第11話 第二絞り
後退、という言葉の響きは良くない。
だが、正しく設計された後退は敗走ではない。あれは配置転換と呼ぶ。
ガロの鐘三つから百を数える間に、全班が第二絞りの持ち場に収まった。教練通り。落伍なし。置き去りの負傷者、なし。
「ノア、戦況板」
【経過:九時間/敵性残存:推定二、四〇〇/味方:軽傷四、重傷一、死亡なし】
「よし。ここまで、予定通りだ」
「……それ、強がりじゃなく?」
「帳簿を見ろ。強がりは数字に出る」
重傷の一は、第一線の退き際に殿を務めた九番だ。回復薬を流し込まれて、すでに包帯の下で寝息を立てている。軽傷の四は手当の順番待ちをしながら、ネジの配る交換用の槍を受け取っていた。
浮き足立った顔が、一つもない。
後退してきた職場の空気としては、上出来を通り越して異常だった。九十日の教練は、伊達ではなかったらしい。
「全班、これより二交代制に移行する。半数は持ち場、半数は飯と睡眠。戦争は長い。寝るのも業務だ」
「ギャッ!」
返事だけは威勢よく、しかし誰も動かない。
「……命令だ。寝ろ」
渋々と半数が下がっていく。働き者ぞろいで結構なことだが、過労は判断を殺す。それで死んだ男が言うのだから、間違いない。
俺は灰板に、第一防衛線の「決算」を書き出した。
「第一線の役割は、もともと三つだ。一つ、実測。蟲の橋なんて工法、話に聞くのと実物を見るのとじゃ大違いだ。橋を組む速さ、必要な頭数、そして――必要な『高さ』。全部、計らせてもらった」
「二つ目は」
「引き込みだ。敵の全量を、うちの領域内に入れる。回廊の中の敵は手が出せないが、うちの中の敵は、死ねば全部還元対象になる。それに」
それに、敵が全軍こちらに入っているなら――向こうの家は、今ごろ、がら空きだ。
この一行は、まだ口にしない。仕込みの前に喋る作戦は三流のやることだ。
「三つ目は、時間稼ぎ。モチの最後の仕上げが、ぎりぎりまでかかったんでな」
「仕上げ?」
「天井だよ」
俺は、第二絞りの坑道を顎で指した。
天井が、低い。
大人の人間なら、屈まねば歩けない高さ。モチが三日かけて、上から食い下げた特注の坑道だ。
「蟲の橋は、三段積んでようやく天井に届く工法だった。なら、二段すら積めない天井なら、どうなる?」
「……橋が、架からない」
「そういうことだ。ついでに言えば、この高さはうちの従業員には適正身長でな。屈むのは敵だけ、撃つのはこっちだけ。――職場環境ってのは、働く者の規格に合わせて作るもんだ」
ほどなく、敵の第二波が来た。
低い天井の下、黒い奔流の様子は一変した。
天井を走ろうとした蟲が、低さに戸惑って減速する。仲間の背に乗り上げた蟲が、頭を天井に擦って転げ落ちる。三段の橋を組もうとした一群は、二段目の途中で天井につかえ、自重で潰れた。
積み上がれない物量は、ただの渋滞だ。
渋滞は幅三体分の行列に絞られて、のろのろと、殺し間に首を差し込んでくる。
カン、カン。
ガロの鐘。弩の斉射。槍衾。一射ごとに行列の先頭が崩れ、崩れた死骸が次の蟲の足をもつれさせる。モチの白がその間を縫って、死骸を端から呑んでいく。死骸という死骸が、敵の食料になる前に、うちの収入に変わっていく。
低い天井の下では、屈んでいるのは敵だけで、撃っているのはこちらだけだった。
「ギャッ! ギャギャッ!」
弩班のどこかから、調子に乗った鬨の声が上がる。
「私語が多いぞ。……まあいい、今日は許す」
【処理速度:毎刻六四/流入速度:毎刻五一】
数字が、ひっくり返った。
「……回ってる。今度こそ、設計通りに」
「観戦の接続、二十五に増えた。賭けの倍率も、動いたみたい」
