私の周りの三人のAuDHD 〜ADHDとASDの併発は、辛さだけを生むのか〜
※この記事は、特定の生きづらさを否定したり、軽視したりするものではありません。家族の姿を通して、私なりに考えた個人的な記録です。
先日、ADHDとASDの併発は地獄だという言葉を見た。
私はそれに違和感を覚えた。
私の身近に、ADHDとASDが併発している人が3人いる。
娘と、夫と、義母だ。
このうち、夫と義母は、併発が地獄だと感じているようには思えない。
もちろん、本人がそう思っているかはわからないが、外から見たら、羨ましくなるほど安定している。
だから、夫も義母も、診断はない。私がみて、ASDとADHDの特性を感じ取っただけだ。
義母は、少女のまま老人になった。
思ったことをそのまま口にする。
興味のあることには夢中になる。
周囲の空気より、自分の感覚を優先する。
衝動的で、思ったらしないと気が済まない。
陣痛中に突撃してきたり、ノンデリ心配攻撃をしてきたりする。
けれど、義母はそれで困っているようには見えなかった。
それが許される環境だったからだと思う。
義母は早くに家庭に入り、その家庭の中心にいた。
家族は義母に合わせる。義母のやり方が基準になり、義母中心の世界ができていた。
そこへ、あとから私が入った。
私はその世界に違和感を覚えた。
なぜそうなるのだろう。なぜ誰も何も言わないのだろう。
けれど私は義母を変えようとはしなかった。
何も言わず、少しずつ距離を取った。
きっと、そんな人が私の他にもいただろう。
義母を受け入れる人もいた。
何も言わず、離れていく人もいた。
そのため、義母自身は変わる必要がなかった。
もしこれを生きづらさというなら、誰の生きづらさなのだろう。
少なくとも、義母本人は自分の特性に苦しめられているようには見えなかった。
夫もそうだった。
夫のマイペースさや空気の読めなさで、いつも私がダメージを受ける。
私は夫の誕生日にケーキを用意する。バレンタインにチョコレートを渡す。夫からは何もない。
自分では褒めないのに、自分のしたことは褒めてほしそうにする。
今それを言うのか、と思うこともある。
なぜそこに気づかないのだろう、と腹が立つこともある。
けれど、本人は案外安定している。
毎日同じルーティンである事務員という、職業選択も、本人にとって幸いしていると思う。
けれど、聞いた話では、子供の頃はイジメられたり、孤立したりしていたようだ。
本人のマイペースさで、いじめる側がいじめがいを失ったのではないかと思う。
※イジメられていたというのは私の推測で、本人にはイジメられていたという認識はない。
夫は転校が多く、関係がリセットされ続けた。それも夫には幸いした。
では、娘はどうなるのだろう。
娘は、夫や義母の持つマイペースさや、自分中心の考え方を受け継いでいるように見える。
自分の好きなことに夢中になる。
興味のあることを追いかける。
自分の世界を作る。
けれど、娘は夫とも義母とも少し違う。
娘は空気が読める。むしろ読みすぎることがある。
場所や相手によって振る舞いが変わる。
夫や義母は、自分のままでいられた。周囲の目が、本人を変えることはなかったのだと思う。
受け入れる人は残り、合わない人は離れていった。
どちらがいいのか、私にはわからない。
娘もそうなるだろうか。
大きくなって、生きづらいと言うのだろうか。
それとも、義母や夫のように、娘のまま、安定して生きられるだろうか。
私にはまだわからない。
実際に「併発は地獄だ」と言う人がいる。
その苦しさを否定したいわけではない。
ただ、私はその言葉の向こう側も知りたくなる。
併発が苦しみを生むのはわかる。けれど、娘を見ていると、それだけだとは思えない。
娘の発想の飛躍。次々と形を変えていく表現。
終わりのない探究心。
踊り、歌、工作。
娘が娘らしくあるために、娘の特性は必要だ。
もちろん困りごともある。
失敗もある。
傷つくこともある。
それでも、特性が生み出しているものは、苦しさだけではないはずだ。
大きくなった時、娘がどう思うかはわからない。
それでも私は、娘の特性が生み出すものが、いつか娘自身を支えてくれる力にもなると信じている。




