第15話 死の複利
逃走経路は、最初から決めてあった。
真っ直ぐ帰らず、旧坑道の中でも一番天井が低く、一番狭い枝へ。人間なら四つん這いになる隘路は、しかしゴブリンには走れる道で、蟲どもには――数の利が、完全に死ぬ道だ。
「ガロ、振り返るな! 角を二つ抜けたら左、下りだ!」
鴉の目で見る背後の闇から、殻の擦過音が津波のように追ってくる。壁を食い破った兵隊蟲の群れ。だが隘路では一列にしか並べない。三千の軍勢だろうが、先頭は常に一匹だ。
その一匹を、殿のガロが槍で迎え撃つ。突く、捻る、抜く、走る。また突く。教練通りの一撃離脱を、後ろ向きに走りながらやってのける。
穂先が三体目で曲がった。ガロは舌打ち一つせず、背中の予備に持ち替える。第二絞りに予備槍を積みたいと具申した男は、自分の背中にも、ちゃんと二本差していた。
「チビ、先導! 三番、七番、隊列維持!」
下り坂に入った、そのときだった。
チビが、瓦礫に足を取られた。
小さな体が転がる。背負ったのっぽの弩が、がしゃりと鳴る。後続の三番が抱え起こそうと足を止め、隊列が詰まる。背後から、黒い先頭が迫る――
「ギャッ……!」
チビは、自分で跳ね起きた。
起きざま、振り向き、膝立ちのまま、背中の弩を構えた。のっぽに押し付けられた、あの弩を。
ばしゅ、と。
ボルトが闇を裂き、先頭の蟲の関節膜を正確に貫いた。つんのめった死骸に後続がつかえ、隘路が、一瞬だけ詰まる。
その一瞬で、隊列は立て直った。
「……いい腕だ、チビ。終礼で褒めてやる、走れ!」
最後の直線。出口の手前で、モチが待っていた。全員が駆け抜けた直後、白い体が天井の支保を呑み込み――轟、と。
坑道が、閉じた。
岩の壁の向こうで、追撃の波が鈍くぶつかる音を、二度、三度。それきり、静かになった。
夜行隊、帰還。欠員、なし。
「……終礼に、全員出たな。上出来だ」
俺の声は、自分で思ったより、掠れていた。
出迎えは、ささやかな騒ぎになった。
のっぽが包帯姿で飛びついてきて、チビと額をごつんとぶつけ合う。ネジは帰還した隊員を一人ずつ、道具を検品する手つきで触って回り、欠けがないのを確かめて、こきりと頷いた。モチは……帰投した瞬間、定位置で丸くなって寝た。働き者の眠りだった。
「全員、飯と仮眠。戦果は寝てる間に出る。……出るといいな」
仕込みが効かなければ、あの夜行はただの命懸けの散歩だ。祈る趣味はないが、この夜ばかりは、数字よりも夜明けの方が待ち遠しかった。
そして――三日目の朝が来た。
最初の異変は、戦況板の、たった一桁だった。
【敵性残存:推定二、一四〇】
【敵性残存:推定二、一二八】
「ノア、これは」
「前線の蟲が、倒れてる。……戦闘以外で」
来た。
仕込みから六時間。夜のうちに配給網に乗った「在庫」が、前線の胃袋に届き始めたのだ。
毒で死んだ蟲は、ただの死骸になる。死骸は、仲間に食われる。食った蟲は、毒ごと食う。そしてまた、死骸になる。
【推定二、〇六〇】【推定一、九七〇】【推定一、八四〇】
減る。減る。減る。
殺し間の向こうで、戦列の蟲が前触れなく崩れ落ちるのが見えた。それに群がった僚蟲が、貪り、痙攣し、折り重なる。死骸の山が、新しい死骸を呼ぶ。
「すごい……止まらない。なんで、こんなに広がるの」
ノアが戦況板に張り付く。観戦窓の光点も、明らかにざわついていた。点滅が速い。よその迷宮の主たちが、身を乗り出している。
無理もない。彼らが見ているのは、一兵も損なわずに敵軍が溶けていく光景だ。矢も槍も飛ばず、ただ数字だけが、雪崩を打って減っていく。
「複利だよ」
俺は、流れ続ける数字を見ながら言った。
