帳簿をめくる。残高、手札、地形、時間、そして九十日ぶん積み上げた、うちの従業員たちの練度。
全部まとめて、机に載せる時が来た。
「総員、最終配置。――決算の時間だ」
【戦況記録 経過六四時間】
残高:305.0(最終ライン増強・矢弾備蓄・工房長への材料費で大幅支出)/敵性残存:推定七六〇+女王体
特記:グルム本体=葬甲蟲・女王体、出撃。摂食による自己修復と、崩落直撃に耐える装甲を確認。蟲毒の名は伊達ではなかった。残る崩落は自爆区画の三十六本のみ。起動索は、俺の手の中。
制限時間まで、残り八時間。
(第16話・了)