「俺に張った物好きは儲かるぞ。いまならまだ大穴だ」
「……マスター、それ、自分の命の話」
「命の話だからこそ、強気で値付けするんだよ」
夜に入る前に、一つ確認しておくことがあった。
「ノア。最悪シナリオの確認だ。七十二時間、互いのコアが無事だったら、どうなる」
「両者敗北。コアは両方、系統が没収する」
「……引き分けなし、か」
「淘汰戦に、引き分けはない。時間が切れれば、二つとも消える。必ず、最低どちらかが消えるようにできてる」
よくできた仕組みだ、と思う。
誰が何のために設計したのかは知らないが、殺し合いを途中でやめさせない、という一点への執念だけは、嫌というほど伝わる。グルムが急ぐ理由も、俺が籠もりきれない理由も、最初から系統の手のひらの上というわけだ。
「胴元が一番悪どい。どこの世界も同じだな」
それに、気づいたことがもう一つある。
「ノア。蟲毒の十二連勝、全部『半日以内の決着』だったな」
「うん。物量の速攻。それが蟲毒の型」
「あれは性分じゃない。このルールへの最適解だ」
時間切れは、両者死。なら、長期戦という選択肢は最初から罠だ。立ち上がりに全戦力を注ぎ込み、相手が態勢を整える前に呑み込む。乱暴に見えて、あの物量速攻は、淘汰戦という制度そのものへの、百年かけた模範解答なのだ。
「つまり、奴の型を崩したうちの戦いは……」
「ああ。グルムにとっても、十二回の中で初めての『長い夜』だ。未知の時間帯に、奴が何を出してくるか――そこからが本番だよ」
深夜、異変が来た。
敵の波が――止まったのだ。
殺し間の手前で、黒い奔流がぴたりと静止する。退きもせず、押しもせず、複眼の海がただ、こちらを見ている。
「攻め疲れ?」
「いや」
これは観察だ。湯気の立つ機械を前に、図面を引き直している技師の沈黙だ。
『ほう……』
粘つく声が、静寂の上を転がった。
『巣を低くしたか。橋を測っていたな、新入り。あの捨て方は、ただの敗走ではないと思っていたが』
「お互い、観察が趣味らしい」
『面白い。実に面白い。十二匹の「考える新入り」の中で、お前は一番、嫌な目をしている』
褒められて光栄だ、と返す前に、声は消えた。
蟲の海が、ゆっくりと後退していく。夜の戦場に、殻の擦過音だけが遠ざかる。
静寂が来ても、最初は誰も持ち場を動かなかった。
やがてガロが鐘を半分だけ――カ、と短く鳴らして、警戒待機を宣した。半数が弩を構えたまま、半数が冷めた飯を掻き込む。戦場の飯は早い。チビなどは握り飯を頬に詰めたまま寝落ちて、のっぽに小突かれていた。
俺はその光景を横目に、灰板の数字を直す。
働いて、食って、寝る。それが回っている限り、うちはまだ負けていない。
「……マスター。引いていく。どうして」
「次の手を作るためだろう。あの静けさは、諦めた奴の静けさじゃない」
百年選手が、初日の手札を全部見せて終わるはずがない。九十日計画の前提その三――『グルムが、見せていない切り札を持っていたら』。
それが何かを知るまで、こちらの仕込みも温存だ。
未明。
仮眠から叩き起こされたのは、警報ではなく、音だった。
じゅう、と。
肉の焼けるような、岩の溶けるような音。囮三号枝道の方角から、焦げた臭いが流れてくる。
ノアの声が、強張った。
「マスター。三号枝道の支保柱が――溶けてる」
【戦況記録 経過一二時間】
残高:503.8(戦闘還元・死骸還元により増)/敵性残存:推定二、二六〇
特記:第二絞り、機能良好。敵、夜間に一時後退。未明より囮枝道の構造材に溶解反応。新型の気配。
制限時間まで、残り六〇時間。
(第11話・了)