「元金が利子を生んで、利子がまた利子を生む。あいつの軍は『死骸が兵力を生む』仕組みで百年回ってきた。なら、死骸に毒を混ぜれば――死が、死を生む。増殖の数式は、そっくりそのまま、死の数式になる」
雪だるまが坂を転がるのに、二十個の殻で十分だった。あとは、奴の自慢の補給網が、勝手に毒を配って回ってくれる。
『……ォォォ……』
うめき声のような音が、回廊の奥から響いた。
『何をした』
声が、震えていた。百年選手の、初めて聞く声色だった。
『何をしたァ……ッ、新入りィィ!!』
「仕入れ先は選べよ、グルム卿」
俺は、努めて静かに返した。
「あんたの強さの根は『死骸を食えば増える』だ。検品なしで、なんでも食う。だから誰も、あんたの皿には盛り付けようと思わなかった――俺以外はな」
『貴様……貴様ァ……!』
怒声が、ふいに、低く粘る笑いに変わった。
『……フ、フフ。いい。実にいい。毒とはな。配下の死骸に細工をし、敵の食卓に並べる。それを「効率的」と呼べる頭。……新入りよ、お前、私と同じ側の生き物だろう』
「………」
『お前も、配下を数で数えている。損耗を帳簿につけている。違うか? 私との差は、たかだか百年の年季だけだ。お前の迷宮も、いずれ私の巣と同じ形になる』
昨夜、敵の台所を見たときの、あの冷えが背筋に戻ってきた。
完璧な工場。俺の合言葉の、完成形。
「……かもな」
だから、否定はしなかった。
「俺もあんたも、効率で回ってる。そこは認めよう。ただ一つだけ、決定的に違う点がある」
『ほう?』
「俺は、うちの従業員を食わない」
それが強さの差になるのか、ただの感傷なのか、今の俺にはまだ分からない。分からないが、そこだけは譲る気がなかった。譲ったら、何かが終わる気がした。
『……青いな。百年後に、同じ口を利けるか見ものだ』
「数はそれ自体じゃ暴力にならない。数を兵力に変える『仕組み』が暴力なんだ。そして仕組みってのはな、数字でできてる」
だから。
「――数の暴力は、数字の暴力で殺す。それだけの話だ」
回廊が、沈黙した。
観戦窓の光点が、いつの間にか倍近くに増えていた。三十八。誰も何も言わないのに、壁一面の視線が、ざわめいて見えた。
【敵性残存:推定一、二〇〇】【推定一、〇五〇】【推定九二〇】
昼を回る頃、数字は八百台で、ようやく緩やかになった。
グルムが配給を止め、汚染された集積所ごと放棄したのだ。判断は早い。だが、もう遅い。奴の軍は補給を失った。残った八百は、食えば死ぬ死骸の海の上で、ただ飢えていくだけの八百だ。
「……勝てる」
ノアが、ぽつりと言った。
「残り八百なら、第二絞りで受け切れる。時間も、まだある。勝てる、よね?」
俺は、すぐには頷かなかった。
数字は良くなった。だが、九十日計画の前提その三が、まだ盤面に出ていない。
『フ……フフ……』
低い、笑い声がした。
怒声よりも、よほど嫌な響きだった。
『認めよう、新入り。十二匹の中で……いや、この百年で、お前は最悪の鼠だ』
ず……ん、と。
地の底から、何かが動く音がした。回廊全体が、みしりと軋む。
『光栄に思え。私に「本体」を使わせたのは――百年ぶりだ』
ず……ん。ず……ん。
音が、近づいてくる。
何かが、歩いてくる。
【戦況記録 経過六〇時間】
残高:612.3(毒による戦闘還元が一括計上。久々の大幅黒字)/敵性残存:推定八〇〇+「何か」
特記:夜行隊全員生還。チビ、初戦果。敵補給拠点は機能停止――敵総量、三日目にして純減に転落。ただし回廊最深部より大型反応、接近中。
制限時間まで、残り一二時間。
(第15話・了)




