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第10話 淘汰戦、開戦

開戦の一刻前、俺は全部署を歩いて回った。

殺し間の弩座では、ネジが十二丁目の弦を爪で弾いて、音を確かめていた。納得のいく音だったらしく、こきりと頷く。囮の枝道では、チビとのっぽが、撒いた魔石くずの配置を手順書通りに直していた。大広間を見下ろす指揮壇では、ガロが鐘の紐を握ったまま、微動だにしない。

「総員、朝飯は食ったな」

「ギャッ!」

「よし。――今日の業務は、いつも通りだ。手順を守り、持ち場を守り、全員で終礼に出る。以上」

気の利いた訓示は性に合わない。うちは、そういう職場じゃないのだ。


九十日目の夜明けは、音から始まった。

ぴし、と。

二層大広間の北壁に、墨で裂いたような黒い線が走った。線は瞬く間に枝分かれし、壁一面に広がり――次の瞬間、壁が「向こう側」まで抜けた。

穴ではない。トンネルでもない。岩盤のあるべき場所に、黒い回廊が、当たり前のような顔をして存在していた。回廊の奥から、生ぬるい風が吹き込んでくる。甘ったるい腐臭の混じった、他人の家の臭いだ。

【第六三期 淘汰戦を開始します】

【対戦:四九号 対 三一号『蟲毒の穴』】

【制限時間:七二時間/勝利条件:敵対迷宮核の破壊】

【観戦接続:一七】

系統の無機質な通知が、視界に並ぶ。

回廊の壁面は、夜空を裏返したような質感で、目を凝らすと小さな光点が無数に瞬いていた。

「あれは?」

「観戦窓。よそのマスターの、視線」

十七対の目が、壁の向こうからこの戦場を見下ろしている。闘技場の貴賓席というわけだ。悪趣味なこった。

「観戦十七。……朝から見世物か」

「マスター」

ノアが隣に浮く。いつもの平坦な声。ただ、その小さな手が、俺の袖を摘んでいた。本人は気づいていないらしいので、指摘しないでおく。

「全班、配置完了。鐘の用意よし。崩落六箇所、起動索よし。モチ、所定位置」

「了解だ」

回廊の奥で、空気が蠢いた。

『――やあ、新入り』

粘りつく声が、先触れもなく転がり込んでくる。回廊の入口に、ひときわ大きな蟲が一匹、姿を見せた。伝声用の個体らしい。複眼の奥に、あの古い気配がある。

『巣を作り替えたな。九十日で、ずいぶんと肥えた』

「そっちは変わらないようで何よりだ、グルム卿。十二連勝の老舗が、開店前の挨拶とはご丁寧に」

『口の回る餌は久しぶりだ。……一つだけ教えてやろう。私はこの戦を、百年やっている。お前のような「考える新入り」を、十二匹呑んだ』

「奇遇だな」

俺は、回廊の闇を見据えた。

「俺も前の世界で、二十七年『考えない大手』に呑まれ続けた。手口の研究なら、負ける気がしない」

『……クク。せいぜい囀れ』

伝声蟲が、口を閉じた。

そして――回廊の奥から、音が来た。

ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。

殻と殻の擦れる音。最初は雨垂れ、すぐに豪雨、やがて地鳴り。

黒が、来た。


床を、壁を、天井を、黒い甲殻の奔流が埋め尽くして溢れ出てくる。個々の蟲ではない。「黒」というひとつの液体が、大広間に注ぎ込まれてくる。

奔流が広間に満ちるにつれ、空気そのものが変わった。殻の擦過音。饐えた酸の臭い。床を伝う、無数の脚の振動。地鳴りは、もう止まない。

【敵性反応:四〇〇……六〇〇……継続増加】

「全班、手順通り。――ガロ」

ガロが、鐘を一つ打った。

カン、と澄んだ音が坑道に渡る。大広間の照明用の苔が一斉に消え、敵の只中で、囮の餌場だけが甘く光った。死骸と魔石くずを撒いた、行き止まりの枝道が三本。

黒い奔流が、音を立てて三つに裂けた。三割が餌場へ吸われていく。仕込んだ通りだ。蟲は理性で動かない。食欲で動く。

「一番囮、充填七割……いま」

