「おいしい」が足踏みになる 〜過度激動はなぜ表現を生むのか〜
娘は自己表現の方法が多い。
歌う。書く。作る。弾く。語る。演じる。踊る。
なかでも一番瞬間的なのは、身体から出てくるものだ。
即興でピアノを弾く。ピアノの練習を始める前に必ず即興演奏をする。練習より即興の方が長いくらいだ。
ボイスパーカッションは、何度やめてと言ってもやめない。
ホットプレートでたこ焼きをしたら、食べながら足でリズムを取っていた。食べ終わると、
「たこやきは四番目においしい」
と言った。
「楽しい」「おいしい」「嬉しい」
そういう気持ちは、言葉になる前に体から出てくる。わざわざ説明する必要がない。
「疲れた」「飽きた」「帰りたい」
も、もちろん出てくる。わかりやすい。
娘はよく、急に歌い出す。
先日、デラウェアを食べていたときのことだ。
娘は実を食べ終わったデラウェアの房を見つめていた。
そして突然、
「バナナみたい〜♪ バナナみたい〜♪」
と歌い始めた。
見ると、確かに少しだけバナナに見えなくもない。私は「なるほど」と思った。
けれど、娘はそこで終わらない。歌に合わせて、今度は踊り続ける。
バナナに見えたという発見は、歌になり、踊りになり、部屋の中をぐるぐる回るミュージカルになった。
別の日には、
「3数えたらもう未来〜♪」
と歌い出し、これもひとりミュージカルになった。
私は一瞬意味がわからなかった。けれど考えてみると、確かにそうだ。
1、2、3と数え終わる頃には、今ではなく少し先の時間になっている。
娘の頭の中で何が起きているのか、私にはよくわからない。
けれど、何かと何かが繋がった瞬間に、歌が生まれるのだと思う。
房がバナナに見える。
3のあとには未来がある。
そんな小さな発見が、なぜか歌になり、踊りになり、世界になっていく。
歌って踊るのに、道具はいらない。
鉛筆を持つより早く、形にできる。
けれど、踊りも歌も残らない。
娘のひとりミュージカルは、その瞬間に生まれて、その瞬間に消えていく。
一方で、娘は本も作る。
休日に突然クイズの本を作り始めたことがあった。
問題があり、迷路があり、ワープゾーンがあり、正解すると先へ進める。
娘は自分の描いた絵もよく見返している。
4歳の頃に描いたハートちゃんのお話は、特に何度も開いている。
最近はあまり絵を描かない。
描きたいものがなくなったわけではない。
ハートちゃんの図鑑を描きたいと話していたことがある。
ハートちゃんの仲間たちの設定を、忘れてしまう前に残したいのだと思う。
けれど、自分の手ではまだ頭の中にある完成形を表現しきれないらしい。
「上手く描けないから描きたくない」
と言うことも増えた。
その代わり、迷路やクイズは次々と作る。
今の娘には、そちらの方が思い描いたものを形にしやすいのかもしれない。
魚屋さんごっこや、自分図書館もそうだった。
物を作り、バーコードや値段をつけ、ポスターを作り、他者を巻き込む仕組みを作る。
歌のように消えていくのではなく、何度も繰り返せる。
他者を巻き込みたいもの、何度も反芻したいものは形の残るものにする。
「3数えたらもう未来」は歌になった。
魚屋さんは工作とごっこ遊びになった。
ハートちゃんは物語になった。
クイズは本になった。
「おいしい」は足踏みになった。
何が歌になり、何が本になり、何が迷路になるのだろう。
バナナみたいなデラウェアの房も、「3数えたらもう未来」も、その瞬間の発見だった。
けれどハートちゃんや、クイズの本には、見てもらうという目的がある。
図書館や魚屋さんには、人に来てもらうという目的がある。
もしかしたら娘は、消えてもいい発見は歌にして、
見せたいものは本にして、
参加してほしいものはごっこ遊びにしているのかもしれない。
表現方法を選んでいるのではなく、表現したいものによって、自然と形が決まっていく。
ひとりミュージカルを動画に撮ろうとしたことがある。
けれど、スマホを向けるとやめてしまうから諦めた。
娘のミュージカルは残らない。けれど、記憶には残っている。
そして歌にして踊りにしたものの数々が、また形を変えていくのだろう。
本になり、工作になり、新たな娘の表現になる。