モチが、遠隔の起動索を食い千切った。

轟、と天井が落ちる。枝道一本分の黒が、岩盤の下に消えた。

【戦闘還元:+9.2DP】

残る本流は、大広間から「絞り」へ殺到する。幅三体分に圧縮された黒い行列が、殺し間へ、自分から首を差し込んでくる。

ガロの鐘が、二つ。

カン、カン。

「放てっ――」

弩十二丁の斉射が、行列の先頭を薙ぎ払った。続けて槍衾が、絞りを抜けた個体を縫い止める。足元では、モチの白い体が死骸から死骸へ滑り、端から呑んでいく。

【還元:+0.7】【還元:+0.8】【還元:+0.7】

死骸が、残らない。

増殖の燃料が、戦場から消えていく。敵の兵站が、リアルタイムでうちの弾薬費に変わっていく。

「……回ってる」

九十日かけて組んだ機械が、設計通りに回っている。

処理速度、毎刻六十超。試算を上回るペースだ。このまま回せば、七十二時間を待たず敵は払底する。

「観戦の接続が、増えてる。十七から、二十二」

「見世物として上等ってことだろ」

新入りが、百年選手を捌いている。よその迷宮の主たちには、さぞ奇妙な見ものに違いない。

――そう、思った矢先だった。


「マスター」

ノアの声が、半音下がった。

「絞りの上。天井」

視線を上げて、息が止まった。

蟲が、蟲を登っていた。

絞りの両脇で、蟲たちが互いの体に爪を立て、組み合い、積み上がり――生きた足場を作っていた。一段、二段、三段。後続が先行の背を駆け上がり、天井に達し、殺し間の頭上を素通りしていく。

橋だ。

奴ら、自分の体で橋を架けやがった。

『――どうした、新入り』

粘つく声が、嗤った。

『絞れば止まると思ったか? 数はな、積めば「構造」になるのだよ。道がなければ、道になればいい。それが物量というものだ』

「……っ、弩班、仰角! 天井の橋を落とせ!」

斉射が頭上の蟲橋を撃ち崩す。だがその間、絞りの正面が薄くなる。正面を撃てば、頭上が通る。二正面だ。築いてきた漏斗の優位が、目に見えて削れていく。

「ガロ、弩班を二分しろ。奇数番は正面、偶数番は仰角のまま固定。槍班は絞りから二歩下げて、受けに回せ」

カン、カン、と変則の鐘が応じる。即応はできている。流量も、受け止めてはいる。だが「受け止めている」は「勝っている」ではない。

【処理速度:毎刻五八】【流入速度:毎刻六六】

差し引き、毎刻八ずつ、黒が戦線の内側に溜まっていく勘定だ。数字の上で、天秤が静かに傾き始めていた。

【突破流量:想定比一四〇%】

「第一線、左翼の槍班が押され始めた。負傷二」

「下げろ。手当班に回せ、死なせるな」

量産個体だろうと、うちの帳簿の住人だ。一行も消させる気はない。

担架代わりの盾に載せられて運ばれていく途中、傷ついたゴブリンが、すれ違いざまに弱々しく手を上げた。名前のない、うちの従業員。

「いい仕事だった。傷が塞がったら、終礼に出ろ」

だが、戦線は軋んでいた。物量は、ただの数じゃなかった。百年かけて磨かれた、工法だった。グルムは数を、橋に、盾に、梯子に変えてくる。こちらの設計の隙間に、質量そのものを流し込んでくる。

カン、カン、カン。

ガロの鐘が三つ――後退戦闘。

第一防衛線、放棄。手順書通りの、整然とした後退。それでも、退却は退却だ。

ネジが、弦を張る手を止めてこちらを見た。チビの耳が、ぺたりと伏せている。ノアの指が、まだ俺の袖を摘んでいる。

観戦席の連中も、きっと同じことを思っているだろう。

ああ、今回の新入りも、ここまでか――と。

胸の内で、九十日計画の最終頁をめくる。第一防衛線の放棄、予定時刻は開戦から四刻。現在、四刻と少し。

俺は、ゆっくりと息を吐いた。

それから、皆に聞こえる声で、言ってやった。

「……予定通りだ」


(第10話・了)

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